『望郷と海』・死
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1972年(昭和47年)末、エッセイ集『望郷と海』が刊行された。この本には1969年(昭和44年)から立て続けに書かれた、石原自身の抑留体験とその内省的考察について書かれたエッセイを集めたもので、翌年に第11回歴程賞を受賞した。石原のエッセイ集を代表するのが『望郷と海』である。 1975年(昭和50年)からは日本詩人会会長を務めた (1977年まで。同年10月に同会を退会)。また、この年にはシベリア抑留のテーマから離れた詩集『北條』を花神社から刊行している。全般に、対談や講演、跋文、書評の仕事が多い年だった。 翌1976年(昭和51年)には評論集『断念の海から』、『石原吉郎全詩集』を刊行、創作活動は活発だったが、石原はこの年の夏から心身ともに不安定になり、妻の健康も悪化、妻は10月には入院することになった。また、酒量が増し、ほとんど食事もとらないため健康が悪化、11月には通勤中に貧血で倒れて1か月入院生活を送らねばならなくなっている。石原はこの入院中に短歌の創作に励んでいる。入院している患者が暇を持て余して1日中ぼーっとしているのを見て、こうなってはたまらないと思い、無理やりに始めたのが理由だという。 死の年の1977年(昭和52年)には、対談集『海への思想』(花神社) を刊行、一方で詩集『足利』や歌集『北鎌倉』を刊行した。石原もこの年の夏から奇行が多くなっていたという。 しかし夏には、石原の依存症は相当悪化していた。治療が必要な状態になっており、対談 (「自己空間への渇望」(清水昶との対談)) やエッセイの中で石原は、衝動的に小刀で2度「腹を切った」ことを明らかにしている。友人からも「とにかく酒を断って、生きなくちゃいけない」と説得されたが、石原は「生きて、どうすればいいの」と答えており、精神的にも病んだ状態だったと見られる。石原の友人たちの間では、再度入院させる話が出ていた。 1977年11月15日、埼玉県上福岡市の公団住宅の自宅の浴槽で亡くなっているのを、電話にでないことを心配した知人の来訪によって発見された。妻は入院中だったため、家には石原1人しかおらず、発見は死後1日以上たっていた。飲酒した上で風呂に入ったのが原因による急性心不全だとみられている。62歳没。なお、石原の遺骨は多磨霊園の『信濃町教會員墓』に埋葬されている。
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