後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋) 後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)の概要

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後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 05:44 UTC 版)

『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』
作者本文:後醍醐天皇
料紙装飾・奥書:文観房弘真
完成1339年7月23日延元4年/暦応2年6月16日
種類彩箋墨書(竹紙蝋箋金泥装飾)、宸翰様
寸法33.3 cm × 93.0 cm (13.1 in × 36.6 in)
所蔵醍醐寺京都府京都市
所有者醍醐寺
登録00039
ウェブサイトwww.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NA002/NA002.html

概要

本来の『天長印信』とは、天長3年(826年3月5日に弘法大師空海が高弟の真雅に授けたと伝わる印信(いんじん、奥義伝授の証明書)のことである。現代の研究ではこの印信は偽書とされるが、南北朝時代には空海の真書と広く信じられており、醍醐寺座主(真言宗醍醐派の長)かつ三宝院流(醍醐派の最有力法流)正嫡のみが相伝できる至宝だった。座主ではあるが報恩院流の文観は原本を相伝できなかったので、主君である後醍醐天皇に写しの製作を依頼し、醍醐寺の新たな至宝としたのが本作品である。後醍醐による本文は延元4年/暦応2年6月15日1339年7月22日)成立で、翌6月16日(西暦7月23日)に文観が奥書を付し完成した。ただし、同月25日・26日にも奥書に追記が加えられている。原本や古い副本は散逸したため、『天長印信』は本作品のみが残った。大正3年(1914年4月17日重要文化財指定。昭和26年(1951年6月9日、国宝指定。

印信の内容は真言宗の経典『瑜祇経』の真髄を説くものとなっており、同じく『瑜祇経』に由来する愛染明王に帰依した後醍醐の意に通じるものとなっている。「宸翰」(しんかん)とは天皇の直筆文を指し、歴代天皇は能筆家が多いことから「書の王者」とも言われる。特に、皇統が大覚寺統持明院統の二つに分裂した時期前後の宸翰の書風を、「宸翰様」(しんかんよう)と呼び、禅僧の墨跡の影響が見られ、両統の諸帝が切磋琢磨したため高度な技術を有した。大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統の伏見天皇と共に宸翰様を代表する歴朝最高の能書帝の一人とされる。本作品は崩御二ヶ月前という時期にもかかわらず、「覇気横溢」(はきおういつ)と称される書風はいささかも衰えず、全盛期の荘厳さ・雄壮さがそのまま表現されていると評される。また、特に本作品の筆致に関しては、空海への深い敬慕から、「三筆」の一人に数えられる能書家としての空海(大師流)からの影響が見られるとも言う。

また、本作品は料紙装飾も密教美術として評価が高い。文観は後醍醐の仏教政策上の第一の側近であっただけではなく、中世の代表的な画僧の一人でもあり、後醍醐・後村上朝の様々な仏教美術作品を監修した。本作品の国宝指定名称に含まれる蠟牋(ろうせん)、あるいは蝋箋とは、版木で文様を磨き出された紙のことで、本作品には中央に有翼の仙人の図像がある。さらに、金泥で左右に龍文様(皇帝の象徴)が描かれ、四方に宝珠文様(仏教の福徳および文観自身の象徴)が張り巡らされている。また、舶来の竹紙製の蝋箋が用いられていることから、紙史研究上も注目される資料である。本場中国の宮廷・官庁では、竹紙は保存性の低さから中下級に分類される用紙だったのが、日本では装飾性・希少性の高さから最上級の料紙として用いられるという逆転現象が起きたが、本作品はその代表例である。

崩御2か月前という時期に、南朝の元首とその腹心によって書かれたものであるため、美術作品としてだけではなく、中世政治史における史料としても貴重である。第一に、当時少なくとも真言密教界の一部で、後醍醐天皇が空海の再来と見なされていたことがうかがえる。これには、後醍醐の側から王権強化を図ったという説と、真言僧の側から後醍醐との関係強化を望んだという説がある。第二に、醍醐寺座主や、かつて後醍醐父の後宇多天皇が新設した「東寺座主」(当時の真言宗の事実上の盟主)に、文観が補任されたと書かれている。ここから、天皇と同様に醍醐寺・東寺も南北両朝それぞれ独自に長がいたことや、後醍醐の宗教政策は特異なものではなく父の路線を継承するものだったことが推測される。第三に、『天長印信』原本を含む醍醐寺の秘宝をたびたび文観は借り受け、京都と吉野を往復している。しかし、足利尊氏の護持僧で北朝側の醍醐寺座主だった賢俊と揉めた形跡が見られない。この他いくつかの同時代史料からも考えれば、文観と賢俊が激しい派閥抗争をしたという通説に反し、実際は両者の関係は険悪なものではなく、醍醐寺として南北どちらが勝利しても良いように二人で巧みな対応を取っていたのではないかという主張もある。

