「デイス」艦長まで
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「ジョゼフ・F・エンライト」の記事における「「デイス」艦長まで」の解説
ジョゼフ・フランシス・エンライトは1910年9月18日、ノースダコタ州マイノットに生まれる。1933年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業。卒業年次から「アナポリス1933年組」と呼称されたこの世代からは、クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) 艦長で阿波丸事件の一方の当事者チャールズ・E・ラフリン、ハリバット (USS Halibut, SS-232) 艦長を経て大将に登りつめたイグナティス・J・ギャランティン(英語版)などがいる。卒業後は戦艦メリーランド (USS Maryland, BB-46) に3年間乗り組んだ後、1936年以降は潜水艦に転じた。潜水艦S-22(英語版) (USS S-22, SS-127) 乗り組みを経て、第二次世界大戦勃発後の1942年6月22日、エンライトは潜水艦O-10(英語版) (USS O-10, SS-71) で最初の艦長職を務めた。 「デイス (潜水艦)#第1の哨戒 1943年10月 - 12月」も参照 1943年7月23日、少佐に昇進したエンライトは、この日竣工した潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の艦長に就任する。「アナポリス1933年組」で潜水艦に進んだ者の中で艦長に就くのは、エンライトが初めてだった。デイスはニューロンドンを9月7日に出港し、10月3日に真珠湾に到着したデイスは、10月20日に最初の哨戒で日本近海に向かった。哨戒では何隻かの日本側艦船を発見して攻撃を行ったが目立った戦果はなかった。また当時、デイスが向かった海域を「空母翔鶴が通過する」という情報があり、デイスを含めた所在の潜水艦に翔鶴を仕留めるよう指令が出ていた。ところが、エンライトは自分の直感を抑えて規則に従った結果、結果的に翔鶴を逃す結果となった。実際に11月15日に北緯33度55分 東経140度32分 / 北緯33.917度 東経140.533度 / 33.917; 140.533の地点で件の翔鶴と3隻の駆逐艦を発見したものの、ただ「発見した」というだけに留まった。11月19日午後、デイスは北緯34度13分 東経136度33分 / 北緯34.217度 東経136.550度 / 34.217; 136.550の地点で輸送船、タンカー、哨戒艇を相次いで発見。しかし、哨戒艇の先制攻撃を受け、14発に及ぶ爆雷攻撃で艦尾発射管室のバルブが損傷するなどの被害を受けた。12月11日、デイスは49日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。 エンライトは司令部に報告のため出頭した。報告は「自分は艦もスタッフも担当海域も、あらゆる優れたものに恵まれた」で始まり、「今回の哨戒任務が不作だったのは自分の責任ですから」と、自ら自分をデスクワークに廻してくれるよう要請、これが潜水部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将(アナポリス1912年組)に受理され、エンライトは12月28日付でミッドウェー島の潜水艦救護隊隊長に転じた。エンライトは3日後の1944年1月1日付で中佐に昇進し、ミッドウェー島の潜水艦基地の副司令にも就いた。自らを責めて艦長の座を辞したエンライトだったが、再び艦長に就く機会が訪れる。
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