アメリカ行脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:20 UTC 版)
粛第13王女との渡米計画は潰えたが、朝は1人でもアメリカに渡り、反日世論を抑える文化外交に取り組む覚悟を決めていた。ちょうどその時、外務省の意を受けた新教育協会から、朝に、アメリカ教育協会との交流の返礼としてアメリカに渡ってほしいとの依頼が入った。朝はこれを引き受け、3度目の渡米に旅立つこととなった。1938年(昭和13年)、朝は45歳となっていた。 往路の大洋丸で朝はヒュー・ボートン夫妻と知り合い、シカゴの夫妻宅を伺った際に、当時のシカゴ・トリビューン紙経営者だったルイス・ラペルを紹介された。ラペルは当初日本の中国侵略の姿勢について朝を強く非難したが、理路整然と自らの意見を述べて反論する朝を気に入り、彼女をエレノア・ルーズベルト(ルーズベルト大統領夫人)に紹介した。エレノアは朝をホワイトハウス上階の居宅に招待し、朝はアメリカのトップレディに直接、アメリカや日本、中国の置かれている状況について自説を述べる機会を得た。 朝は日米協会のローランド・モーリス(英語版)名誉会長、ヘンリー・タフト(英語版)会長らに意見を求めつつ、以前日本を訪問をしたことのあるアメリカの教師たちを集め茶話会を開いたり、精力的に全米を周って日本の文化の紹介と日本と中国の立場を説く行脚を行うなど、日本とアメリカの架け橋を作るための活動を続けた。6月にはニューヨークのロックフェラー・センターで行われた全米教育協会(英語版)の会議に、汎太平洋新教育協会の日本代表として、聴衆600人の前で講演したが、これがメディアの目に留まり、NBCのラジオに出演したほか、翌日のニューヨーク・タイムズ朝刊に写真入りで採り上げられた。この新聞掲載が一つの契機となり、朝には様々な会合、媒体から声がかかるようになり、正倉院御物のスライド上映や、振袖着用での生け花や盆石の実演など、求められるままに多くの講演、実演を行った。最終的に、滞在中の18か月で150回もの講演を朝はこなしていた。
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