アレクサンドレッタ問題とバアス運動の創設:1930年−1939年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 01:22 UTC 版)
「ザキー・アル=アルスーズィー」の記事における「アレクサンドレッタ問題とバアス運動の創設:1930年−1939年」の解説
1930年にシリアに戻り、1932年からアンティオキアで教員を勤めた。フランス植民地当局は彼がシリア内で生徒にヨーロッパ哲学やフランス革命などの話題について教えることを禁じた。フランス革命の理念である「自由、平等、博愛」について生徒に説くと、教室から追放された。1934年、学生クラブであるクラブ・デ・ボザールを創設し、フランス文化の拡散をはかった。フランス当局はクラブに難色を示したが、このことが本格的な政治活動のきっかけとなり、アラブ・ナショナリストへと傾いていった。 1933年8月、レバノン・カルナーイルで50人のアラブ・ナショナリストとともに民族行動同盟(LNA)を結成した。LNAはオスマン帝国時代のエリートの支配を受けない数少ないアラブ系政党の一つだった。LNAのメンバーは若く、西欧で教育を受けたものが多かった。人々の間で人気が高まったが、1935年に創設者のアブドゥッラッザーク・アル=ダンダシが死去してからは衰退した。アルスーズィーは創設時から1939年までアンティオキアの地域代表となった。1930年代にトルコが初めてアレクサンドレッタを併合しようと試みた際にはこれを強く非難し、1934年から1938年にかけてのアラブ・ナショナリスト闘争の象徴となった。1939年、フランスとトルコが同盟を結ぶことと引き換えに、フランス支配下のシリアはアレクサンドレッタ地方をトルコに割譲した。このあと、アルスーズィーはLNAを脱退した。1938年よりダマスカスでアラブ主義とアラブ・ナショナリズムの研究に取り組みはじめた。政党政治に幻滅し、学生を集めて学習グループを主催した。アルスーズィーは、学習グループにおいて、フランス革命、明治維新、ドイツ統一、イタリア統一運動(リソルジメント)について論じ、フィヒテ、フリードリヒ・ニーチェ、カール・マルクス、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、オスヴァルト・シュペングラー、ベルクソンの思想を説いた。LNAを脱退してすぐ、「明確な教義」を持ったアラブ・ナショナリストの政党としてアラブ民族党を創設した。アルスーズィーは間もなくバグダードに移った為、政党活動は長くは続かなかった。バグダード滞在中にアラブ・ナショナリズムをイラク人にも広めようとしたが、1940年に失望してシリアに戻った。1940年11月29日、アルスーズィーはアラブ・バアスを結成した。
※この「アレクサンドレッタ問題とバアス運動の創設:1930年−1939年」の解説は、「ザキー・アル=アルスーズィー」の解説の一部です。
「アレクサンドレッタ問題とバアス運動の創設:1930年−1939年」を含む「ザキー・アル=アルスーズィー」の記事については、「ザキー・アル=アルスーズィー」の概要を参照ください。
- アレクサンドレッタ問題とバアス運動の創設:1930年−1939年のページへのリンク