西洋美術史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 01:13 UTC 版)
近世
イタリア初期ルネサンス美術
ルネサンスは「再生」を意味するイタリア語 rinascita から派生した呼称であり、古典古代文化の復興という思想のもと、ギリシア美術やローマ美術の復活と自然の美や現実世界の価値が再発見され、人間の尊厳が再認識された時代を指す言葉となった[129][130][131]。イタリアの建築家で人文主義者であったレオン・バッティスタ・アルベルティは「意思さえあれば人間は何事も為し得る」という、人間の可能性に絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術の根底に流れる人間中心主義という世界観を見事に表現している[132]。こうした思想は15世紀前半、市民階級がいち早く台頭した都市フィレンツェで芽生えた[133]。
建築分野ではサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋設計を手がけたフィリッポ・ブルネレスキの名が挙げられる[133]。ブルネレスキの設計した聖堂は、ゴシック様式の建築からの明確な離脱を示し、バシリカ式聖堂のエッセンスを取り入れつつも調和と秩序を重要視した人間中心的世界観を体現しており、15世紀にフィレンツェで確立されたルネサンス建築の代表的な作例となった[133][134]。こうした理念はアルベルティへ継承され、その理念を元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世の芸術家たちに絶大な影響を与えることとなった[133][135]。また、古代ローマ建築の実測を行うことで、科学的遠近法を発見したことでも後世に大きな影響を残している[136]。
ブルネレスキの死後はアルベルティが台頭することとなる[137]。フィレンツェから追放された商人の息子であったアルベルティはローマ教皇庁や諸侯の顧問として西欧各地を歴訪しており、こうしたルネサンス様式がヨーロッパ全土に伝播する間接的な貢献をしていたとも言える[133]。15世紀半ばに入り、共和制の理想が鳴りを潜め、豪商が町の政治を取り仕切るようになると、大富豪の市内邸宅(パラッツォ)の建築が相次ぐようになった[138]。ミケロッツォ・ミケロッツィが建設したメディチ家の市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序と安定を志向するルネサンス建築の思想が表現されたパラッツォの代表的な作例である[138]。
彫刻分野は古代思想の復活という理念が色濃く示された分野であり、ブルネレスキの『アブラハムの犠牲』など、優雅なゴシック彫刻の伝統を打破する力強い人体の把握や細微な写実性を有した作品が数多く登場した[138][139]。この分野において、国際ゴシック様式からの脱却を試みた最初の彫刻家はオルサンミケーレ聖堂の『4人の聖者』などで知られるナンニ・ディ・バンコであると言われている[139]。古代ローマ以降で初めてコントラポストを採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角を現したドナテッロは、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマの作風の復活に心血を注ぎ、ルネサンス彫刻の方向性を決定付けた[138][140][141]。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンルで裸体表現を取り入れたという点において特筆すべき作品となっている[138][142]。ドナテッロの確立したルネサンス彫刻の様式はその後ヴェロッキオやミケランジェロへ受け継がれていくこととなる[138]。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作したルカ・デッラ・ロッビア、後期ゴシック様式を学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法を確立したロレンツォ・ギベルティ、墓碑彫刻や写実的な胸像で新境地を開拓したロッセリーノ兄弟(ベルナルド・ロッセリーノ、アントーニオ・ロッセリーノ)などが代表的な彫刻家として知られている[143][144]。
建築や彫刻分野と比較して絵画分野における革新性の確立は若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている[145][146][注釈 3]。1421年にフィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式の画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが制作した『マギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間に対する配慮は乏しく、目新しさはあまり無い状態であった[148]。しかし、マサッチオの登場により、情勢は一変した[148][146]。ジョット・ディ・ボンドーネがかつて確立した僅かばかりの空間表現に、光の明暗によって量感を表現する手法が融合され、より奥深い空間を手に入れることに成功したのである[149][150]。
さらに、ブルネレスキやアルベルティによって合理的な透視図法の理論が構築されると、多くの画家がその刺激を受けて次々と実験的な作品が誕生した[151]。彩色や光の扱い方が拙いながらも透視図法の研究に没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品を発表した国際ゴシック様式の画家パオロ・ウッチェロはその最たる例である[151][152]。その後、修道僧画家のフィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコらによってマサッチオの様式が取り入れられる[151]。リッピは日常的室内に聖母子を配置したネーデルラント風の絵画を制作した他、人間中心主義を根底に世俗的かつ官能的な聖母や肉感的なイエスなどを描き出している[151]。『受胎告知』などの作品で知られるフラ・アンジェリコは1430年代以降においてマサッチオの空間表現や明暗描写を積極的に取り入れた宗教画を多数制作した[151]。正確な一点透視図法を採用し、聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題を確立したドメニコ・ヴェネツィアーノもマサッチオの影響を受けた画家の一人である[151][153]。
