西洋美術史
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近代
18世紀から19世紀の美術
フランス革命から第二帝政期に至る18世紀から19世紀にかけてのフランスを中心とした美術様式は、一般に新古典主義、ロマン主義、写実主義の3期に分けて考えられている[232]。18世紀前半に火山噴火によって埋没したローマの古代都市ヘルクラネウム、ポンペイが発見されたことにより、古典・古代の美術を自身の規範としようという機運が高まり、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの思想的支柱を得たことでギリシア美術の模倣を尊ぶ志向がヨーロッパ中を席巻する[232][233]。これは、享楽主義的なロココ美術に反感思想を持つ人々の運動であったとも言われている[232]。その後、ナポレオンの帝政期を経ることでフランスでは帝国の栄光を誇示する美術様式へと変容していき、各国に対する影響力を衰退させる事となった[232]。ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ手段として捉えていたこともあり、皇族の儀式を描いた作品や家族や側近の肖像がなどが大量に制作された[232]。しかし、こうした動きは若い芸術家を中心に焦燥感をもたらす結果となり、主観的な激情に溢れ、社会的矛盾を糾弾するリアリスティックな作品が登場する素地を形成した[232]。同時に、フランス美術の影響力から脱却した周辺各国は国々の歴史や風土に根ざした美術の開花を促進させ、普遍的な古典・古代美術の模倣から国々の特殊性へと関心が移行することとなった[234]。これにより、古典的様式が最良とする考え方は捨て去られ、時と場合に応じた適切な美術様式が選択される折衷主義とも呼べる様式が到来することになった[234]。19世紀中ごろには支配層への不満を募らせた市民社会に対応するかのごとく、社会の現実に目を向け、身の回りの自然を描いた風景画が制作されるようになり、フランス文学とも連動して近代芸術の基調を形成する一大潮流が形作られた[234]。
建築分野では古代建築遺構の本格的な調査によって建築部位の比例や柱式の決定が討議され、18世紀後半に入ると古代建築を規範とした建物の造営が本格化した[234]。パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院を建設したジャック=ジェルマン・スフロは、コリント式の列柱廊を採用し、古代美術の端正で素朴な様式を取り込むことに成功している[234]。また、古典古代建築への関心から幾何学的比例を重視し、ラ・ヴィレットの関門やアル=ケ=スナンの王立製塩所を創出したクロード・ニコラ・ルドゥーやアイザック・ニュートン記念碑を設計したエティエンヌ・ルイ・ブーレーは、空想的建築という新境地を開拓した[234]。考古学的関心が薄れ、帝国の威信表現が横行するようになると特定の建築様式が重視されることが無くなり、過去の様々な様式の応用によって建築がなされた[234]。マドレーヌ聖堂 、カルーゼル凱旋門、マルメゾン城、ウェストミンスター宮殿などが代表的な建築物として知られている[235]。
新古典主義時代の彫刻分野は規範とする古典古代の作例が充実していたこともあり、重要な美術分野として位置付けられた[236]。イタリアのアントニオ・カノーヴァは代表的な彫刻家のひとりで、古代志向の特徴を忠実に再現した上で近代彫刻の複雑な構成を融合させることに成功し、『アモールとプシケー』などを制作した[236]。カノーヴァと双璧をなしたデンマークのベルテル・トルバルセンはヘレニズム時代の彫刻に強い影響を受け、端正で典雅な作品を発表した[236]。その他、イギリスのジョン・フラックスマンは形態把握と構成を古代彫刻に倣いつつもゴシック美術を彷彿とさせる流麗な作品を発表している[236]。新古典主義以降は材質の変化があらわれ、大理石以外の石材や青銅が好んで用いられるようになった[237]。また、表題も裸体に代わって時代考証を経た服装を纏うようになった[238]。しかし、美術全体で見ると新古典主義以降は絵画の影響強く低調に推移し、エトワール凱旋門の浮彫装飾を制作したフランソワ・リュード、肖像彫刻を数多く制作したダヴィッド・ダンジェ、動物彫刻という異質性が話題となったアントワール・ルイ・バリーら若干名の活躍に留まった[238]。
絵画分野において、フランスでは1760年代に登場したジョゼフ=マリー・ヴィアンがロココ風のテーマの絵に古代の構図やポーズを借用した作品を発表して人気を博し、新古典主義時代の口火を切った[239]。その後、ドゥニ・ディドロの影響を受けたジャン=バティスト・グルーズによってローマ史を主題とした作品が制作され、1780年代に入るとヴィアンに師事したジャック=ルイ・ダヴィッドが登場して、新古典主義の栄華は頂点に達する[239][240]。ナポレオン革命期において、「皇帝の主席画家」の称号を得たダヴィッドが残した数多くの作品は後世の多方面に大きな影響を与えた[239]。『ホラティウス兄弟の誓い』『ソクラテスの死』といった物語画はプッサンの影響が強く表われた作品に仕上がっており、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などは革命期の視覚的記録として重要な意味を持つ作品として位置付けられている[239]。
次代には優美なタッチで古代の叙情を再現したピエール=ポール・プリュードン、劇的な表現描法を特徴としたピエール=ナルシス・ゲランらが登場し、新古典主義の作風に影響を受けつつもその変容を見ることが出来る[239]。また、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの小説挿絵を担当したアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンは、古典的な形態に強い明暗を加えたことでロマン主義的な要素の萌芽を示した[239]。一方、同時代のナポレオンの肖像画や遠征絵画を制作していたアントワーヌ=ジャン・グロ、ドミニク・アングルらは新古典主義の正当後継者として、色彩に対する線の優位性、静的な構図といった新古典主義の綱領を最後まで保持した画家として知られている[239]。その他、アングルの弟子からはテオドール・シャセリオーが頭角を現し、東洋的主題の作品を制作してロマン主義的資質を示した[241]。
