アトランティック・ミシシッピ・オハイオ鉄道
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「ウィリアム・マホーン」の記事における「アトランティック・ミシシッピ・オハイオ鉄道」の解説
戦後、リーはその将軍達に仕事に戻って南部経済を立て直すよう勧めた。マホーンもそうした。ノーフォーク・ピーターズバーグ鉄道、サウスサイド鉄道およびバージニア・テネシー鉄道を結ぶための旗振り役になった。1867年までこれら3社の社長を務めた。戦後のレコンストラクション時代、バージニア議会に熱心に働きかけて、1870年にはノーフォークからブリストルまで408マイル (653 km) におよぶ従来の3社線を合わせた新線、アトランティック・ミシシッピ・オハイオ鉄道 (AM & O) の形成に必要な法律を制定させた。マホーンは非常に個性的な人物であり、AM&Oの文字は「全て私とオテリアのもの」(All Mine and Otelia's)を意味していたと言われた。この頃家族はリンチバーグに住んだが、1872年にはピーターズバーグに戻った。 1873年の恐慌によっAM & O鉄道はイングランドやスコットランドの社債保有者との紛争に突入した。数年間は破産管財人の管理下に置かれた後、債権者との関係が崩れ、代わりの破産管財人ヘンリー・フィンクがAM & O鉄道の財政を監督する者として指名された。マホーンは再度支配権を取り戻そうと働いたが、1881年にフィラデルフィアに拠点を置く同業者がオークションでマホーンを上回って買収し、ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道と改名した時、マホーンの鉄道建設者としての役割は終わった。 南北戦争の前に、バージニア公共事業局がAM & O鉄道の前身の鉄道会社のかなりの株式に州債で投資していた。鉄道会社の支配権は失ったが、マホーンはバージニア州の政界を指導する重要人物として、会社の売却で得た利益のうち州の取り分を、以前に市長も務めたことのあるピーターズバーグ近くで黒人の子供達や元奴隷を教える教師を育てる学校を造る予算に振り向けることに成功した。他にもピーターズバーグに近いディンウィッディ郡に今日の州立中央病院の前身を設立するために予算の一部を充てることができた。マホーンは個人的に投資した土地の所有者であり、それらはバージニア州西部やウエストバージニア州南部の豊富な炭田に絡んでノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道の開発と結びつき、マホーンの伝記作者ネルソン・ブレイクによれば、マホーンの死の時にバージニア州でも最も裕福な者の一人に数えられることになった。
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