「青大句珠」と海を越えるヒスイ
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「糸魚川のヒスイ」の記事における「「青大句珠」と海を越えるヒスイ」の解説
中国の史書『三国志』の中で当時の日本列島にいた倭人の習俗などを記した「魏志倭人伝」には、「青大句珠」のことが記述されている。同書では、卑弥呼の死後に女王の座に就いた臺與が「白珠五千孔、青大句珠二枚」を魏に献上したことが見える。献上品の「白珠」は真珠、「青大句珠」はヒスイの勾玉と考えられている。漢字の意味を厳密に扱う中国においては、「玉」は山に産するもの、「珠」は川や海に産するものを意味している。ヒスイ自体は山から産するものであっても、人々が装身具として手を加えたヒスイ原石は、遺跡からの出土遺物が示すとおり、河原にあった転石や川を下って海岸にたどり着いた漂石を拾ってきたものである。 寺村は、魏の朝廷が献上品のヒスイ勾玉を見て驚き、どこで採れたものかと尋ねた際に倭人が「海や山で採れます」と答えたのであろうと推定した。寺村は「魏志倭人伝」の記述について、ヒスイの加工品が倭の特産品として注目されていたことを示す史料との考えを示した。ただし、ヒスイについて記した明らかな文献は遺されていない。 縄文時代に始まったヒスイの装飾品としての利用は、古墳時代までに耳飾、指輪、腕輪、首輪、足飾などに用途が広がり、遠くは朝鮮半島まで分布がみられるようになった。古墳時代に、ヒスイ勾玉は各地の古墳に副葬されており、6世紀末期以降になると飛鳥寺など、寺院の塔の心礎に埋納される例が確認されている。そして正倉院の御物にも古墳時代のものと考えられる伝世品の勾玉が収められている。 朝鮮半島のヒスイ利用は三国時代に確認されている。百済、伽耶そして新羅の4世紀から6世紀前半までの間、有力者の墳墓と考えられる古墳からヒスイ製の勾玉が数多く発掘されている。中でも新羅は王陵や王族のものと考えられる有力古墳から出土した金製の冠にヒスイ勾玉が飾られており、慶州の金冠塚古墳から1921年に出土した、57個のヒスイ勾玉に飾られた金冠などがよく知られている。ただし、朝鮮半島ではヒスイの産地は発見されていない。そして、朝鮮半島から出土するヒスイは糸魚川産である。これは当時の日本と朝鮮半島の間に、ヒスイの交易があったことを示すものでもある。 寺村はヒスイ製の勾玉について、対外関係からの考察を試みた。ヒスイ製の玉(特に勾玉)は日本国外では朝鮮半島のみに出土が確認されている。日本の古墳時代においては、4世紀頃の前期にはヒスイ製勾玉が多くみられるが、中期(5世紀頃)になると減少していき、古墳時代後期になるとヒスイ製ではない(碧玉、メノウ、水晶など)勾玉が増加している。逆に朝鮮では、中期にさしかかるとヒスイ製の勾玉の出土が増えている。畿内地方ではヒスイ製勾玉の減少に反比例するように、鉄製品の出土例が激増している。これらの状況から、寺村は韓国で出土するヒスイ製勾玉は鉄製品の見返りとしての移出品と考えた。寺村の考えには、門田誠一も「ヒスイ勾玉が新羅で制作されたと考えるよりも、完成品の勾玉を一括して入手したであろう」と賛同した。
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