アトランティック・レコードでの仕事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 14:43 UTC 版)
「ジョエル・ドーン」の記事における「アトランティック・レコードでの仕事」の解説
1961年よりフィラデルフィアでラジオDJとして働き、その後ネスヒ・アーティガン(英語版)によってアトランティック・レコードにスカウトされ、ヒューバート・ロウズのアルバム『ザ・ロウズ・オブ・ジャズ』(1964年録音)がプロデューサーとしての初仕事となった。1967年からは正式にアトランティックのスタッフとなり、アーティガンのアシスタントを務める。 1960年代にはローランド・カーク、ハービー・マン、マックス・ローチ、フレディ・ハバード、ジャック・マクダフ、シャーリー・スコット、モーズ・アリソン、レス・マッキャン(英語版)他多数のジャズ・ミュージシャンの作品を手掛けた。また、1969年以降はR&B歌手ロバータ・フラックとの仕事も多くなり、1970年代にはオールマン・ブラザーズ・バンドやドン・マクリーン等、ロック/ポップスの仕事の比重も増していった。 1972年度のグラミー賞では「愛は面影の中に」によってフラックと共に最優秀レコード賞を受賞し、翌年にもフラックの「やさしく歌って」で同賞を受賞した。また、友人のドク・ポーマスから無名時代のベット・ミドラーを紹介され、彼女のデビュー・アルバム『The Divine Miss M』(1972年)も手掛けた。 ソングライターとしての仕事は少ないが、1970年代にはモンゴ・サンタマリアの「ヒッポ・ウォーク」、ロバータ・フラックの曲「ゴー・アップ・モーゼズ」(アルバム『クヮイエット・ファイア』に収録)といった曲に共作者としてクレジットされた。
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