アメリカのアフリカ人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 03:13 UTC 版)
「ベンジャミン・ラッシュ」の記事における「アメリカのアフリカ人」の解説
ラッシュはフィラデルフィアの著名な長老派教会員で医者であり化学教授として、当時無視できないくらいになっていた奴隷貿易に対して大胆で一目おかれる発言をした。奴隷制度廃止運動における焦眉は、1773年にラッシュが書いてフィラデルフィア、ボストンおよびニューヨークで出版された「奴隷を保有することについてアメリカのイギリス植民地の住人に訴える」と題された小冊子であった。ラッシュの時代の社会悪についての多くの攻撃の中でもこの最初のものは、奴隷貿易に対する攻撃だけでなく、奴隷制そのものに及んでいた。 1787年、ラッシュは3年前に死んだベネゼットの幽霊を夢に見た後で熱心な奴隷制度廃止論者になった。夢の中のベネゼットは海岸を歩いてきて一群のアフリカ人に会い、奴隷制度の恐ろしさについてラッシュに語っていた。ラッシュは夢から覚めてベネゼットの死によって残された隙間を埋めようと決心した。ラッシュはこの時奴隷所有者であったが、1788年に奴隷のウィリアム・グラバーに自由を約束した。ラッシュはアメリカでは最初の奴隷制度廃止協会であるペンシルベニア奴隷制度廃止協会の共同設立者となり、秘書官として努めた後に会長を歴任した (1803-13)。黒人であれ白人であれ、全ての者に対する自由より劣るものは1776年の共和制の理想に嘘を付いていることであった。1766年にラッシュがエディンバラで勉強するために出立したとき、リバプールの港で100隻もの奴隷船を見て怒りを覚えた。ラッシュはフィラデルフィアの黒人社会を援助する中でアフリカ人の協会設立に深く関わった。1793年の黄熱病流行の折にはリチャード・アレンやアブサロム・ジョーンズなどの黒人を採用して、臨床に伴って手伝いをさせた。 ラッシュは黒人が素から知的にあるいは道徳的に劣っているのではないと科学的に主張した。それに反する明白な証拠は奴隷制を曲解する表現だけであり、それは「人の心を知らないので、道徳的能力と共に理解力が落ち、それによって無気力になっている」とした。 ラッシュは1813年に死んだが、それはラッシュの生徒であったチャールズ・コールドウェルが、アフリカ人とその子孫が生まれつき民族的違いがあり劣っているという理論で国民の認識を得ている時であった。ラッシュは若いアメリカに向けてそのような考えが誤りであると証明するためにその人生の多くを割き、「全ての人類は平等である」という普遍的真実が人類の偏見に打ち勝つようにする道を作ってきた。
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