アレキサンドレッタ県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 09:27 UTC 版)
詳細は「en:Sanjak of Alexandretta」を参照 1920年と翌年決められたこの条約ではトルコ-シリア国境について詳述しており、このレポートではアメリカ開発局の 「The Bureau of Intelligence and Research」の公式地勢学者の意見が述べられている。 しかし、トルコ人コミュニティがフランス領シリアであったアレキサンドレッタにとどまり、トルコ政府はこれらの人々を守ることになった。トルコ共和国初代大統領であるムスタファ・ケマル・アタテュルクはハタイは400年間トルコの故国であると述べた。 1921年10月20日のアンカラ条約(英語版)ではアレキサンドレッタ県は自治権を得て、フランス領アレキサンドリッタ自治州となり、この状態が1921年から1923年まで続いた。しかし、様々な宗派のアラブ人を初め、キリスト教マロン派、ギリシャ人、クルド人、アルメニア人などの民族はこれに反対。 1923年、ハタイはアレッポ州(英語版)(現アレッポ県)所属になり、1925年には特別管理地域(special administrative status)としてフランス領シリアに戻った。 詳細は「フランス・シリア独立条約(英語版)」を参照 1936年の選挙ではシリア独立派の2人の議会議員が選出され、トルコとシリアの新聞記事で情熱的な議論が交わされ、広範な暴動が起こった。この事件で在住トルコ人が虐殺されたとして、トルコ政府が国際連盟に提訴し、また、大部分の住民がトルコ人であるとしてアレキサンドレッタ県をトルコに帰属させるように求めている。この県は連盟の和解仲介で1937年11月に自治を得た。 この結果、ハタイは防衛の為に外交はフランス領シリアから自治を得ているが分離しないように整えられ、トルコとフランスが軍を置くことになった。この県から1938年にフランスの監視下で下院が選出、調査が実施された。下院は1938年の夏に選出され、全40議席の22議席がトルコ人であり、13議席がアラブ人(アラウィー派9議席、スンナ派2議席、キリスト教徒2議席)アルメニア人5議席であった。地域の安定の為に1938年7月にフランス-トルコ条約が4度目の調印をむかえる。 事前にトルコ人が大量にこの地域に移住せず、これらの移住したトルコ人の投票が行われなかった場合、結果は違ったと言われている(アルメニア人虐殺の一つとして知られている19年前に行われたムサ・ダー(英語版)地域の武力追放、虐殺についてはムサ・ダーの40日(英語版)に詳しい)。
※この「アレキサンドレッタ県」の解説は、「ハタイ県」の解説の一部です。
「アレキサンドレッタ県」を含む「ハタイ県」の記事については、「ハタイ県」の概要を参照ください。
- アレキサンドレッタ県のページへのリンク