15世紀後半に入るとフィレンツェで熟成されたルネサンスはイタリアの各都市へ波及していくこととなった[151]。そして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロやイザベラ・デステといった人文主義的な君主の治世によって、各都市で豊かな文化活動が育まれた[154]。南トスカーナのアレッツォ、およびトスカーナ公国で精力的に作品制作に没頭した数学者で画家のピエロ・デラ・フランチェスカは、15世紀中期における最大の巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画の分野では、一切の無駄を排除し、幾何学的とも言える明晰で秩序立った画面を構築している[155][156]。
一方、絵画・彫刻双方の主題に「動勢」が取り入れられるようになり、アントニオ・デル・ポッライオーロによる力を孕んだ写実的な筋肉の描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識を導入した生々しい人体表現を持った作品が登場するようになったのも15世紀後半の出来事であった[157]。また、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美で装飾的な様式を持った作品が流行を来し、サンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』に代表される恥美的世界観を表現した作品が生まれている[157]。その他、アンドレア・マンテーニャやジョヴァンニ・ベリーニもフィレンツェ以外に活動の拠点を置いた同時代の画家として知られ、ルネサンスの波及を象徴している[158]。
15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノらによってシスティーナ礼拝堂の壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動が展開された[159][160]。1492年にロレンツォ・デ・メディチが没し、フィレンツェが禁欲的なジロラモ・サヴォナローラの支配下に置かれたことによってローマの芸術活動はさらに盛り上がりを見せ、16世紀にはイタリア美術の中心地へと発展していくこととなる[159][161]。
15世紀の北方美術
ブルゴーニュ公国に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された[162]。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した[162][163]。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている[162]。
さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄フーベルトが着手し、弟ヤンが完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である[162][注釈 4]。ヤンはフィリップ3世の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している[165]。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される[165]。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった[165]。
同じ頃、トゥルネーで活躍していたロベルト・カンピンは写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事したロヒール・ファン・デル・ウェイデンによって継承された[166]。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている[166]。
その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けたディルク・ボウツ、フーゴー・ファン・デル・グース、ハンス・メムリンクらがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した[166]。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた[166]。一方、ヒエロニムス・ボスは同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている[166][167]。
同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた[168]。そのような中、シャルル7世の宮廷画家をしていたジャン・フーケが『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している[169]。しかし、アンゲラン・カルトンなど、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた[169]。
対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、シュテファン・ロッホナーやコンラート・ヴィッツなどが活躍した[169]。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている[169]。15世紀後半に入ると、ミヒャエル・パッハーによって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された[169]。また、新しい分野として版画美術が伸張し、マルティン・ションガウアーの登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠アルブレヒト・デューラーの芸術を育んだ土壌を形成している[169]。
イタリア盛期ルネサンス美術
