「青大句珠」と海を越えるヒスイとは? わかりやすく解説

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「青大句珠」と海を越えるヒスイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:58 UTC 版)

糸魚川のヒスイ」の記事における「「青大句珠」と海を越えるヒスイ」の解説

中国史書『三国志』の中で当時日本列島にいた倭人習俗などを記した魏志倭人伝」には、「青大句珠」のことが記述されている。同書では、卑弥呼の死後に女王の座に就いた臺與が「白珠五千孔、青大句珠二枚」を魏に献上したことが見える。献上品の「白珠」は真珠、「青大句珠」はヒスイ勾玉考えられている。漢字の意味厳密に扱う中国においては、「玉」は山に産するもの、「珠」は川や海に産するものを意味している。ヒスイ自体山から産するものであっても人々装身具として手を加えたヒスイ原石は、遺跡からの出土遺物が示すとおり、河原にあった転石や川を下って海岸にたどり着いた漂石拾ってきたものである寺村は、魏の朝廷献上品ヒスイ勾玉見て驚き、どこで採れたものかと尋ねた際に倭人が「海や山で採れます」と答えたであろう推定した寺村は「魏志倭人伝」の記述について、ヒスイ加工品が倭の特産品として注目されていたことを示す史料との考え示した。ただし、ヒスイについて記した明らかな文献は遺されていない縄文時代始まったヒスイ装飾品としての利用は、古墳時代までに耳飾指輪腕輪首輪、足飾などに用途広がり遠く朝鮮半島まで分布みられるようになった古墳時代に、ヒスイ勾玉各地古墳副葬されており、6世紀末期以降になると飛鳥寺など、寺院の塔の心礎に埋納される例が確認されている。そして正倉院御物にも古墳時代のものと考えられる伝世品勾玉収められている。 朝鮮半島ヒスイ利用三国時代確認されている。百済伽耶そして新羅4世紀から6世紀前半までの間、有力者墳墓考えられる古墳からヒスイ製の勾玉数多く発掘されている。中でも新羅王陵王族のものと考えられる有力古墳から出土した金製の冠にヒスイ勾玉飾られており、慶州金冠塚古墳から1921年出土した57個のヒスイ勾玉飾られ金冠などがよく知られている。ただし、朝鮮半島ではヒスイ産地発見されていない。そして、朝鮮半島から出土するヒスイ糸魚川産である。これは当時日本朝鮮半島の間に、ヒスイ交易があったことを示すものでもある。 寺村ヒスイ製の勾玉について、対外関係からの考察試みたヒスイ製の玉(特に勾玉)は日本国外では朝鮮半島のみに出土確認されている。日本古墳時代においては4世紀頃の前期にはヒスイ製勾玉多くみられるが、中期5世紀頃)になると減少していき、古墳時代後期になるとヒスイ製ではない(碧玉メノウ水晶など)勾玉増加している。逆に朝鮮では、中期さしかかるヒスイ製の勾玉出土増えている。畿内地方ではヒスイ製勾玉減少反比例するように、鉄製品の出土例激増している。これらの状況から、寺村韓国出土するヒスイ製勾玉鉄製品の見返りとしての移出品と考えた寺村考えには、門田誠一も「ヒスイ勾玉新羅制作されたと考えるよりも、完成品勾玉一括して入手したであろう」と賛同した

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