アイガイ遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 16:23 UTC 版)
遺跡の出土品から、アイガイの地に人が定住し始めたのは紀元前11世紀末頃からと推測されている。その当時の墳墓の副葬品からは南ギリシャとの交流が盛んだったことが読み取れる。紀元前650年頃に誕生したマケドニア王国の最初の根拠地としてアイガイは建設された。伝説によれば、マケドニア王家の始祖ペルディッカス1世は、デルフォイの神託に従って山羊の群れに導かれてこの地に至ったことから、王都の名を山羊(古代ギリシア語でアイゴス)にちなんでアイガイと名付けたという。 アイガイの遺跡はヴェルギナ村から東に2キロメートル離れたパラティツィア村とのちょうど中間に位置する丘陵地にある。ピエリア平野を北側に面し、南側に山地、南西側に谷に阻まれる防御に適した地にあり、北東方向に伸びた緩やかな斜面に形成されている。都市は北側の墓所と南側の市街で構成され、四方を防壁で囲っていたと見られている。南の山地にはアクロポリスが築かれ、都市部には南から宮殿と劇場、アゴラとエウクレイアの神域、公共施設、キュベレの神殿と続く。墓所部は東西3キロメートル、南北2キロメートルの範囲に先史時代のものを含め数多くの墳墓があった。 国都は前5世紀末にペラへと遷されるが、歴代の王家の埋葬地であるアイガイは、王家の祭礼が行われる場所として引き続き王国の中で重要な地位を占めた。この街でアルゲアス朝のバシレウス(君主)のピリッポス2世はパウサニアスによって殺害されたとされる。 アイガイは紀元前274年に侵攻してきたピュロス軍に属するガリア人傭兵によって略奪を受け、王墓が暴かれたと記録にある。その後ピュロス軍を駆逐したアンティゴノス2世によって墳墓地区の復旧が行われた。紀元前168年のピュドナの戦い以降アイガイは衰退し、1世紀末には放棄された。
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