後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)
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脚注
参考文献
- 内田啓一『文観房弘真と美術』法藏館、2006年。ISBN 978-4831876393。
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- 湯山賢一 著「後醍醐天皇宸筆天長印信」、西川新次; 山根有三 編『醍醐寺大観』 3巻、岩波書店、2001年、解説部87–88頁。ISBN 978-4000089180。
関連文献
- 帝国学士院 編「宸筆空海天長印信」『宸翰英華』 1巻、紀元二千六百年奉祝会、1944年、298–300頁。doi:10.11501/2586902。NDLJP:2586902 。
- 永村, 真「醍醐寺所蔵『祖師印信』」『醍醐寺文化財研究所研究紀要』第14巻、醍醐寺文化財研究所、1994年、140–153頁。
注釈
- ^ 京博本では「或坐哉立」[24]とあるが、字形や意味から「或坐或立」に訂正した。
- ^ 内田啓一によるカナ転写:「オン・バザラ・ソキシマ・マカサトバ・ウン・ウン」[25]。「オーン、金剛微細(諸説あるが仏法の智慧を讃えた語)の摩訶薩(「偉大なる衆生」、菩薩の異称)よ、フーン、フーン」。
- ^ 内田啓一によるカナ転写:「アクビラウンケン・ウン・キリク・アク」[25]。「地・水・火・風・空、フーン、フリーヒ、アハ」。
- ^ 「虚空に等しき者」(『大毘盧遮那成仏神変加持経』)。
- ^ なお、中国語の「蝋箋紙」とは、文字通り、蝋引きで艶を出した紙のことであり、日本語の「蝋箋」とは意味が全く違う[35]。
- ^ もっとも、内田啓一は、後醍醐天皇の仏教公事の全てが聖性・王権強化のためという訳ではなく、吉水神社奉納の両界種字曼荼羅(本作品と同じく文観との合作)については、他の曼荼羅の事例と照らし合わせる限り、純粋に心からの戦死者供養の目的で作ったのではないかとしている[45]。
- ^ 内田啓一は、同様のことは、醍醐寺だけではなく、大覚寺統(南朝)の名前の由来の地である大覚寺の人事についても同じことが言えるであろう、と主張する[52]。大覚寺の門跡(総長)だった性円法親王が兄の後醍醐の吉野行きに従うと、尊氏はすぐさま寛尊法親王を送り込んで大覚寺の新たな門跡とした[52]。これも「尊氏は後醍醐を敵視して反旗を翻した」というような旧説的見解に従うと、尊氏が後醍醐の勢力基盤を取り押さえるための行動と考えてしまいがちである[52]。しかし、実は密教での付法関係を見ると寛尊は性円の弟子であり、その後継になることに不自然な点はない[52]。尊氏が行ったこの人事では、南朝と北朝のどちらが勝利しても、後醍醐の弟である性円の法流が生き残るという、後醍醐に配慮した構図とも解釈は可能なのである[52]。実際、文化12年(1815年)の文書ではあるが、「大覚寺安井両門跡由緒書」(『大覚寺文書』上巻所収)では尊氏による人事について「武家のはからい」という表現がなされている[52]。また、東寺長者の人事についても三宝院・醍醐寺の例と同じと考えられるとする[53]。
出典
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