『万国公法』の活用事例
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幕末・明治初期において『万国公法』はよく新たな権威の源として参照・利用された。当時攘夷思想によって欧米人を襲撃する事件が多発し、神戸事件や堺事件、京都事件がその代表例であるが、これらの事件は「万国公法」の名の下に外国人を殺傷した日本人を極刑としている。『万国公法』では個別の事件については特に触れておらず、その名の下に裁かれること自体、実は非常におかしいことであるが、注目すべきなのはそうした無理を「万国公法」という名によって正当化できた点であって、当時における「万国公法」の威名がいかほどであったかがこれらの事例からうかがえる。 以下、「万国公法」の威名が影響した事件・事象を一部列挙する(安岡1998)。 外交使節の天皇謁見外国公使などが赴任した場合、君主に挨拶することが国際上慣例となっていたが、当初天皇や公家たちは及び腰であった。しかし1868年、松平慶永らが「万国公法」を根拠に謁見を許可するよう上奏し、フランス・オランダ両公使の参内謁見がかなった。 徳川慶喜らの処遇戊辰戦争のさなか、西郷隆盛らはパークスなど外国公使に徳川家を戦後にどう処遇するか、何度も意見を尋ねている。日本側・外国公使側とも「万国公法」ということばを用いて会話・書簡のやりとりしており、国際法に非常に注意を払っていた。たとえばパークスは慶喜が亡命を希望した場合、それを受け入れるのも「万国公法に御座候」と答えている。 マリア・ルス号事件(1872年)奴隷貿易を未然に防いだとされるこの事件では、日本の姿勢を批判するペルー政府が「万国公法」に則って賠償を求めたが、日本側も「万国公法に拠」って反論し、最終的にロシアに仲介斡旋を依頼することとなった。 これまで見たように「万国公法」は対外折衝において、依拠すべき根拠として利用されてきた。しかし明治日本の最終目標は、個別の外交案件において他国よりも優位に立つことで事足りるものではなく、条約体制に順応することで、かえって西欧「文明国」クラブ間だけに平等を限定するという暗黙の国際法ルールを打破し、それらと同等の権利を勝ち取ること、単純に言い換えると不平等条約を解消して日本を「文明国」に格上げすることであった。日本の幾度にもわたる条約改訂交渉はそのために為されたものであった。
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