広島城 構造

広島城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 07:13 UTC 版)

構造

縄張

正保城絵図『安芸国広島城所絵図』。広島藩に関する絵地図の内、最も信頼性の高い地図[19]
当時を再現した模型。

藩政時代の広島城は、福島正則輪郭式平城として整備したものであり、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の、広さ約90万平方メートルの規模があった[5][62]。広島城を中心とした絵地図では東西南北を基準に整備されている様に書かれているが、上記空中写真および左絵地図の東西南北表記でも分かるとおり実際には約18度時計回り方向に傾いている[63]。その理由について書かれた文献はなく、当時の本川(旧太田川)と京橋川そして城北川(下記島普請参照)に囲まれていた地形的制約から配置が決まったものと推定されている[63]

『広島藩御覚書帖』によるそれぞれの曲輪の規模は以下のとおり[16]および尺貫法単位)。

尺貫法 メートル法換算
本丸 東西95間×南北120間 173m×218m
二の丸 東西43間×南北25間 78m×45m
三の丸 東面250間 , 西面270間 , 南面285間 455m , 491m , 518m
外郭
(大手)
東面8町30間 , 西面12町
南面6町 , 北面6町30間
927m , 1309m
655m , 709m

二の丸は「馬出」と呼ばれる曲輪で、広島城の特徴の一つである。毛利氏による築城当初は存在せず後の改修により造られたもので、1598年(慶長3年)から1600年(慶長5年)の間に造られたと考えられている[62]。外堀は、南端が今の相生通り[64]、北端はほぼ城北通り、東端が白島通りの1本西側の道路の更に内側の敷地にあたり、北側の一部が白島通りに一致し、本川を西側の外堀と位置づけていた[65][66]。また正則は、ここより西の大名(主に周防長門へ転封した毛利氏)からの攻撃を想定し、特に西側を増強している[62]。それは本川沿いの櫓数や西側の馬出で窺い知る事ができる。更に本川を挟んだ西側には城の防衛目的(安芸門徒に対して)で町割りに本願寺広島別院などの寺を集中させ寺町を作っている[67]

八丁堀西交差点にある「広島城八丁堀外濠跡」石碑

広島市には城が由来の地名が残っている。「八丁堀[† 8]」「薬研堀」などの地名は堀があった名残である。八丁堀の「京口門」バス停留所は、城から東方向(京都)へ向かう門があった場所にある[64]本通りは毛利氏による城下町整備の際にできた通りである[68]大手町通り北端、現在の紙屋町西交差点あたりに大手門があった。

鬼門にあたる二葉山には藩主の加護により多くの神社仏閣が建てられ、明星院(輝元の生母妙寿院の位牌所)、広島東照宮饒津神社尾長天満宮國前寺(以上浅野氏関連)、などが置かれた[27]。上記の通り地形的制約から縄張が決まったと推定されていることから四神相応は曖昧で、裏鬼門を己斐松山(旭山神社)や厳島厳島神社)など諸説唱えるものがいる。なお天守正面から見て似島の安芸小富士がやや左手に見えていた[63]

島普請

厳島神社大鳥居。それぞれの主柱下に45~60cmの松杭を約100本打ち込まれている[69]
本川橋橋脚。水面下の根固めの石組が毛利氏時代の島普請によるものと言われている。
縮景園。

島普請とは、現在で言う地盤改良と堀の浚渫、築堤工事のことを指す[30][70]

当地は太田川下流域三角州の低地にあり、低湿地帯の砂地上に城を築くために「千本杭」と呼ばれる木杭を砂地盤に打ち込んだ上に基礎を築いた工法[69] が採用されたと伝えられてきた[70]。ただ近年の発掘ではその証拠が見つかっておらず、それ以前の毛利元就時代の弘治元年(1555年)2月には山県就相宛の書状で現在の広島の地に堤が作られていた事から、実際に島普請が行われたかについて否定的な意見を唱えるほうが主流となりつつあるく[70]。ちなみにこの千本杭は厳島神社大鳥居の基礎に用いられている[69]