1819年にはテオドール・ジェリコーが1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の難破事件という時事的テーマを取り上げて『メデューズ号の筏』を発表したことで大きな議論が巻き起こる[241]。ジェリコーの作品は激しいタッチと運動感の描写によって表現され、その非古典主義的なテーマの開拓はロマン主義絵画の先駆者として名が上げられる一因となった[241]。その後、『ダンテの小舟』を描いたウジェーヌ・ドラクロワによって粗いタッチによる動的表現、東洋的主題の採用、色彩の乱舞といったロマン主義絵画の作風が示され、近代絵画の成立に多大なる影響を残した[241]。一方、同世代のポール・ドラローシュはロマン主義的主題を完璧な新古典主義様式で描き出すという移行期ならではの作風で一世を風靡した[242]。エコール・デ・ボザールの講堂壁画はその代表的な作品のひとつである[243]。
以上に挙げたように、19世紀前半のフランスでは文学的、歴史的テーマを描き出した作品が主流となっていたが、バルビゾン派の画家によって自然を的確に捉えた風景画作品が登場したのもこの時代であった[244]。古典主義的端正さを保ちつつ、ロマン主義的な自然愛好的な心情に溢れたテオドール・ルソー、ジャン=バティスト・カミーユ・コローらの風景画は1830年代ごろより写実主義絵画として新たな局面を開くこととなった[244]。1850年前後に入るとオノレ・ドーミエ、ジャン=フランソワ・ミレー、ギュスターヴ・クールベが登場し、写実主義絵画を代表する画家として知られるようになった[245]。1855年、パリの万国博覧会において、私費で個展を開いたクールベは世間に対して攻撃的に写実主義絵画の存在を知らしめ、19世紀後半に誕生する印象主義への潮流を築いた[246]。
他方、イギリスのロンドンでは、1760年代にベンジャミン・ウエストによって新古典主義的絵画が持ち込まれると、ロイヤル・アカデミーの設立やフラックスマンの活躍などもあり、ローマやパリと並ぶ新古典主義絵画の中心地として栄えた[246]。しかし、古典絵画を規範としつつも伝統に縛られない表現は比較的早くから実践され、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ウィリアム・ブレイクといった、個性豊かな画家の輩出に成功している[246]。そういった意味では、主題面における絵画の近代化はフランスに先駆けてイギリスで起こったと言って良い[247]。19世紀前半に入るとジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの登場によってイギリス絵画は風景画黄金時代を迎えることとなった[248]。18世紀に流行した地誌的水彩画から出発したターナーは光の表現を追究して油彩、水彩、素描を問わず多数の幻想的な風景画を世に送り出した[249]。ターナーとは対照的に、空と雲の移り変わりを気象学に基づいた知識で精緻に描き出したジョン・コンスタブルの作品は風景画の進むべき方向性を決定的なものとし、19世紀後半の印象主義絵画に大きな影響を与えた[250]。
ドイツにおける新古典主義は1761年、アントン・ラファエル・メングスによって制作された『パルナッソス』にその影響を見ることができるものの、その後は代表的といえる程の画家は輩出されなかった[251]。19世紀初頭に入るとラテン的な形態把握とゲルマン的な内省性を融合させた作品が登場し、他国に無い特異な美術運動が展開された[252]。この運動はカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲらによる風景画の発展とフランツ・プフォル、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベックらによる人間表現の深化に大別することができる[252]。特にローマに移住した後、ラファエロやデューラーを規範としてキリスト教的作品の創出に注力したオーファーベックらの活動はナザレ派と呼ばれ、後のラファエロ前派に大きな影響を与えた[253]。
その他、スペインに登場したフランシスコ・デ・ゴヤもこの時代を代表する画家の一人である[254]。1799年に主席宮廷画家の地位に着いたゴヤは、その卓越した画力で戦争や侵略への憎悪を訴えた作品を多数発表した[254]。主観的な情熱を画題とし、作品に託したという点ではロマン主義美術の先駆者であると言える一方、人生の課題を作品に反映させたという点では近代芸術のあり方を示した最初の一人であると言える[254]。
19世紀から20世紀の美術
19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった[255]。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる[255]。
建築分野では、シャルル・ガルニエによるパリのオペラ座に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた[255]。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクはこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、アール・ヌーヴォーの建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった[255]。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった[255]。ジョセフ・パクストンの水晶宮は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている[256][注釈 6]。また、シカゴ派と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた[256]。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計したルイス・サリヴァンが挙げられる[256]。
彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された[257]。特に有名なものとしてはフレデリク・バルトルディの『自由の女神像』、ジュール・ダルーの『共和国の勝利』、ポール・アルベール・バルトロメの『死者の記念碑』などが挙げられる[257]。第二帝政期に入るとジャン=バティスト・カルポーが登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンに大きな影響を与えた[257]。アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズに師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した[257]。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった[257]。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている[257]。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『地獄の門』を制作した[257]。その他、19世紀末に活動したドイツのマックス・クリンガーは、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている[258]。
