「酒豪の交渉役」として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 16:04 UTC 版)
戦後直後の就職難のため、思うような就職先を見つけることができなかったが、日本石油(現在の新日本石油)の特約店だった富士石油販売に役員として招かれることになる。この比較的小さな特約店での仕事の中で、高橋は当時三井不動産で取締役業務部長を務めていた江戸英雄と出会う。江戸は高橋に「オリエンタルランド」という会社を紹介した人物である。江戸は高橋と違い小柄だが、度胸の良さと懐の大きさを感じさせる人柄で、二人はすぐに意気投合し、よく酒を酌み交わした。 「オリエンタルランド」が設立されたのは、1960年7月11日のことである。千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発および大規模レジャー施設の建設を行うことを目的として、三井不動産・京成電鉄・朝日土地興業(船橋ヘルスセンターの運営会社で、後に三井不動産に吸収合併)の三社による出資で設立された。 当時、この会社の社長を務めていたのは、川崎千春。「日本にディズニーランドを持って来よう」という、当時としてはとてつもない夢物語を打ち立てる人物である。1958年1月、「京成バラ園」で販売するバラの買い付けへと出かけたアメリカで、その3年前にオープンしたばかりの「ディズニーランド」に出会い、深い感銘を受けたのが川崎であった。その後、川崎は、この夢と魔法の国に対して強い情熱を傾けていくこととなる。 高橋は江戸の紹介で、この会社に「浦安漁民との漁業補償交渉」を目的として入社した。高橋の酒豪ぶりを知り尽くしていた江戸が、漁民との交渉役に適任である旨、川崎に紹介状を書いたのである。入社時の役職は「専務」であった。 この会社で高橋は、上澤昇や加賀見俊夫といった、その後共に「東京ディズニーランド」や「東京ディズニーリゾート」の実現に尽力する人々と出会うのである。 高橋が入社した当時、オリエンタルランドは名だけの会社だった。社屋はおろか専用の部屋も与えられず、東京・上野の京成電鉄本社内5階の片隅に三つばかりの机が置かれた場所が、「本社」であった。社員わずか三名、実働部隊は「高橋」ただ一人という状態だった。 補償交渉は難航が予想されていた。気性が荒い海の男が相手であることに加え、当時の浦安の漁業組合が二つに分裂していたことも、オリエンタルランドにとっては逆風だった。そんな状況を見ていた江戸は、相手の心をしっかりと掴むことのできる人間として、大酒を酌み交わし、腹を割って話し合うことが出来る交渉役を必要としていた。高橋はまさにこの「交渉役」にピッタリな人物だった。旧制高校から東京帝大に進んだエリートにもかかわらず、虚栄心や驕り高ぶることは一切無く、いつでもどんな人に対しても一人の人間として、常に水平な目線を保ちながら対話をすることができたと伝記では書かれている。 直接漁民の家を訪ねていっては、次々に交渉をまとめていく高橋。それに加え、連日連夜は漁業組合の実力者を高級料亭に招待しては、酒を酌み交わし、交渉を続けていった。最初から一流料亭に招待したのも、高橋の誠意であった。そんな高橋に多くの漁民達がほれ込むようになった。
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