北側の外堀がその他の外堀と違って蛇行しているのは川をせき止めて整備された[12] ためである。毛利輝元による築城当時その川は「城北川」と呼ばれており、城の北側にあたる現在の白島地区は築城以前は「箱島」と呼ばれる島(中州)であった[71]。毛利氏の次に入城した福島正則は、城北川が洪水で氾濫した場合、城下に深刻な被害を与えると判断し、治水対策も含めて川を外堀として再整備し、東側は完全にせき止め西側は堀の取水口として樋門を設けた[71]、とされている[12]。ちなみに福島氏の次の広島藩主である浅野長晟は入城翌年となる元和6年(1620年)、城北川東側のせき止めた地点つまり旧城北川と京橋川の合流点付近に 「縮景園」を造園している[72]

浅野氏が支配した250年間で洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている[29][30][73]。その対策として、河川の堤防を高くしたり、川水の流れを抑制する石垣の設置、水害防御目的で植林したり、川の浚渫を行っている[74]。その中でも特異な政策として、当時中国山地でたたら製鉄が盛んであったが、堀が埋まるのを防ぐためとして寛永5年(1628年)のお触れで、太田川流域での鉄穴流しが一切禁止となった。また寛永9年(1632年)には堤防取締令を発布し、堤防に穴を開けたり、石垣の石を抜き取る行為を禁止した[75]

戦前から同地に建っている福屋八丁堀本店本館は、相生通りに面して平行ではなく少しズレた状況で建っている。これは外堀を埋め立てた際に整備された当時の相生通りに対して平行に建てられたためで、戦後に相生通りを整備した際にズレる形となった[36]。つまり福屋本館は広島城の外堀に対して平行に建っていることになる[36]

被爆前。米軍撮影。
被爆後。米軍撮影。
福屋本館。手前が相生通り。
八丁堀周辺。横断する道路が相生通りで、左から2番目の縦断する道路が旧白島通り。旧外堀は南端が相生通りで、東端が旧白島通りの左側の敷地にあたる[66]。ちなみに「八丁堀」の由来となった東の外堀はここである。なお現在の白島通り(八丁堀交差点)はその一本右側の道路で戦前は狭幅員で相生通りで突き当たっており中央通りは存在しなかった。これは上の『安芸国広島城所絵図』でも確認できる。

天守

被爆数年前の広島城大天守。
東小天守の跡(奥の石垣)。手前は初代大天守の礎石を移設したもの。
南小天守の石垣

初代

1592年(文禄元年)4月、文禄の役に参加した常陸佐竹氏家臣の平塚滝俊は、佐竹軍が名護屋城に向かう際に通過した広島にて広島城の天守や石垣を見て「見事なること申すに及ばず候」と書簡に残していることから、天守はこの年以前に建てられたものと考えられている[76][77]。また、聚楽第にも劣らないと述べているが、ただし平塚はつぶさな城内見物や天守内部見学を行ったわけではないので、構築状況などもあくまで外観観察者としての印象である。同時に平塚は石垣と天守について「見事成事」としているが、城下町については「半途」と記している。この文献が2012年に発見されたことで、同時期に文禄の役を指揮するため名護屋城へ向かう途中で立ち寄った豊臣秀吉が、この天守に登って見物したとする記録が追認されたとされる[76][77]。ただし秀吉は「御殿」に入ったことと、内外を見物したことが記録されているだけであり、この「御殿」を天守とするか、いわゆる居住区画としての御殿とするかについては断定できない。

天守の形式は連結式と呼ばれるものの内、特に複連結式と呼称される「五重の大天守から渡櫓で南と東に2つの三重小天守を連結する」構造であった[37][64]。大天守の高さは『広島藩御覚書帖』によると、176(約32.7メートル)あった[16]。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模した[64] ともいわれ、屋根には金箔押の軒瓦鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた[64]。その一方で、内部は天井も張られずに丸太の梁が剥き出しであった。藩政時代において天守はほぼ物置として使われており[10][37]、築城から江戸時代の間この城自体は戦場にはなっておらず[15]戦中は旧陸軍の重要書類が多数積み込まれていた[39] ことから、終始倉庫として利用されていたことになる。

