『朝の先触れ』誌の共同編集
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「チャールズ・テイズ・ラッセル」の記事における「『朝の先触れ』誌の共同編集」の解説
1876年1月、23歳のラッセルは『朝の先触れ (Herald of the Morning)』というセブンスデー・アドベンチスト教会の宗教雑誌を入手したが、その編集者ニューヨーク州ロチェスターのネルソン・H・バーバー(英語版)は、キリストはすでに目に見えない形で再臨しておられ、「小麦(真のクリスチャン)」(マタイ 13:24-30)を収穫する業は始まっていると論じていた。関心を持ったラッセルは、フィラデルフィアでバーバーと会見を開き、聖書研究会はバーバー主催のグループと合同した。ラッセルは『朝の先触れ』誌を印刷するための資金を個人的に寄付し、同誌の共同編集者となった。1877年、ラッセルは事業の株を売却して全時間の伝道活動に携わり、旅行しながら多くの講演を行い、資金が尽きた後は寄付により活動を続けた。同年、小冊子『我らの主の帰還の目的とそのありさま (The Object and Manner of Our Lord’s Return)』を出版した。さらに同年、バーバーとラッセルは書籍『三つの世界およびこの世界の収穫 (Three Worlds, and the Harvest of This World)』を共同出版した。この書籍は、キリストの見えない再臨は1874年の秋から始まったとの見解を載せていた。また、「諸国民の定められた時」(ルカ 21:24)の期間は1914年に終わることを指摘していた。しかし、やがて二人の見解は食い違うようになった。バーバーは『朝の先触れ』誌1878年8月号で、キリストの贖いの価値に対する否定的な記事を書き、9月号ではラッセルはキリストの贖いを支持する記事を書いた。この論争は同誌上で12月号まで続き、ついにラッセルはバーバーへの資金援助を打ち切り、二人は決別した。バーバーはその後、1903年まで『朝の先触れ』誌を発行し続け、1906年に亡くなった。 1879年3月13日、ラッセルはマリア・フランシス・アクリー(1850-1938)と結婚した。
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