イタリアルネサンスのうち、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に盛期ルネサンスと呼称し、区別される[170]。これは19世紀に定まった芸術観を背景として、この時代を古代ギリシア・ローマと並ぶ西洋美術の完成期と見做し、それ以前を完成に至る準備段階として軽視していた考え方が根付いたためである[170]。しかし、今日では「初期ルネサンス」「盛期ルネサンス」を比較し、どちらが優れているかといった考え方は改められ、それぞれに特質や魅力が備わっている別個の美術として理解されてきており、その違いを区別するための名称として使用されるようになっている[170][171]。主たる舞台はユリウス2世の庇護のもとで活気を取り戻したローマと、東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で巨万の富を築いたヴェネツィアである[172][173]。
1470年代から活動をはじめたレオナルド・ダ・ヴィンチは、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した[172]。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している[172][174]。
絵画では『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などを制作しており、特に『モナ・リザ』に使用された新しい技法であるスフマート(ぼかし)は、画面に新たな統一感をもたらし、人物に精気と神秘的雰囲気を与える技法として西洋絵画の様相を一変させるほどの影響を与えた[175][176][注釈 5]。また、自然科学の分野では、鋭い観察力と的確な描画力で解剖学や水力学などの研究に先駆的な業績を残したことも特筆すべき事項である[172][178]。
一方、ギルランダイオに師事したミケランジェロ・ブオナローティは人体における新しい表現様式を確立させ、彫刻、絵画の分野において突出した作品を生み出した[175][179]。ミケランジェロが制作した『ダヴィデ』はルネサンス全体を通して代表的な作品として知られている[175][180]。ローマに赴いた後、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を手がけ、『創世記』の諸場面やキリストの祖先たちの姿を描き出している[175]。特に『アダムの創造』では超越者と人間アダムの邂逅が印象的なタッチで描かれ、アダムの姿は盛期ルネサンスにおける理想的人間像として高い評価を獲得した[175]。従来、ミケランジェロは色彩の乏しい画家との評価がなされてきたが、『アダムの創造』が洗浄され、その色使いが露になったことで、その評価を覆した作品としても名高い[181]。
また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している[175]。1546年にドナト・ブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた[182]。
ペルジーノに師事したラファエロ・サンティは、レオナルドやミケランジェロの業績を巧みに取り入れ、20代半ばの若さで独自の人物表現と画面構成の形式美を確立させ、『アテナイの学堂』に代表されるバチカン宮殿の壁画を制作している[183][184][185]。ラファエロが確立した形式美は盛期ルネサンス以降の代表的規範として17世紀から19世紀にかけての多くの画家に影響を与え続けた[186][187]。
この時代、教会や公共施設による注文以外にも富裕層からの注文による美術品の制作が盛んに行われ、ジョルジョーネの『嵐』に代表されるような周知の物語主題から逸脱した、絵画の感覚的魅力を優先する作品が数多く登場したのも、盛期ルネサンスの特色のひとつと言える[186]。
こうした市場ニーズに呼応してヴェネツィアでは色彩と絵具の塗り方が重要な地位を占めるようになり、デッサンに彩色するフィレンツェの技法に対して色彩で造形するという新しい技法が誕生した[186]。レオナルドのスフマートを取り入れつつ、この技法を確立させたのがジョルジョーネであり、早世したジョルジョーネの後を受け継いで油彩技法のあらゆる可能性を探究したティツィアーノ・ヴェチェッリオであった[188][189]。
宗教画家・肖像画家としても絶大な人気を誇っていたティツィアーノであるが、『芸術家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、ティツィアーノが描いた『エウロペの掠奪』について「近くから見るとわけがわからないが、離れて見ると完璧な絵が浮かび上がってくる」と評しており、近代油彩画の創始者としてしばしば名が挙げられるようになっている[190][191]。同時に、静的な伝統を持つヴェネツィア絵画にダイナミズムを導入したこともティツィアーノの功績として知られている[190]。
マニエリスム美術
マニエリスムという言葉は「様式」や「手法」を意味するイタリア語 maniera から来た言葉で、ヴァザーリはこれを「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義付けた[190]。しかし、17世紀に入った頃より、生み出される芸術は創造性を失い、盛期ルネサンス時代の巨匠たちの模倣に過ぎないと見做されるようになり、否定的呼称として用いられるようになる[192]。その後、21世紀に入って対比評価と切り離され、盛期ルネサンスの特徴であった自然らしさと自然ばなれの調和が崩れ、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が存在する作品が登場した盛期ルネサンス後の芸術的動向を指し示す時代様式名として用いられるようになった[193]。
最初にマニエリスムの名が冠されたのは、ルネサンスの古典的調和への意識的反逆と解釈されたヤコポ・ダ・ポントルモやロッソ・フィオレンティーノの作品であった[193]。しかしながら、ミケランジェロの後半期作品をマニエリスムに含める見方や、アーニョロ・ブロンズィーノ、ベンヴェヌート・チェッリーニ、ジャンボローニャのような社会に享受された奇想を指してマニエリスムと呼称する解釈もあり、その範囲や定義は今日なお流動的である[193]。
16世紀初頭は盛期ルネサンスの様式とマニエリスム美術が混ざり合った混沌とした時代であったが、アルプス以北の諸国では比較的早くからマニエリスム美術が受容され、フォンテーヌブロー派による作品が複数残されている[193]。ヴェネツィアでは盛期ルネサンスが他地域よりも持続するが、16世紀後半に入るとティントレットが登場し、その画風にマニエリスムの特徴が見て取れるようになる[193]。その後、ティントレットの影響を受けたクレタ島出身のエル・グレコが、ローマでミケランジェロの芸術に感化され、スペインのトレドでマニエリスム的特徴とヴェネツィア絵画的筆致を融合させた宗教画を作成している[193]。