19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた[258]。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させたアレクサンドル・カバネルは、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、ジャン=レオン・ジェロームは『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた[258]。また、ジュール・バスティアン=ルパージュは印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している[259]。
ドイツのアドルフ・フォン・メンツェルによって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている[259]。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める[259]。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出したエドゥアール・マネはそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った[260][261][注釈 7]。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった[262]。また、エドガー・ドガは、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した[263]。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している[263]。その他、日本の芸術がジャポニスムと呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった[263]。
19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった[263]。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していたクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する[263]。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている[264][265]。印象派の「印象」はモネの作品「印象・日の出」から批評家が揶揄したことから定着した[266]。
印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた[264]。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった[264]。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍したポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホらは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した[267]。
他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが象徴主義であった[268]。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こったラファエル前派の運動である[268]。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントらによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた[268]。その他、象徴主義を代表する画家としてはアルノルト・ベックリン、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンなどが挙げられる[269]。
こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、ユーゲント・シュティール、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった[269]。
注釈
- ^ 先エトルリア文化であるヴィッラノーヴァ文化の時代を加える場合もある[71]。
- ^ キリスト教を主題とした現存する最古の美術品は紀元2世紀から3世紀にかけてのもので、イエス時代を含めそれ以前のものについては発見されていない[89]。
- ^ 15世紀のルネサンス時代に生きた画家が見ることが出来たローマ時代の壁画としては、トラヤヌス浴場の下から発掘されたドムス・アウレアぐらいであったとされている[147]。
- ^ 両者の担当区分については議論が交わされてきたが、平面性を重視した構図を採用した部分がフーベルト、アダム、イヴの仰瞰像および現実的な奥行き感を表現した受胎告知の部分がヤンの手によるものであるとするのが今日の定説となっている[164]。
- ^ スフマート自体はつたないながらも先に描いた『岩窟の聖母』で使用が試みられている[177]。
- ^ 水晶宮は1851年にロンドンで開かれた万国博覧会の会場として建設されたものであり、現在は解体されて残っていない[256]。
- ^ 『オランピア』はティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』に代表されるルネサンス以来の伝統的な横たわるヴィーナスの構図を借用しつつ現代パリの高級娼婦を描き出した作品である[260]。
出典
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