北垣国道(きたがきくにみち 1836-1916)
北垣国道は、但馬国養父郡能座村(現・兵庫県養父市)の庄屋の家に生まれ、池田草庵のもとで論語など漢学を学んだ。
幕末の一時、尊皇攘夷派の活動に入るが、のちに鳥取藩に仕官し、戊辰戦争では北越征討軍に参加する。明治に入り官界に進み、明治14年(1881)に京都府知事となって、琵琶湖疏水と関わる。
琵琶湖疏水は、京都の産業振興を目的に、水道用、工業用、灌漑用などの水を琵琶湖から京都に引くため明治18年6月に着工され、約5年の歳月をかけ明治23年 4月に完成した。疏水の幹線部の総延長は、約11㎞、トンネルは 6か所もあり、最大の長等山トンネルに至っては約2,436㎞もある難工事であった。この疏水工事は、北垣国道のもと二人の優秀な技術者によって建設が進められた。その技術者は田辺朔郎(設計)と嶋田道生(測量)である。
琵琶湖疏水事業を進めた北垣国道は、久美浜県(現京都府熊野郡)知事を務めた後、北海道開拓使、熊本県大書記官、高知県令を経て、第三代京都府知事となった。そのとき北垣は、東京遷都により疲弊した京都を回復させる手段として、運輸路、水資源、そして動力源として琵琶湖の水を京都盆地に引き入れることを企てた。その「琵琶湖疏水計画」を押し進めるため工部大学校に人材を求め、これに応じた田辺朔郎が京都府に入庁し(明治16年)、翌年から同疏水計画に従事することになった。
この工事は、計画を大幅に上回る経費が必要となり、計画は一時頓挫の危機に瀕したが、北垣の強い使命感と、田辺の高い技術と柔軟な頭脳、そして測量を担当した嶋田道生の高い技術、そして彼らが立案した綿密な計画によって工事は完成した。
この後、北垣は明治25年に北海道長官となり、開拓の基礎となる鉄道の建設と港湾の整備にも情熱を注いだ。琵琶湖疏水工事に伴う測量標石は、いまも周辺の林地等に残存しているから、これを訪ねることで当時の測量を偲ぶことができる。

- きたがきくにみちのページへのリンク