一方、パルマではコレッジョがマンテーニャの試みを発展させた、感覚的魅力に溢れた作品を制作しており、その中で導入された明暗対比の強調や、天井画におけるダイナミックな上昇表現などは、後世のバロック美術の到来を予告しているかのような雰囲気を醸している[193]。その他、盛期ルネサンスとバロック美術の橋渡し的な存在となった画家としてはパオロ・ヴェロネーゼがいる[194]。ヴェロネーゼが制作した『レヴィ家の饗宴』は当初、『最後の晩餐』と題していたが、主題と無関係な人物を多数描き込んだ事で異端尋問にかけられ、「美しい絵を作る画家の自由」を主張し、タイトルの変更を余儀なくされた作品として知られている[194]。
建築分野では『建築四書』を著したアンドレーア・パッラーディオの名が挙げられる[194]。パッラーディオが設計したヴィラ・アルメリコ・カプラは古典主義建築の規範を示す作品として19世紀に至るまで国際的影響力を固持した[194]。16世紀後半にはジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ、ジャコモ・デッラ・ポルタによってイエズス会の母教会『イル・ジェズ聖堂』が建てられ、外観正面のデザインや身廊と円蓋下の明暗対比などの構成要素が、バロック美術における聖堂建築の原形となった[194]。
北方ルネサンス美術
ドイツのデューラーは、15世紀末から16世紀初頭にかけて行った二度のイタリア旅行を通してルネサンス美術の様式と理念を習得し、人体表現、空間表現において理想とされる技法様式をドイツ絵画へ移入しようと試みた[194][195]。この成果は木版画の分野において、ドイツの伝統的な表出性とイタリアの記念碑性を融合させて制作された『黙示録連作』で体現されている[194]。銅版画の分野ではエングレービング技法を極め、『メランコリア I』や『アダムとエヴァ』といった人文主義的内容の作品、理想的裸体像を持った作品を制作し、ルネサンスの母国イタリアへも大きな影響を与えた[194]。また、油彩画では『4人の使徒』が代表的な作品として知られている[194]。その他、『人体均衡論』などの著述にも注力し、後世の芸術家に大きな影響を与えた[194]。
線描主体であったデューラーとは対照的に、色彩表現に長けていたマティアス・グリューネヴァルトは『イーゼンハイム祭壇画』などを制作し、ゴシック末期美術の幻想性を継承した特徴を内包している[196]。また、クラーナハ(父)はドイツの森を舞台として古代神話の主題を表現したことで知られている[196]。『ドナウ風景』は西洋美術史上初めて具体的な実景を人間存在抜きで描いた画期的な作品として特筆される[196]。
1517年、マルティン・ルターによって宗教改革の機運が高まると美術活動にも深刻な影響を与え、宗教美術が否定的に見られるようになる[196]。ホルバイン(子)ら宗教画家として活動していた者は次第に肖像画家や宮廷画家へと転向していった[196]。
フランスでは1494年のイタリア遠征でルネサンスの美術に触れたシャルル8世によって多くの建築家が招聘され、王室主導の下建築を中心としたフランスルネサンスが開花する[197]。フランソワ1世の時代にはロワール川流域の城館改修が実施され、ゴシック建築の伝統とイタリアルネサンスの特色が融合された建築物が多数登場した[197]。また、1520年代末にはフォンテーヌブロー城館の改装が始められ、ロッソ・フィオレンティーノ、フランチェスコ・プリマティッチオらを招いて内部装飾を手がけさせた[197]。ここから誕生したイタリアのマニエリスムを体現したロッソらの作品は、フォンテーヌブロー派と呼ばれる宮廷美術様式を生み出す契機になった[197]。その他、ドイツのホルバイン(子)に共通する精緻な様式を確立させたジャン・クルーエ、フランソワ・クルーエ父子や、チェッリーニの影響を受けつつもフランス独自のルネサンス彫刻を誕生させたジャン・グージョンなどがいる[197]。
他方、ネーデルラントの絵画美術は15世紀の段階で成熟し、油彩技法や写実的表現においてイタリアに影響を与える側であったが、盛期ルネサンスを迎えて以降は立場が逆転し、イタリアの美術や古典古代の美術を手本として仰ぐようになった[198]。16世紀初頭に活動したクエンティン・マサイスの画風にはレオナルドのスフマートの影響が見て取れ、ヤン・ホッサールトは古代彫刻風裸体像を描き出している[199]。また、ベルナールト・ファン・オルレイは数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現をネーデルラント美術に取り入れた画家として重要である[199]。こうした、15世紀ネーデルラントの精緻な様式からの脱却と、ルネサンスの壮大な様式への推進を行う者を総じて「ロマニスト」と呼び、こうした傾向自体が16世紀ネーデルラント絵画の特徴のひとつとして挙げられる[199]。
肖像画においてはアントニス・モルが国際的な活躍を果たしたと同時に、ネーデルラント北部の美術活動の活性化に大きく貢献した[199]。デューラーの影響を受けつつも精緻な銅版画を制作したルーカス・ファン・レイデンなどは北部で活躍した代表的な美術家の一人である[199]。さらに、1524年にローマからユトレヒトに戻ったヤン・ファン・スコーレルの影響によってロマニストの活動は北部へも浸透していった[199]。16世紀後半にはプロテスタントの聖像破壊運動などによる宗教的、政治的騒乱が美術活動の発展を妨げたが、16世紀末に登場したコルネリス・ファン・ハールレム、ヘンドリック・ホルツィウスらの活躍により、プラハと並んでハールレムが国際マニエリスムの中心地として栄えた[199]。
16世紀ネーデルラント絵画のもう一つの特徴としては風俗画、風景画、静物画の自立が挙げられる[200]。カタリナ・ファン・ヘメッセンおよびピーテル・アールツェンを嚆矢とするこの傾向は、16世紀初頭のヨアヒム・パティニールによって大きく前進を見る[201]。パティニールは観察と空想から合成された俯瞰図の中に宗教主題の人物を点景として描き表し、人物と背景の関係性の逆転に成功している[201]。その後、ピーテル・ブリューゲルによってこの様式は完成され、後世に多大な影響を残した[201]。『雪中の狩人』はその代表的な作品のひとつである[201][202]。
バロック美術
異論はあるものの17世紀の西洋美術時代様式を一般にバロック美術と称する[203][204]。バロックという言葉の意味については諸説あるが、「規範からの逸脱」を示す形容詞として18世紀末ごろより使用されはじめ、建築を中心とした17世紀の美術に対して否定的な意味で適用された[203][205]。また、狭義には17世紀美術の傾向の一つという意味で使用され、劇的で奔放な特徴を持つ17世紀の作品に対してのみ適用される場合もある[203][204]。
