『有限性の後で』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 05:54 UTC 版)
「クァンタン・メイヤスー」の記事における「『有限性の後で』」の解説
メイヤスーは高等師範学校で哲学者のベルナール・ブルジョワとアラン・バディウの薫陶を受けた。バディウはメイヤスーの処女作『有限性の後で(Après la finitude)』(2006年)の序文を執筆し、そこで同書は近代哲学にとっての全く新しい選択肢を紹介するものであり、イマヌエル・カントの3つの選択肢、すなわち批判主義、懐疑主義、独断主義のどれとも異なるものであると述べた。同書は哲学者のレイ・ブラシエにより英訳された。メイヤスーは思弁的実在論運動に関連付けられている。 同書でメイヤスーはポスト・カント哲学が「相関主義(correlationism)」と彼が呼ぶものに支配されていると主張している。それは人間は世界なしに存在できず、また世界も人間なしには存在できないとする立場で、あまり公言されることはない理論である。メイヤスーによれば、これは不誠実な戦略であり、あらゆる人間のアクセスに先立って世界がどのように存在しているか、そしてそれをいかにして記述するかという問題を回避してしまう。彼はこの前‐人間的な現実を「祖先以前的(ancestral)」領域と名付ける。師であるアラン・バディウが数学に対して関心を抱いていた影響もあり、数学は物体の知覚において表れる二次性質ではなく一次性質そのものに達することができるとメイヤスーは主張する。 原因と結果の存在を疑う不可知論的懐疑主義者たちは、そもそも因果的必然性など全く存在しないというラディカルな主張を取るべきだとメイヤスーは示そうとする。この主張により、自然法則が偶然的であるということそれ自体は絶対的に必然的である、という主張をメイヤスーは宣言することになる。世界は超(ハイパー)カオス的であり、無矛盾律は保持されるが、充足理由律は打ち捨てられるのである。 これらの理由により、メイヤスーは哲学においてカントのコペルニクス的転回を拒絶する。カントは観察者である人間の条件に世界を依存させてしまっており、「プトレマイオス的反革命」を起こしたとしてメイヤスーは非難する。
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