アラビア文字の楷書と草書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 02:56 UTC 版)
「イスラームの書法」の記事における「アラビア文字の楷書と草書」の解説
アラム語ナバテア方言を記すのに用いられたナバテア文字の影響を受けた北アラビア文字は、アラビア半島北東部で確立され、ジャーヒリーヤ期のヒーラとアンバール(英語版)(現イラクの一部)に居住したアラブ人の間で5世紀ごろ全盛を迎える。アラビア半島西部のヒジャーズ(現サウジアラビアの一部)にまで拡がり、ハルブ・イブン・ウマイヤ( معاوية ابن ابي سفيان بن حرب بن أميّة - Mu'āwiya ibn Abī Sufyān ibn Ḥarb ibn Umayya)によってクライシュ族(預言者ムハンマドの一族)の上流階級の間で普及するようになった。 初期のアラビア語史料は、都市ごとに複数の書体の存在していたことに言及するが、これらは概ね二つのスタイルに分類することができる。すなわち楷書的書体dry stylesと草書的書体moist stylesであり、前者は初期クーフィー体の起源となり、後者は多くの書体へと発達する筆写体の起源となった。 筆写体の歴史はイスラーム教の普及以前(ジャーヒリーヤ)まで遡る。この時期、筆写体はクーフィー体(未だ各文字を独立した形であらわし、続け書きをしていない)とならんで用いられた。発達初期の筆写体は、規則性、優雅さに欠け、通常、宗教的な目的のために用いられることはなかった。 ウマイヤ朝とアッバース朝の時代には、広大な領域を治める宮廷は通信や記録保存のため筆写体を必要とし、多くの書体が考案されるようになる。いくつかの書体は、この現実的要求に従って開発されたものである。兄弟とともにバグダードにおける洗練された初期書家の一人となったアブー・アリー・イブン・ムクラ(英語版)(940年没)は、後にアッバース朝の3人のカリフの下でワズィール(宰相)となり、文字の均整に厳密な書法体系を考案したと考えられている。イブン・ムクラの書法は、点を行間隔整列のために、アリフ(アラビア文字の第一字母)と直径を等しくする円を、文字の大きさを揃えるため、それぞれ単位として用いるものである。 イブン・ムクラによる筆法の考案以降、筆写体の発達と標準化は著しく進展することになる。筆写体の位置づけは向上し「クルアーンを書くに値するもの」としての地位を獲得、受容されるに至る。 千夜一夜物語に出てくる、サルに変えられる王子は3種のアラビア書道の達人である。
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