『オデッセイ』との関係がない部分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 01:04 UTC 版)
「ポン (ゲーム)」の記事における「『オデッセイ』との関係がない部分」の解説
当時のアタリはアーケードゲームの開発業者に過ぎず、企業としての展望はなかった。ブッシュネルは娯楽企業に対してこの新ゲームのデモンストレーションを行なうが、実地試験を経験していなかったためほとんど相手にされなかった。 そのため、ピンボール会社のウィリアムスとバリー・ミッドウェイにアポを取っていたブッシュネルとアルコーンは、シカゴに向かう前に急遽、コイン投入口を取り付けたロケテスト用機械を準備した。テスト機はボックス型でなく、テレビ・電子レンジ状の型にまとめられ、オレンジと黒に塗られた筐体が作られた(現在、テスト機はアルコーンの所有品として、透明なケースに入れて保管されており、実物や写真が公開される場合、「所蔵:アラン・アルコーン」と明記されている)。ちなみに、テスト機および初期量産機の画面は、日本の日立製の家庭用テレビを電気屋で買い、そのまま筐体にはめ込んでいた。 テスト機は最初にカリフォルニア州サニーベールの酒場「アンディ・キャップス」でロケテストされ、設置直後こそテスト機に注目しプレイした客は2人だけだったが、翌日には朝に客が酒場の開店を待って行列を作るほどの人気となった。やがて、酒場のオーナーからテスト機が故障したので対応するよう連絡を受けたアルコーンがテスト機を開けると、コイン入れとして設置しておいた牛乳パック(これについては「コンピュータースペース」も参照)が25セント硬貨であふれ返り、コイン投入口が詰まっていた。アルコーンはこの大成功をシカゴにいたブッシュネルに伝え、ブッシュネルは『ポン』を自分たちで製造することを決定した。 しかし売り込みに行っていた会社には、検討しますと言われたが、興味を持たせてしまったので、ブッシュネルは次の商談で「ナッチング社は『ポン』を没にしました」と嘘をつき、『ポン』を断念させた。ブッシュネルはこうして舌先三寸で、相手の決定を自分に有利な様に持っていくテクニックをよく使っていた。 生産数は、アタリが当初零細企業だったため、正式な記録が残っていないが、約8000 - 12000、間を取って約1万台だろうと考えられている。『ポン』は1974年まで生産され、アメリカでは1970年代の終わりまで、ヨーロッパでは1980年代の初めまで人気を博し、今日のゲーム機市場を形作った。なお、発売直後の増産や超人手不足については『ポン』以外のゲームにも関係してくる為、「アタリ」にまとめたので、そちらを参照。
※この「『オデッセイ』との関係がない部分」の解説は、「ポン (ゲーム)」の解説の一部です。
「『オデッセイ』との関係がない部分」を含む「ポン (ゲーム)」の記事については、「ポン (ゲーム)」の概要を参照ください。
- 『オデッセイ』との関係がない部分のページへのリンク