この時代、盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎつつも、より現実に即した表現が強調されるようになり、時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など、実社会により密着したテーマを選定する様式が確立する[203]。活動の舞台はローマを中心に展開されていたが、18世紀初頭にかけてルイ14世の治世には、フランスが政治面とともに文化面でも中心的役割を果たすようになる[203]。
16世紀後半、イタリアの美術活動はそのほとんどをヴェネツィアに依拠していたが、この状況を打破しようとアンニーバレ・カラッチによって1580年代のボローニャにアカデミア(画塾)が設立される[203]。古代美術と盛期ルネサンス美術の理想性とモデルの写生素描という現実性の融合を試みた追究は広く支持され、ボローニャ派と呼ばれる新しい作風の体現に成功した[203]。また、カラッチは理想化されたローマ近郊の風景の中に聖書の人物を描き込む「古典主義的風景画」を創始したことでも知られている[203]。
カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした[206]。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い[206][207]。
彫刻および建築の分野ではジャン・ロレンツォ・ベルニーニがこの時代の代表的な美術家として名が挙げられる[206]。若くして名声を確立したベリニーニは『聖テレジアの法悦』で現実の光を巧みに取り入れた彫刻と建築を組み合わせた作品を制作している[208]。その他、多くの噴水彫刻の設計にも携わり、ローマの景観を作り変えたと言われるほどの影響を残した[209]。ベルニーニに師事し、終生のライバルでもあったフランチェスコ・ボッロミーニも、独創的な建築表現で名を残した一人である[209]。代表的な建築物としてはサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂があり、絵画や浮彫による装飾を必要最低限に抑え、波打つようなカーブや圧力で歪んでいる様な緊張を感じさせる、特異な壁面構成の効果を引き出すことに成功している[209]。
フランドルではリュベンスの登場により新しい絵画の様式が確立される[210]。10年近くの間イタリアに滞在し、盛期ルネサンスの美術を習得したリュベンスは、ネーデルラントに帰国した後に制作した『キリスト昇架』によって、ヘレニズム彫刻やミケランジェロを想起させる人体表現とカラヴァッジオに見られる明暗法を見事に融合させ、壮麗で活力漲る独自の方式を完成させた[211]。リュベンスはカトリック復興の気運高まる当時の社会背景から多数の祭壇画を制作する一方で各国宮廷に向けた大規模な建築装飾画を創出し、国際的な評価を獲得した。また、晩年にはブリューゲルの伝統を発展させたフランドルの自然を描き出し、風景画の新たな局面を生み出した[212]。
その他、フランドルを代表する画家としてはアンソニー・ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンスなどがいる[212]。リュベンスの助手として出発し、チャールズ1世の宮廷画家として半生をイングランドで全うしたヴァン・ダイクは、優雅で細線な自身の特徴を活かして肖像画の分野において独自性を発揮し、貴族的肖像画の規範を築き上げた[212]。ヨルダーンスは宗教画や神話画を風俗画的観点で描き出すことを得意とし、庶民的な活力溢れる作品を残している[212]。また、17世紀の美術愛好家の蒐集を描き出した「画廊画」という画種も、フランドルの特徴のひとつとして取り上げられる[212]。
16世紀末にオランダ共和国として独立したネーデルラント北部では、国際貿易による経済発展を背景として市民層に向けた作品が大いに発達した[213]。市場競争での勝ち残りをかけた熾烈な技巧発達が見られ、卓越した技術を持った画家を数多く輩出した点は特筆に価する[214]。アムステルダムを活動の拠点においたレンブラント・ファン・レインはその最たる例である[214]。その他集団肖像画や半身像の風俗画を得意としたフランス・ハルス、寓意や諺、民間行事を主題とした作品を描き続けたヤン・ステーン、日常行為に携わる人物を静物画のタッチで捉えて風俗画の新たな境地を開拓したヨハネス・フェルメールなどが代表的な画家として挙げられる[215]。とりわけ、フェルメールは19世紀に入ってその近代性が大いに注目を集め、17世紀最大の画家として評価されるに至った[216]。
他方、写実的傾向が強まった17世紀のスペインでは黄金時代と呼ばれるほどの美術繁栄がもたらされ、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・スルバラン、バルトロメ・エステバン・ムリーリョといった巨匠が登場した[217]。ベラスケスはカラヴァッジオの影響著しい活動初期を経てヴェネツィア絵画やリュベンスとの接触によって自身の技法と様式を洗練させ、視覚的印象を的確に捉える新しい描法を編み出し、『ラス・メニーナス』を始めとする多くの作品を誕生させた[217]。スルバランも同じくカラヴァッジオに強く影響を受けたセビーリャの画家であるが、素朴で神秘主義的な様式を確立させ、静物画や宗教画を厳格な筆致で描き上げた[217]。ムリーリョはフランドル絵画に影響を受けた画家で、華麗な色彩で甘美な宗教画を制作するとともに、風俗画においても人気を博した[217]。写実的傾向の推進は下地となったイスラム美術の影響と相俟ってバロック美術が内包する装飾性の強化に繋がり、この時代のスペイン美術の特徴として表されるようになった[217]。スペイン黄金時代美術
フランス絵画では終生をローマで活動したニコラ・プッサン、クロード・ロランが代表的な画家として取り上げられる[218][219]。ラファエロとカラッチの影響を強く受け、厳格な古典主義様式を確立させたプッサンは『アルカディアの牧人』を筆頭に、古典や神話、聖書の主題を考古学的時代考証を交えて描き出すという理知的な作品の創出に注力した[218]。また、ロランは古典主義的風景画の展開に大きな足跡を残した人物として知られ、ローマ郊外の田園やナポリ湾の風景を理想化して古代の情景として登場させ、過去への郷愁を想起させる詩的風景画を誕生させた[218]。両名の芸術はイタリア、フランスの上流階級層に広く受け入れられ、ルイ14世が設立した王立アカデミーにおいてはラファエロやカラッチとともに規範として仰がれるまでの影響を与えた[218]。一方で建築分野においてはイタリア起源のバロック建築に対して古典主義建築がフランスの様式であるとする考えが広まり、クロード・ペローのルーヴル宮殿を筆頭に古代風様式に基づく建設が各地で行われた[220]。また、ジュール・アルドゥアン=マンサール、ルイ・ル・ヴォー、アンドレ・ル・ノートルらによって造営されたヴェルサイユ宮殿は宮殿建築の範例として大きな影響を与えた[221]。