1873年(明治6年)以降、経緯は定かではないが小天守は撤去され、天守群は大天守と付属する一部の渡り櫓が残った。1958年現在の大天守入口前広場が南の小天守と渡櫓の跡にあたり、東の小天守台には基礎が残っている[78]。1931年(昭和6年)、他の現存する建造物とともに国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されていたが、1945年(昭和20年)のアメリカ軍による原子爆弾投下の影響によって倒壊した。倒壊の様子について原子爆弾投下の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風による衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱した、という事が近年の研究で判明[44]、倒壊後はしばらくそのまま放置されていた[56]。建材のその後に関しては定かではないが、生活に困窮した市民が使用したという証言がある[78] ほか、被爆者を救済するため、瀬戸内海の製塩業者に建材と塩を広島市が交換した[79] ともいう。このことは広島原爆戦災誌など市の公式資料には一切記されていない。

2代目(仮設)

1951年(昭和26年)、広島国体開催に合わせて仮設の木造模擬天守が建てられた[15]

天守を博物館として利用し始めたのはこの頃からである[15]。夜はライトアップされ、アトラクションとして天守の周りを「スイッチバック・レールウェイ(木製のジェットコースター)」が設置された[15]。竣工時期は不明である。大型台風のルース台風にも耐えたが[15]、国体終了と共に取り壊された[15]

3代目(現在)

天守 第五層 7.2m 26.6m 39.0m 木造
第四層 5.7m SRC造
第三層 5.0m
第二層 4.9m
第一層 3.8m
天守台 12.4m 石造

現在の大天守は1958年(昭和33年)に「広島復興大博覧会」が開催された際、外観復元された[55]。各階層の高さは右表のとおり(単位はメートル)[27]。工期は5ヶ月[80]。総事業費約3,600万円[33]。施工は藤田組(現フジタ[81]。外観の仕上げは宮大工が務めた[80]。再建するにあたり、以下の方針がとられた[55]

  • 初代天守を忠実に再現する。
  • 最上階で市内を展望できるようにする。
  • 博物館として利用する。

火災対策のため、木造からSRC造に変更している。自重増加のため天守台を補強することになりモルタルグラウトにより栗石を固めた[55]。瓦を復元する際には、堀に沈んだものを探したり、古い広島城のものを新聞紙面上で募集するなどしている[55]

最上階のみを木造での復元としたり、懸魚の形状を古写真に基づくものではなく創建当初のものを想定するなど初代天守の忠実復元を試みていた一方で、窓の意匠について本来、突上窓であるものを、連子窓(格子窓)として復元したり、南廊下の1階・2階に窓を新たに開けるなど、戦災以前の外観とは異なる部分が指摘されている[82][83]

2021年12月10日、広島市は市議会の一般質問で、天守で展示している武具等の資料を三の丸に移す方針を示した[84]。三代目となる天守については耐震性を満たしておらず、耐震改修せずに2025年度後半に閉館し、2026年度に三の丸に資料を展示するための代替施設を開館させる[84]。天守の展示施設閉館後は安全面を考慮して来訪者は天守に入ることができなくなるが、外観は当面維持するとしている[84](後述の木造天守の復元計画がある)。

