『スター・ウォーズ』以前
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「リチャード・エドランド」の記事における「『スター・ウォーズ』以前」の解説
ノースダコタ州ファーゴで生まれる。幼い頃からカメラを手にフォトジャーナリストを目指していたエドランドは、高校卒業後に海軍に入隊し、海軍写真学校を卒業した。写真班の一員として厚木基地に滞在し、日本語を勉強する一方文化や文学にも触れ、大和市の映画館で小津安二郎、黒澤明らの監督作品を観て映画作りを志す。また円谷英二の作品からも強い影響を受けた。 帰国後、南カリフォルニア大学(USC)の映画学科に入り優秀な成績を修め、テレビ映画で視覚効果を製作していたジョー・ウェストハイマーのプロダクションに入り、機材の製作、撮影、タイトル・デザインなどもこなしたが、4年働いて退職した。この時期(1960年代)の作品には『宇宙大作戦』や『ミステリー・ゾーン』が含まれる。 その後、ドキュメンタリー、アニメーションやCM、ロック・キャメラマンとしてプロモーションフィルムを製作、実験映画の研究も行ないつつ観光ガイド、レコードジャケットのデザインといった職を転々とし、1974年にロバート・エイブルのRA&Aに入社する。より進んだモーション・コントロールの撮影技術を駆使し、CM製作に携わるが、1年ほどでジョン・ダイクストラに出会ったことが転機となった。 ダグラス・トランブルの下で視覚効果製作を行なっていたダイクストラから、USC出身のジョージ・ルーカスとゲイリー・カーツが新しいSF映画を作ろうとしているという話を聞く。既成の特撮スタジオに技術では求められるイメージの映像化が困難で、新しい撮影技術や機材を開発する必要があるというプロジェクトだったが、エドランドはこの企画に参加するためRA&Aを離れ、新作の視覚効果部門(ILM、当初は「トリック・ユニット」と呼ばれた)に参加することになった。集められた人材のほとんどが20歳代で10代の人材も混じっていた中、写真マニアで撮影機材の組み立てもお手の物だったエドランドは、ヴァン・ナイスの倉庫をスタジオに改造し、ファーストキャメラマンとして撮影にあたる一方、撮影機材(中古のビスタビジョン・カメラやオプティカル・プリンター)の調達と整備も行った。当時モーション・コントロール・カメラの技術はあと一歩でコンピュータ・コントロールの物が開発出来るところまで来ていたが、実現させる資金を得るためにはCMや実験映画ではなく劇映画のような大型の企画が必要だったのである。ダイクストラは自らの名を冠したダイクストラ・フレックスを開発して一歩先んじることになった。 公開されたこの『スター・ウォーズ』は大ヒットし、視覚効果もそれまでにない質の高さが評価され、エドランドはアカデミー視覚効果賞をダイクストラらと共に受賞した。 しかし視覚効果スタッフは『スター・ウォーズ』製作終了で一旦解散し、エドランドは『マニトウ』のメカニカル効果、『チャイナ・シンドローム』のミニチュア撮影を担当。またダイクストラとともにテレビシリーズ『宇宙空母ギャラクティカ』の視覚効果製作に参加した。この作品はエミー賞視覚効果部門で受賞を果たした。
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