ロココ美術
1710年代から60年頃までのフランスの美術様式を中心とした時代様式を一般にロココ美術と呼称する[222]。ロココという言葉は、後世の新古典主義時代にルイ15世時代の美術を軽視して呼び始めた事を嚆矢とし、バロック建築における庭園装飾で使用されたロカイユと呼ばれるデザインに端を発する[222]。現代においては該当する時代の美術を判然とロココ美術と呼ぶようになったため、性質や指向の相反する文化現象が同様の名の下に冠されることが美術史的観点から問題となっている[222]。
この時代の美術史を概観すると、建築、絵画において特徴的な発展が見られる[222]。ガブリエル=ジェルマン・ボフランらによって建造されたオテル・ド・スービーズは、白地に金の装飾が施された壮麗な室内はロココ建築の特徴を現す代表的な作例である[222]。17世紀後半にはギリシア美術、ローマ美術への関心が高まり、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって古代風の柱を採用した小トリアノン宮殿が建設された[222]。その他、イタリアの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージはローマ古代遺跡の壮大さを現し、後世新古典主義やロマン主義に大きな影響を与えたことで知られている[223]。
工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された[224]。ドイツのマイセンが飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である[224]。彫刻分野ではジャン=バティスト・ピガール、エティエンヌ=モーリス・ファルコネ、ジャン=アントワーヌ・ウードンらが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった[224]。
絵画におけるロココ美術の始祖はアントワーヌ・ヴァトーであると言われている[224]。フランドル地方出身のヴァトーは、パリでの修行過程において様々なテーマ、様式の美術と接触することで才能が開花した[225]。中期の代表作『キュテラ島の巡礼』に示された戸外での男女の戯れを表現する画題は「雅な宴(フェート・ギャラント)」と呼ばれ、ロココ美術を語る際に不可欠な要素へと昇華し、ニコラ・ランクレやジャン=バティスト・パテルなどによって追随する形で同様の画題作品が発表されるなど、同年代を含む後世の画家に多大な影響を与えた[226][227]。フェート・ギャラントはポンパドゥール夫人の庇護を受けたフランソワ・ブーシェによって官能性を帯びた雰囲気を醸し出すようになり、ヨーロッパ中へ広まった[226][228]。こうした画風はロココ美術最期の画家とされたジャン・オノレ・フラゴナールへと受け継がれていくこととなる[229]。一方で市民的な感性では家族的テーマが好まれる時代となり、ジャン・シメオン・シャルダンやジャン=バティスト・グルーズに代表されるような市井の人々の様子を描いた人物画や、中産階級の家庭の一端を描いた静物画などが数多く生み出された[229][230]。
また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった[231]。これによってドゥニ・ディドロに代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる[231]。
一方、イタリアではアレッサンドロ・マニャスコ、ジュゼッペ・マリア・クレスピらによって新しい方向性を持った絵画が生み出された[223]。18世紀に入るとジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが登場し、白を基調とした明るい天井画や壁画を制作し、重量感を取り去った自由な装飾作品が生まれている[223]。また、イギリスでは大陸美術の輸入により絵画技法が飛躍的に向上したのが18世紀で、19世紀に到来する黄金期の準備段階のような時代となった[231]。代表的な画家としてはトマス・ゲインズバラ、ジョシュア・レノルズなどがいる[231]。
注釈
- ^ 先エトルリア文化であるヴィッラノーヴァ文化の時代を加える場合もある[71]。
- ^ キリスト教を主題とした現存する最古の美術品は紀元2世紀から3世紀にかけてのもので、イエス時代を含めそれ以前のものについては発見されていない[89]。
- ^ 15世紀のルネサンス時代に生きた画家が見ることが出来たローマ時代の壁画としては、トラヤヌス浴場の下から発掘されたドムス・アウレアぐらいであったとされている[147]。
- ^ 両者の担当区分については議論が交わされてきたが、平面性を重視した構図を採用した部分がフーベルト、アダム、イヴの仰瞰像および現実的な奥行き感を表現した受胎告知の部分がヤンの手によるものであるとするのが今日の定説となっている[164]。
- ^ スフマート自体はつたないながらも先に描いた『岩窟の聖母』で使用が試みられている[177]。
- ^ 水晶宮は1851年にロンドンで開かれた万国博覧会の会場として建設されたものであり、現在は解体されて残っていない[256]。
- ^ 『オランピア』はティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』に代表されるルネサンス以来の伝統的な横たわるヴィーナスの構図を借用しつつ現代パリの高級娼婦を描き出した作品である[260]。
出典
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 6.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, pp. 4–5.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 7.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 5.