木造天守の復元計画

広島市の木造復元の計画は1989年(平成元年)にあり、「広島城跡保存管理計画書」と「広島城跡整備基本計画書」の2冊の広島城跡の整備計画の計画書の中で示されていた。当時の復元整備計画では主に二の丸と本丸の第1期と第2期に分けられ、本丸で復元する城郭建造物としては、中御門、裏御門、天守閣・東走櫓・東小天守・南走櫓・南小天守等が挙げられ、特に天守閣・東走櫓・南走櫓(一部)については、文化庁所蔵に戦前の実測図と写真があるため、木造造りの精度の高い城郭建造物の復元が可能であると示され、復元事業の期限は1989年(平成元年)から始まり、主に二の丸の復元整備の第1期が計画から5年以内に行われ、二の丸の復元整備が完了した後から、最終目標として1958年(昭和33年)に鉄骨鉄筋コンクリートで再建された現在の天守閣の耐用年数に達するまでに、第2期として、主に本丸及び城跡外周部の復元整備を実施すると示されていた[85]。第1期の二の丸の復元整備は1989年(平成元年)から1994年(平成6年)に復元が完了して終えたが、それ以後の第2期の復元整備の計画は現在に至るまで進んでおらず、止まったままであった[86]

再建後、60年以上経過している鉄骨鉄筋コンクリート構造の現天守は老朽化による、耐震性の問題があり、耐震診断調査の結果、震度6から7で倒壊する恐れがあるとされていた。その為、耐震対策が課題になっていて、広島市は天守を補強や木造で復元するのかの判断を迫られていた。2020年(令和2年)5月に市は31年前の「広島城跡整備基本計画」で示された方向性のうち取組が十分に行われていない事項(主に第2期の本丸の復元整備など)、優先的に推進すべき事項や詳細に示されていない事項に関する方向性を示すなど、今後の取組の基本的な指針として「広島城基本構想」を策定した。2021年(令和3年)3月16日に松井一実広島市長は市議会予算特別委員会で「木造復元を目指す本格的な調査、検討を進める」などと述べ木造で再建する方針を示した。事業費は86億円と見込んでいる。

本丸御殿

本丸のCG。

藩主が生活し政務を行った本丸御殿は、本丸上段つまり本丸の北大部分を占める場所に位置した[87]。上記の通り、1874年(明治7年)本丸および二の丸での火災により全焼したことから、現存はしていない。跡地には大日本帝国陸軍関連(広島鎮台→第5師団司令部)から広島大本営が建てられたがそれらも被爆により全焼している。

1996年(平成8年)から始まった本丸発掘調査により基礎石などが発見されている[88] が、それらは露出させず埋戻している[87]。絵図が数枚残っていることから、模型資料などで復元されている[87]

余談だが、江戸藩邸の上屋敷の方は当時霞が関にあり、歌川広重名所江戸百景』「春の部 2. 霞がせき」に描かれている[73]

二の丸

左から、表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓。
外郭櫓台跡。

藩政時代における広島城の特徴として、広さ約90万平方メートルの広大な城域を取り囲むように88基の櫓が置かれたことが挙げられる[10][89]。『広島藩御覚書帖』による各曲輪の櫓基数は、本丸23基、二の丸5基、三の丸17基、外郭43基[16]。上記の通り特に西側を増強し、本川(旧太田川)に沿って11基もの櫓が二重に建てられその間を塀で結ばれている[89]

1624年(寛永元年)の地震、1854年(嘉永7年)安政南海地震の際に、櫓が崩れた記録が残っている[31]

明治以降になりこれらは取り壊されたことと、被爆により、江戸時代以前から現存する櫓は存在していない。ほとんどの櫓の位置は現在不明であるが、近年の発掘調査によりいくつか判明している。

史跡外の櫓の遺構として太田川(現、旧太田川)の左岸にある「外郭櫓跡」がある[11]。1979年に広島県教育委員会が発掘調査し、刻印が入った石垣が発見されている[90]

二の丸復元建物

二の丸復元建物として表御門と各櫓がある[91]。この平櫓・多聞櫓・太鼓櫓および表御門は、1989年(平成元年)から行われた改修の際に再建されたものである[92]。施工は砂原組[92]。これらはつながっており、全部の櫓内部を見学できる[93]

三の丸

江戸時代、三の丸には武家屋敷等が存在した[91]。三の丸は広島城跡(史跡)の範囲外にあり噴水広場などが設置されている[91]


