イェンコ・スティンガー
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「シボレー・コルヴェア」の記事における「イェンコ・スティンガー」の解説
コルベットでレース活動を行っていたドン・イェンコ(Don Yenko)はムスタングで参入して来たキャロル・シェルビーを前に勝利を収めることができなくなっており、そこで最初1966年モデルのコルヴェアを改造してレースに出場することに決めた。標準仕様のコルヴェアはSCCAのどのカテゴリーにも該当しなかったのでイェンコは4連装キャブレターのコルサから後席を取り外して「スポーツカー」仕様にしなければならず、この改造の過程で様々な性能向上策を盛り込んだ。SCCAは量産車レース用の車両の認定には100台の生産を要求しており、イェンコは1965年の1カ月間で100台のスティンガー(Stinger)を生産した。当時SCCAが米国車に要求していた通りに全車共に白塗装であったが、ある車はスポイラー付きのグラスファイバー製エンジンリッドを備え、別の車はそれが付いていない、ある車は160、190、220や240 hp (119、142、164や179 kW) に出力を増強されたエンジンを備えるといったように個々の車ではかなりの差異があった。全ての車にはシボレーの工場で強化型サスペンション、4速MT、鋭敏なステアリングギア、ポジトラクション・デフ(positraction differential ギア比3.89の50とシボレーが3.89に落とすと3.55の50)と二重化されたブレーキのマスターシリンダー(これがシボレーによる最初の装着例、翌年から標準仕様の装備となる)が取り付けられていた。スティンガーは、レース仕様で非常に敏捷なトライアンフ・TR4が出走していた量産車Dクラスに参戦し、1966年1月の最初のレースで1秒遅れの2位に入ることができた。1966年シーズンの終了時点でジェリー・トンプソン(Jerry Thompson)は中央地区大会(the Central Division Championship)で勝利を収め、1966年度の全国で5位を獲得した。コルベットでレースに出場し、かなりの成功を収めたディック・トンプソン(Dick Thompson)は北東地区大会(the Northeast Division Championship)で勝利を収め、ジム・スペンサー(Jim Spencer)は中央地区大会でディノ・ミラーニ(Dino Milani)と共に1位と2位を獲得した。 翌年にシボレーはコルサ・シリーズを廃止しモンザ・シリーズには当初標準仕様で4連装キャブレター付きモデルを用意しなかったが、結局はこのエンジンをギヤ比3.89のデフと共に特別高性能オプションとして設定した。モンザの計器盤には回転計とシリンダーヘッド温度計が付いていなかったがこれは別途備えられた。他方でSCCAは車両の色に関する規則を緩和し、赤か青の塗装も認められた。1967年モデルのスティンガーは僅か14台しか生産されなかったと信じられているが、米国西海岸でスティンガーを販売していたダナ・シボレー(Dana Chevrolet)がスティンガー仕様の類似の車を別に3台発注した。この車はイェンコの許可を貰ってカリフォルニア州環境規制(California emissions laws)に合致するようにエア・インジェクション装置が取り付けられていた。合計185台のスティンガーが製造されたとされ、最後のYS-9700は1969 - 70年のタイヤ試験用車両としてグッドイヤー社に納入された。コメディアン/テレビスターで自動車愛好家のティム・アレンは2009年6月頃に売却するまで#YS-043のイェンコ・スティンガーを所有し、レースに出ていた。
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