- ^ (B.C25000〜20000年)
- ^ (B.C20000〜10000年)
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 7.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 6.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 8.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 18.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 10.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 11.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 9.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 9.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 30.
- ^ a b c d 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 27.
- ^ 『西洋美術史入門』 2012, p. 146.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 26.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 9–10.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 10.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, pp. 27–28.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 28.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 11.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, pp. 31–32.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 12.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 32.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 14.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 35.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 38.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 15.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 16.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 14.
- ^ 『古代エジプト ファラオ歴代誌』 2006, p. 22.
- ^ 『エジプト美術』 1973, p. 9.
- ^ 『古代エジプト ファラオ歴代誌』 2006, p. 45.
- ^ 『エジプト美術』 1973, p. 12.
- ^ 『古代エジプト ファラオ歴代誌』 2006, p. 42.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 19.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, pp. 19–20.
- ^ 『古代エジプト ファラオ歴代誌』 2006, p. 112.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 16–17.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, pp. 21–22.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 17.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 23.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 18.
- ^ a b 『古代エジプト ファラオ歴代誌』 2006, p. 160.
- ^ 『エジプト美術』 1973, p. 88.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 19.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 26.
- ^ a b 『エジプト美術』 1973, p. 96.
- ^ 『西洋美術史要説』 1981, p. 28.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 22.
- ^ 『古代ギリシャ』 2012, p. 15.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 23.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 24.
- ^ 『西洋美術への招待』 2003, p. 1.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 25.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 26.
- ^ 『古代ギリシャ』 2012, p. 36.
- ^ 『古代ギリシャ』 2012, p. 53.
- ^ 『古代ギリシャ』 2012, p. 57.
- ^ a b c 『西洋美術への招待』 2003, p. 35.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 27.
- ^ 『西洋美術史入門』 2012, p. 148.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 28.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 29.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 29–30.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 30.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 31.
- ^ a b 『イタリアを知るための55章』 1999, p. 16.
- ^ 『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』 1994, p. 134.
- ^ 『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』 1994, pp. 134–135.
- ^ 『イタリアを知るための55章』 1999, pp. 15–16.
- ^ a b c 『西洋美術史入門』 2012, p. 150.
- ^ a b c d 『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』 1994, p. 136.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 31–32.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 32.
- ^ 『ローマ人の世界』 1996, p. 134.
- ^ 『ヨーロッパの中世美術』 2009, p. 38.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 32–33.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 33.
- ^ 『ローマ人の世界』 1996, p. 135.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 33–35.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 35.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 35–36.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 36.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 38.
- ^ 『ヨーロッパの中世美術』 2009, pp. 15–17.
- ^ a b 『西洋美術への招待』 2003, p. 37.
- ^ 『西洋美術への招待』 2003, p. 38.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 39.
- ^ a b 『西洋美術史入門』 2012, p. 152.
- ^ 『ヨーロッパの中世美術』 2009, p. 17.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 40.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 42.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 44.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 46.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 47.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 48.
- ^ 『ヨーロッパの中世美術』 2009, p. 9.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 50.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 51.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 52.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 54.
- ^ a b 『西洋美術への招待』 2003, p. 65.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 55.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 55–57.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 57.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 58.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 57–58.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 58–60.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 60.
- ^ a b 『西洋美術史入門』 2012, p. 154.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 60–61.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 61.
- ^ 『西洋美術への招待』 2003, p. 3.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 62.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 62–64.
- ^ a b c d e f g h i 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 64.