  1. ^ 城が置かれた土地は当初は在間庄と呼ばれた[16]
  2. ^ 元就にゆかりがある旭山神社で輝元は見分した[26]
  3. ^ 『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』など毛利氏時代の町割りを書いた絵図が存在するが、これらは江戸時代に書かれたものであるため信頼性が低い。
  4. ^ 一説には毛利輝元時代。
  5. ^ 正室は家康の三女正清院
  6. ^ 当時、比治山女学校は偕行社附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったことから入ることを許可された[41]
  7. ^ 北方向の牛田工兵第5連隊作業場があった[48]
  8. ^ 八丁堀は約8町あった東面外堀にちなむ。
  9. ^ 例えば、広島城内堀の南に位置する広島市中央庭球場は中堀があった場所であり、アジア大会開催前の整備工事の際に大規模な発掘調査が行われたり[97]、紙屋町シャレオは外堀があった場所であることからその建設工事中の合間を縫って夜間に発掘調査が行われた[12]
  10. ^ 所有者の祖先は広島藩士で、藩主である浅野氏から譲り受けたと伝えられていた[109]
  1. ^ a b c 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
  2. ^ a b 学習研究社編『【決定版】図説 国宝の城』学習研究社、2010年、ISBN 978-4-05-605966-3
  3. ^ 中城正尭・福代徹執筆、(財)日本城郭協会監修、学習研究社編『日本100名城 公式ガイドブック』学習研究社、2007年、ISBN 978-4-05-604638-0
  4. ^ 中央公園(史跡広島城二の丸周辺)”. 国土交通省. 2012年4月14日閲覧。
  5. ^ a b c d しろうや!広島城 第3号” (PDF). 公益財団法人広島市文化財団広島城. 2022年4月1日閲覧。
  6. ^ 広島市公園条例 - 広島市
  7. ^ ひろしまフードフェスティバルの開催について - 広島県
  8. ^ 中央公園の今後の活用に係る基本方針(令和2年3月) - 広島市
  9. ^ 岡山城”. 岡山観光コンペティション協会. 2012年4月4日閲覧。
  10. ^ a b c しろうや!広島城 第29号” (PDF). 公益財団法人広島市文化財団広島城. 2022年4月1日閲覧。
  11. ^ a b c しろうや!広島城 No.39 - 広島市
  12. ^ a b c d e f g 広島市歴史科学教育事業団. “広島城外堀跡紙屋町交差点地点” (PDF). ひろしまWEB博物館. 2012年4月15日閲覧。
  13. ^ a b c d e しろうや!広島城 第15号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  14. ^ 玉置和弘. “広島城と鯉城”. 広島城. 2012年4月1日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g h i しろうや!広島城 第9号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  16. ^ a b c d e 広島城跡”. 広島県. 2012年4月28日閲覧。
  17. ^ しろうや!広島城 第49号” (PDF). 広島城公式. 2016年9月25日閲覧。
  18. ^ 広島城の金箔瓦について”. 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  19. ^ a b c d e f g 財団法人広島市文化財団; 株式会社島田組 (2007年6月). “広島城跡国保会舘地点” (PDF). ひろしまWEB博物館. 2012年4月4日閲覧。
  20. ^ 玉置和弘. “広島城の金箔瓦について”. 広島城. 2012年4月1日閲覧。
  21. ^ #原爆戦災誌、p.5。
  22. ^ a b c 築城前の広島”. 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  23. ^ a b c d #原爆戦災誌、p.6。
  24. ^ a b c d e f g h 広島城築城”. 広島城公式. 2012年3月26日閲覧。
  25. ^ a b c 濱口和久 (2012年1月27日). “毛利輝元が威信かけた広島城”. zakzak. 2012年3月28日閲覧。[リンク切れ]
  26. ^ 己斐から宮島、毛利散歩”. 西広島タイムス (1997年1月1日). 2003年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月18日閲覧。
  27. ^ a b c d e f 広島城 パンフレット” (PDF). 広島城公式. 2012年4月4日閲覧。[リンク切れ]
  28. ^ a b c d e f 福島氏の入国と改易”. 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  29. ^ a b c d e 浅野氏の治世”. 広島城公式. 2012年3月26日閲覧。
