『望郷と海』・死とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『望郷と海』・死の意味・解説 

『望郷と海』・死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:34 UTC 版)

石原吉郎」の記事における「『望郷と海』・死」の解説

1972年昭和47年)末、エッセイ集『望郷と海』が刊行された。この本に1969年昭和44年)から立て続け書かれた、石原自身抑留体験その内省的考察について書かれエッセイ集めたもので、翌年第11回歴程賞受賞した石原エッセイ集を代表するのが『望郷と海』である。 1975年昭和50年)からは日本詩人会長務めた (1977年まで。同年10月に同会を退会)。また、この年にはシベリア抑留テーマから離れた詩集北條』を花神社から刊行している。全般に対談講演跋文書評仕事が多い年だった。 翌1976年昭和51年)には評論集断念の海から』、『石原吉郎全詩集』を刊行創作活動活発だったが、石原この年の夏から心身ともに不安定になり、妻の健康も悪化、妻は10月には入院することになったまた、酒量増し、ほとんど食事もとらないため健康が悪化11月には通勤中に貧血倒れて1か月入院生活を送らねばならなくなっている。石原はこの入院中に短歌創作励んでいる。入院している患者が暇を持て余して1日ぼーっとしているのを見て、こうなってはたまらないと思い無理やり始めたのが理由だという。 死の年の1977年昭和52年)には、対談集『海へ思想』(花神社) を刊行一方で詩集足利』や歌集北鎌倉』を刊行した石原この年の夏から奇行多くなっていたという。 しかし夏には、石原依存症は相当悪化していた。治療必要な状態になっており、対談 (「自己空間へ渇望」(清水昶との対談)) やエッセイの中で石原は、衝動的に小刀2度腹を切った」ことを明らかにしている。友人からも「とにかく酒を断って生きなくちゃいけない」と説得されたが、石原は「生きてどうすればいいの」と答えており、精神的に病んだ状態だったと見られる石原友人たちの間では、再度入院させる話が出ていた。 1977年11月15日埼玉県上福岡市公団住宅自宅浴槽亡くなっているのを、電話にでないことを心配した知人来訪によって発見された。妻は入院中だったため、家には石原1人しかおらず、発見死後1日以上たっていた。飲酒した上で風呂入ったのが原因による急性心不全だとみられている。62歳没。なお、石原遺骨多磨霊園の『信濃町教會員墓』に埋葬されている。

※この「『望郷と海』・死」の解説は、「石原吉郎」の解説の一部です。
「『望郷と海』・死」を含む「石原吉郎」の記事については、「石原吉郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『望郷と海』・死」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『望郷と海』・死」の関連用語

『望郷と海』・死のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『望郷と海』・死のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石原吉郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS