まぼろしの吉野鉄道とは? わかりやすく解説

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まぼろしの吉野鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 20:47 UTC 版)

吉野鉄道」の記事における「まぼろしの吉野鉄道」の解説

明治後期日本各地鉄道敷設され奈良県でも南和鉄道(後のJR和歌山線)や大阪鉄道(後のJR桜井線)が開業した吉野地方北部人々は、山を越えて最寄りの駅まで歩き、それらの鉄道利用して各地に出かけられるようになったが、その駅まではあまりにも遠かったそのような背景もあって鉄道吉野郡内まで敷く計画立てられることになる。 1896年明治29年1月土倉庄三郎ほか14名が南和鉄道葛駅(後の吉野口駅南葛城郡葛村)から吉野郡大淀村下渕経て大淀村北六田にいたる「吉野鉄道」の敷設免許申請した。同じ頃出水弥太郎らも同名の「吉野鉄道」(大阪鉄道畝傍駅 - 高取 - 下渕 - 上市 - 鷲家口)を申請しており、奈良県内では他にも多く鉄道敷設申請鉄道院なされていた。そこで同年3月土倉庄三郎発起の「吉野鉄道」は同じく申請をしていた「中和鉄道」「天理鉄道」と協定を結び新たに大和鉄道」を創設同年5月四条畷 - 奈良 - 二階堂 - 田原本間、 - 北六田間、法隆寺 - 丹波市間の3線敷設改め申請した1897年明治30年4月鉄道会議は「大和鉄道」の - 北六田間のみを許可し他の計画路線出水弥太郎出願の「吉野鉄道」などは却下された。 この結果受けて1897年明治30年6月土倉庄三郎ほか19名によって「吉野鉄道株式会社」(本社南葛城郡御所町当初資本金50万円)が設立され1899年明治32年4月鉄道敷設免許受け取る。測量用地買収資材注文など鉄道建設準備進められていたが、翌年発生した義和団の乱や、それにともなう経済不況により、資本金株式払い込み進まず資金難陥る1901年明治34年)には一部株主会社解散訴えて株主総会を開くよう要求。この時は、吉野郡長の本田登太郡長名で大阪地方株主らに解散要求惑わされないよう、また鉄道建設速成要望するビラ送り鉄道完成申し合わせるように求めた結果開かれた株主総会では、会社解散否定されたが、その後鉄道建設遅々として進まず1902年明治35年11月株主総会において会社解散決議され免許返戻されてしまう。

※この「まぼろしの吉野鉄道」の解説は、「吉野鉄道」の解説の一部です。
「まぼろしの吉野鉄道」を含む「吉野鉄道」の記事については、「吉野鉄道」の概要を参照ください。

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