  30. ^ a b c 太田川の洪水とその克服”. 国交省太田川工事事務所. 2012年3月28日閲覧。
  31. ^ a b 災害の記録と記憶” (PDF). 広島県文書館. 2013年2月21日閲覧。
  32. ^ 徳川林政史研究所所蔵写真資料目録” (PDF). 徳川林政史研究所. 2012年4月3日閲覧。
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 近代の広島城”. 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  34. ^ a b c d e #原爆戦災誌、p.303。
  35. ^ a b c d e f g h #原爆戦災誌、p.7。
  36. ^ a b c しろうや!広島城 第5号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  37. ^ a b c 広島城天守閣・三代の歩み”. 広島市. 2012年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月11日閲覧。
  38. ^ 第二総軍司令部の設置”. 広島平和資料館公式. 2012年4月8日閲覧。
  39. ^ a b c d e #原爆戦災誌、p.305。
  40. ^ a b c d #原爆戦災誌、p.308。
  41. ^ a b 中国軍管区司令部地下壕”. (比治山高校教員によるHP). 2012年4月28日閲覧。
  42. ^ #原爆戦災誌、p.27。
  43. ^ a b c d しろうや!広島城 第2号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  44. ^ a b 広島城天守閣は自壊 原爆爆風説を覆す 学芸員が推定”. 中国新聞 (2010年7月15日). 2012年4月1日閲覧。
  45. ^ #原爆戦災誌、p.304-p.305。
  46. ^ #原爆戦災誌、p.263。
  47. ^ #原爆戦災誌、p.307。
  48. ^ 広がる軍用地”. 広島市平和記念資料館. 2012年8月18日閲覧。
  49. ^ #原爆戦災誌、p.309。
  50. ^ a b #原爆戦災誌、p.313。
  51. ^ a b c d #原爆戦災誌、p.314。
  52. ^ #原爆戦災誌、p.315。
  53. ^ ヒロシマの記録1947 7月”. ヒロシマ平和メディアセンター. 2012年3月31日閲覧。
  54. ^ ヒロシマの記録―甦る「原爆十景」”. 中国新聞 (2007年4月30日). 2007年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月31日閲覧。
  55. ^ a b c d e f しろうや!広島城 第10号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  56. ^ a b 鯉城の痕跡”. 中国新聞 (2011年4月9日). 2013年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月3日閲覧。
  57. ^ しろうや!広島城
  58. ^ 広島復興大博覧会の開催”. 広島平和記念資料館公式. 2012年3月27日閲覧。
  59. ^ a b c d e f しろうや!広島城 第14号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  60. ^ 広島城”. 広島県観光. 2012年3月28日閲覧。
  61. ^ 広島城天守閣 “木造復元”を提案 あり方懇談会「価値さらに高まる」
  62. ^ a b c しろうや!広島城 第19号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  63. ^ a b c 小谷俊哉「広島市都市形成発祥の地における空間構造の変遷に関する研究」(PDF)『土木史研究』第16巻、土木学会、1996年6月、327-334頁、2015年5月5日閲覧 
  64. ^ a b c d e しろうや!広島城 第4号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  65. ^ 玉置和弘. “広島城の痕跡”. 広島城. 2012年4月1日閲覧。
  66. ^ a b しろうや!広島城 第47号” (PDF). 広島城公式. 2016年4月27日閲覧。
  67. ^ 寺町界隈”. 広島市. 2013年2月24日閲覧。
  68. ^ みち紀行”. 中国新聞. 2014年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月3日閲覧。
  69. ^ a b c 大鳥居”. 宮島観光協会. 2012年3月28日閲覧。
  70. ^ a b c 玉置和弘. “広島城に関する基礎データ”. 広島城. 2012年3月28日閲覧。
  71. ^ a b 西田ひかり. “広島城下町の形成と治水事業”. 信州大学. 2016年10月16日閲覧。
  72. ^ 縮景園の歴史”. 縮景園. 2012年5月21日閲覧。