作者

後醍醐天皇筆『四天王寺縁起〈根本本/後醍醐天皇宸翰本〉』(国宝四天王寺蔵)

天皇の直筆文を宸翰(しんかん)と言うが[2]、歴代天皇には、空海橘逸勢と共に三筆に数えられる平安時代初期の嵯峨天皇や、伏見院流の祖である鎌倉時代伏見天皇など、能書家も多い。そのため、宸翰は王者の書にして「書の王者」[2]と称される。後醍醐天皇もまた代表的な能書帝の一人であり[3]、本作品を含め3点の書作品が国宝に指定されている[4][5]。後醍醐前後の諸帝の書風のことを特に宸翰様(しんかんよう)と呼び、伏見と共にその筆頭とされるのが後醍醐である[6][7]。宸翰様の特徴は、中国の宋風・禅風の書法を、和様に持ち込んだことであり[6][8]皇統が後醍醐ら大覚寺統と伏見ら持明院統に分かれた時期のため、両統の諸帝は競うように切磋琢磨した[9]

好敵手の伏見の書風が「変幻自在」[10]と評されるのに対し、後醍醐の書風は「覇気横溢」[11](はきおういつ)と帝王たる威風を示すものと評される[7][11]。後醍醐の書には「宋の四大家」の一人黄庭堅の書風を好んだ臨済宗宗峰妙超(大燈国師)の墨跡からの影響が見られるという[11]。なお、古筆学研究者の小松茂美によれば、「宸翰」という言葉自体が、後醍醐天皇が用いた例が日本で二番目に古いという(最古は8世紀の漢詩集『懐風藻』)[12]

真言律宗真言宗醍醐派の僧侶の文観房弘真(もんかんぼうこうしん)は、後醍醐天皇に伝法灌頂(でんぼうかんじょう、阿闍梨(師僧)の資格を与える儀式)等を授け、醍醐寺座主・東寺一長者法務大僧正等を歴任した仏教面での最大の側近[13]。その一方で、西大寺流美術を学んだ中世の代表的な画僧の一人でもあり、自身で絵筆を握った作例として『絹本著色五字文殊像』(重要文化財、奈良国立博物館蔵)などがある[14]。後醍醐・後村上朝での様々な仏教美術作品を監修し、衆生救済を表す『木造文殊菩薩騎獅像(本堂安置)』(重要文化財、般若寺本尊)の発願や、後醍醐の遺影である『絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財、清浄光寺蔵)の開眼などがあり、本作品も代表例の一つである[14]


注釈

  1. ^ 京博本では「或坐哉立」[24]とあるが、字形や意味から「或坐或立」に訂正した。
  2. ^ 内田啓一によるカナ転写:「オン・バザラ・ソキシマ・マカサトバ・ウン・ウン」[25]。「オーン、金剛微細(諸説あるが仏法の智慧を讃えた語)の摩訶薩(「偉大なる衆生」、菩薩の異称)よ、フーン、フーン」。
  3. ^ 内田啓一によるカナ転写:「アクビラウンケン・ウン・キリク・アク」[25]。「地・水・火・風・空、フーン、フリーヒ、アハ」。
  4. ^ 虚空に等しき者」(『大毘盧遮那成仏神変加持経』)。
  5. ^ なお、中国語の「蝋箋紙」とは、文字通り、引きで艶を出した紙のことであり、日本語の「蝋箋」とは意味が全く違う[35]
  6. ^ もっとも、内田啓一は、後醍醐天皇の仏教公事の全てが聖性・王権強化のためという訳ではなく、吉水神社奉納の両界種字曼荼羅(本作品と同じく文観との合作)については、他の曼荼羅の事例と照らし合わせる限り、純粋に心からの戦死者供養の目的で作ったのではないかとしている[45]
  7. ^ 内田啓一は、同様のことは、醍醐寺だけではなく、大覚寺統(南朝)の名前の由来の地である大覚寺の人事についても同じことが言えるであろう、と主張する[52]。大覚寺の門跡(総長)だった性円法親王が兄の後醍醐の吉野行きに従うと、尊氏はすぐさま寛尊法親王を送り込んで大覚寺の新たな門跡とした[52]。これも「尊氏は後醍醐を敵視して反旗を翻した」というような旧説的見解に従うと、尊氏が後醍醐の勢力基盤を取り押さえるための行動と考えてしまいがちである[52]。しかし、実は密教での付法関係を見ると寛尊は性円の弟子であり、その後継になることに不自然な点はない[52]。尊氏が行ったこの人事では、南朝と北朝のどちらが勝利しても、後醍醐の弟である性円の法流が生き残るという、後醍醐に配慮した構図とも解釈は可能なのである[52]。実際、文化12年(1815年)の文書ではあるが、「大覚寺安井両門跡由緒書」(『大覚寺文書』上巻所収)では尊氏による人事について「武家のはからい」という表現がなされている[52]。また、東寺長者の人事についても三宝院・醍醐寺の例と同じと考えられるとする[53]