- ^ 『西洋絵画史 WHO'S WHO』 2005, p. 1、3、5.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, pp. 89–93.
- ^ 『西洋美術史入門』 2012, p. 156.
- ^ 『ルネサンスとは何か。』 2012, p. 56.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 64–67.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 67.
- ^ 『西洋絵画史 WHO'S WHO』 2005, p. 21.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 68.
- ^ 『西洋絵画史 WHO'S WHO』 2005, p. 15.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 70.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, pp. 70–76.
- ^ 『ルネサンスとは何か。』 2012, p. 20.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 70–71.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 71.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 255.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 265.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 225.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 227.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 72.
- ^ a b 『西洋美術の歴史』 2001, p. 218.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 258.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 219.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 220.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 74.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 256.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 74–75.
- ^ a b 『西洋美術の歴史』 2001, p. 228.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, pp. 72–74.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 75.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 76.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 264.
- ^ a b c d e f g 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 77.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 259.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 231.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 77–78.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 78.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 233.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 79.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 79–80.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 80.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 149.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, pp. 124–125.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 81.
- ^ 『ルネサンスとは何か。』 2012, p. 32.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 81–82.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 82.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 83.
- ^ 『ルネサンスとは何か。』 2012, p. 114.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 83–84.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 84.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 86.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 241.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 87.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, pp. 216–218.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 279.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 88.
- ^ 『ルネサンスとは何か。』 2012, p. 40.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, pp. 242–244.
- ^ 『ルネサンスとは何か。』 2012, p. 42.
- ^ 『ルネサンスとは何か。』 2012, p. 48.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 247.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 249.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 88–90.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 90–92.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 292.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 253.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 92.
- ^ 『ルネサンスとは何か。』 2012, pp. 51–52.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 92–93.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, pp. 232–233.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 93.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 257.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 93–95.
- ^ a b c d e f g 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 95.
- ^ a b c d e f g h i j 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 96.
- ^ 『ルネサンスとは何であったのか』 2008, p. 287.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 97.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 98.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 98–99.
- ^ a b c d e f g 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 99.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 99–100.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 100.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 177.
- ^ a b c d e f g h 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 102.
- ^ a b 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 157.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, pp. 158–159.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 103.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 160.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 103–104.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 104.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 104–106.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 106–107.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 107.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 107–108.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 108.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 109.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 110.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 111.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 112.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 196.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 112–113.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 113.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 114.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 120.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 115.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 115–117.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 117.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, pp. 210–212.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, pp. 216–217.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 118.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 217.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 119.
- ^ a b c d e f 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 122.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 222.
- ^ a b c d e f g 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 123.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 123–124.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 124.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 124–125.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 125.
- ^ a b c d e f g 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 126.
- ^ 『西洋の美術 視覚とその時代』 2001, p. 220.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 128.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 128–130.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 130.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 130–131.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 131–132.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 132.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 132–133.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 133.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 133–134.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 134.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 134–135.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 135.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 135–136.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 136.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 138.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 139.
- ^ a b c d e f g 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 140.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 141.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 142.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 143.
- ^ 『印象派の誕生』 2010, p. 57.
- ^ 『西洋美術史入門』 2012, p. 172.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 144.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 145.
- ^ 『印象派の誕生』 2010, p. 155.
- ^ 2019/10/07 2019/11/06. “【超入門】西洋美術史・絵画史とは?年表順に解説”. Histography(ヒストグラフィー). 2019年11月10日閲覧。
- ^ 『西洋美術史入門』 2012, p. 174.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 147.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 149.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 154.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 154–155.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 155.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 152.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 156.
- ^ a b c d e f g h 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 157.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 170.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 171.
- ^ a b 『20世紀の美術』 2012, p. 86.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, pp. 86–87.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 87.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 96.
- ^ a b c d e f g 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 159.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 88.
- ^ a b 『20世紀の美術』 2012, p. 99.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 169.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 6.
- ^ a b 『20世紀の美術』 2012, pp. 6–7.
- ^ a b 『20世紀の美術』 2012, p. 9.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 160.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, pp. 11–13.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, pp. 14–15.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 161.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 23.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 162.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 26.
- ^ a b c d 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 163.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, pp. 32–33.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 36.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 164.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 164–165.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 165.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 44.
- ^ a b c d e 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 166.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 166–167.
- ^ 『シュルレアリスム』 2011, pp. 235–236.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 167.
- ^ 『シュルレアリスム』 2011, pp. 7–8.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 167–168.
- ^ 『シュルレアリスム』 2011, pp. 233–234.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 168.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 68.
- ^ a b c 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 174.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 172.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, pp. 172–173.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 173.
- ^ 『西洋美術の歴史』 2001, p. 442.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 175.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 195.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 196.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, p. 191.
- ^ a b 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 190.
- ^ a b 『20世紀の美術』 2012, p. 160.
- ^ 『増補新装 西洋美術史』 2002, p. 190-191.
- ^ 『20世紀の美術』 2012, pp. 160–162.
- 西洋美術史のページへのリンク