「暗黒街の顔役」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:44 UTC 版)
1925年にジョニー・トーリオが敵に襲われて引退するとアルは縄張りを譲られ、26歳にして組織のトップに立った。酒の密売でのし上がっていくが、その過程で次々と敵を抹殺していった。さらにウィリアム・ヘイル・トンプソンをはじめ、市議会議員、警察などの官憲を買収して勢力の拡大と安泰化を図った。1920年代のアル・カポネは、実質的に市長ともいえる存在となっていた。1927年頃にはシカゴで有名人となり、1929年にカポネ一家の年間の収益は6200万ドル(現在の貨幣価値に換算すると8億3千万ドル)にもなった。カポネはジャズの大ファンであり、秘密の酒場や会員制クラブで、黒人ジャズ・ミュージシャンに演奏させたりもした。有名なジャズ・ミュージシャンを拉致して、演奏させたこともあった。 部下のジャック・マクガーンが「ジョージ・“バグズ”・モラン一味を抹殺すべきだ」と言ったとき、アルにとってもモランは商売敵で自分の命を脅かす存在だったため、それに同意し、彼に1万ドルと暗殺にかかる諸経費を支払う約束をした。そして1929年2月14日、聖バレンタインデーの虐殺は実行された。この事件は全米のマスコミに大きく取り上げられた。虐殺が行なわれた当時、アルはマイアミ・ビーチに滞在していた。警察はアルを疑い電話の記録を調べたが、事件の前後数日間はシカゴからの記録もなかった。 1929年5月にアトランティック・シティで行なわれた暗黒街の会議の後、拳銃の不法所持で自作自演で逮捕される。その理由は、聖バレンタインデーの虐殺でカポネの行動が目立ちすぎているので、世間の非難の目をそらすという意味だった。このことも会議の議題の一つになっていた。刑期は5月17日から1930年3月17日の10ヶ月間。刑務所内では言うまでもなく特別待遇だった。一部資料によると莫大な利益を上げているカポネと、ニューヨークやその他のギャングの仲が悪くなり、カポネが身の危険を感じたためだという話もある。 1930年の暮れ、逮捕を逃れるため、アルはシカゴのサウス・ステート・ストリート935番地の店で貧しい人たちに1日に3度、無料の食事を提供した。「無料給食を運営するのは1ヶ月に1万ドル経費が掛かる」とアルは言っていた。このことは新聞などでも報じられ、市民は歓迎した。しかし、実際には経費のほとんどはアル・カポネ自身が負担したのではなく、地元のパン屋、生肉業者、コーヒー豆屋などに寄付させたもので、彼らはアルの言いなり状態だったという。
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