アレクサンドレ1世の治世と共同王
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「ギオルギ8世 (ジョージア王)」の記事における「アレクサンドレ1世の治世と共同王」の解説
1430年代、アレクサンドレ1世はジョージア王国の中央集権化を進め、反抗的なトビリシの大領主を罰する等の統治を行った。アレクサンドレ1世は多くの貴族の領地を没収し、1433年に息子4人――第一王子ヴァフタング、第二王子ディミトリ、第三王子ギオルギ、第五王子ザアル――を共同王とし、王権の一部を委ねることを決定した。歴史学者キリル・トゥマノフによると、アレクサンドレ1世は東ローマ帝国の体制に触発されて息子たちと権力を分かち合い、王国の日常の管理を息子たちに任せたとしている。この説は、18世紀に王家に質問を行ったヴァフシティ・バグラティオニによって大部分が否定されていた内容である。アレクサンドレ1世は王国の軍事的拡大とともに、数世紀にわたる戦争によって破壊された多くの都市の復興を支援した。 ジョージア王国の共同王として、ギオルギはローマ教皇エウゲニウス4世による2つの公会議――1438年のフェラーラ公会議、1439年のフィレンツェ公会議――にジョージア王国の代表委員を派遣した。アレクサンドレ1世は、息子たちが2つの公会議に参加し、サメグレロ公国およびサムツヘ公国(グルジア語版)の関係についてバランスを調整するよう指示した。当時サムツヘ公国は独立のため東ローマ帝国の支援を受けたいと考えていた。 1439年、アレクサンドレ1世は重病になり、息子たちが王国の管理を担当した。医者の間では助かる見込みは薄かったものの、1440年に健康を回復した。だがこのとき、王国内の権限はアレクサンドレ1世の手に負えないものとなっていた。影響力のある貴族たちは王国の分裂を推し進め、4人の王子たちはそれぞれ独立して動き、アレクサンドレ1世の命令に従うことを拒否した。この分裂によって王国評議会は黒羊朝のジャハーン・シャー(アラビア語版)による侵入を防ぐ戦略を決議できなくなるという深刻な事態に直面し、結果として2,000人近いジョージア人が虐殺されることとなった。 息子たちの野心により王国を支配できなくなったアレクサンドレ1世は1442年に退位、修道院に隠居した。アレクサンドレ1世は退位の直前、アレクサンドレ1世の弟バグラト(グルジア語版)の娘であるネスタン=ダレジャン(グルジア語版)とギオルギとの結婚式を取り仕切った。トビリシにあった王冠は第一王子ヴァフタングに委ねられ、弟のディミトリおよびギオルギとともに王国を共同統治した。最も若い第五王子ザアルは、その後の歴史から姿を消している。アレクサンドレ1世は1446年に崩御した。
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