出典

  1. ^ a b c d e f g 京都・醍醐寺―真言密教の宇宙― 2018, p. 260.
  2. ^ a b 宸翰:天皇の書 2012, ごあいさつ.
  3. ^ 小松 2006, p. 8.
  4. ^ 後醍醐天皇宸翰御置文〈/元弘三年八月廿四日〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ 四天王寺縁起〈根本本/後醍醐天皇宸翰本〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  6. ^ a b 角井博「宸翰様」『改訂新版世界大百科事典』平凡社、2007年。 
  7. ^ a b 小松茂美「書:書道流派の発生」『日本大百科全書』小学館、1994年。 
  8. ^ 宸翰:天皇の書 2012, p. 53.
  9. ^ 宸翰:天皇の書 2012, pp. 53, 89, 105.
  10. ^ 宸翰:天皇の書 2012, p. 89.
  11. ^ a b c 財津永次「書:日本」『改訂新版世界大百科事典』平凡社、2007年。 
  12. ^ 小松 2006, pp. 20–21.
  13. ^ 内田 2006, pp. 323–351.
  14. ^ a b 内田 2006, pp. 314–317.
  15. ^ a b c 内田 2010, pp. 196–197.
  16. ^ a b c d e f 湯山 2001, p. 87.
  17. ^ a b c d e f 内田 2006, pp. 242–243.
  18. ^ 内田 2006, pp. 83–84.
  19. ^ 内田 2006, pp. 242–245.
  20. ^ a b 内田 2010, pp. 198–199.
  21. ^ 内田 2010, p. 201.
  22. ^ a b 『官報』第513号・文部省告示第86号”. 2020年3月2日閲覧。
  23. ^ a b 『官報』第7502号・文化財保護委員会告示第2号”. 2020年3月2日閲覧。
  24. ^ a b c d 宸翰:天皇の書 2012, pp. 265–266.
  25. ^ a b c d e 内田 2014, p. 38.
  26. ^ 内田 2010, p. 119.
  27. ^ 内田 2006, pp. 149–150.
  28. ^ 内田 2006, p. 148.
  29. ^ 内田 2010, p. 197.
  30. ^ 内田 2014, p. 41.
  31. ^ a b 内田 2014, pp. 36–40.
  32. ^ 湯山 2001, p. 88.
  33. ^ 日本国宝全集43 1930, p. 26.
  34. ^ a b c d e 内田 2006, pp. 243–244.
  35. ^ a b 小島 2018, p. 24.
  36. ^ 小南一郎「竜:中国」『改訂新版世界大百科事典』平凡社、2007年。 
  37. ^ 内田 2006, p. 131.
  38. ^ 内田 2006, p. 220.
  39. ^ a b 内田 2006, p. 22.
  40. ^ a b c d 小島 2018, pp. 15–16.
  41. ^ a b 小島 2018, p. 13.
  42. ^ a b c 小島 2018, p. 15.
  43. ^ a b 小島 2018, p. 16.
  44. ^ a b c d e f 内田 2010, pp. 199–201.
  45. ^ 内田 2014, pp. 41–45.
  46. ^ a b 内田 2010, pp. 223–225.
  47. ^ a b c d e f g h 内田 2010, pp. 201–204.
  48. ^ a b 大塚 2016, pp. 234–236.
  49. ^ a b c d 内田 2006, pp. 241–245.
  50. ^ a b c d 内田 2006, pp. 205.
  51. ^ a b 内田 2010, pp. 194–196.
  52. ^ a b c d e f 内田 2010, pp. 177–179.
  53. ^ 内田 2006, p. 206.


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