  73. ^ a b しろうや!広島城 第6号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  74. ^ ひろしま市民と市政 四季号2017春” (PDF). 広島市. 2018年12月11日閲覧。
  75. ^ 山﨑一郎 (2009年). “基調講演 中国山地でのたたら製鉄” (PDF). 太田川アクティブアーチ. 2018年12月11日閲覧。
  76. ^ a b 広島城天守閣、完成年判明”. 中国新聞 (2012年8月27日). 2012年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月27日閲覧。
  77. ^ a b しろうや!広島城 第32号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  78. ^ a b しろうや!広島城 第8号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  79. ^ 玉置和弘. “コラム4 原爆で広島城天守閣は焼けなかった”. 広島城. 2012年4月6日閲覧。
  80. ^ a b 復興の風 1958年 広島城 天守閣再生 活気を呼ぶ”. 中国新聞 (2012年7月23日). 2015年10月6日閲覧。
  81. ^ フジタのある街> 広島城”. フジタ. 2012年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月3日閲覧。
  82. ^ 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』学習研究社 2007年
  83. ^ 歴史群像編集部編『【決定版】図説 厳選日本名城探訪ガイド』学習研究社 2009年
  84. ^ a b c d 広島城天守閣、25年度閉館 耐震不安、三の丸に代替展示施設 中国新聞、2021年12月11日閲覧。
  85. ^ 広島城天守閣耐震対策について - 広島市
  86. ^ 【公式】広島城天守閣の木造復元を実現する会
  87. ^ a b c 玉置和弘. “本丸上部部分”. 広島城. 2013年2月23日閲覧。
  88. ^ 広島市歴史科学教育事業団. “史跡 広島城跡本丸”. ひろしまWEB博物館. 2013年2月23日閲覧。
  89. ^ a b しろうや!広島城 第24号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  90. ^ 広島県教育委員会『広島城外郭櫓跡発掘調査概報』、1980年
  91. ^ a b c d e f g 広島城の現状と課題等”. 広島市. 2023年4月23日閲覧。
  92. ^ a b 工事経歴(文化財関係)”. 砂原組. 2005年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月6日閲覧。
  93. ^ 広島城太鼓櫓の見学について”. 広島市公式. 2012年4月6日閲覧。
  94. ^ a b c しろうや!広島城 第7号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  95. ^ a b c d しろうや!広島城 第16号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  96. ^ しろうや!広島城 第26号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
  97. ^ 広島城遺跡中堀跡”. 広島市未来都市創造財団. 2012年4月10日閲覧。
  98. ^ 堀川浄化事業”. 国土交通省太田川工事事務所. 2012年4月10日閲覧。
  99. ^ a b c d e f g h i j k 広島城の金箔鯱瓦出土 ほぼ完全形、全国初”. 中国新聞 (2009年3月5日). 2009年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月1日閲覧。
  100. ^ a b c 広島城跡から金の鯱瓦がほぼ完全形で発見 全国で初めて”. 朝日新聞 (2009年11月30日). 2012年4月1日閲覧。[リンク切れ]
  101. ^ a b c 佐藤大規 (2009年12月25日). “広島城出土の金箔鯱瓦についての考察” (PDF). 広島大学総合博物館研究報告. 2012年4月4日閲覧。
  102. ^ 鯱形金箔瓦、広島で製造か”. 中国新聞 (2009年11月29日). 2012年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月5日閲覧。
  103. ^ 秀吉ゆかり?金箔瓦が出土 朝鮮出兵の後方拠点か”. 共同通信 (2009年6月23日). 2014年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月4日閲覧。
  104. ^ クロガネモチ(広島城跡)”. NHK広島放送局. 2012年3月28日閲覧。
  105. ^ ユーカリ・マルバヤナギ(広島城二の丸跡)”. NHK広島放送局. 2012年3月28日閲覧。
  106. ^ a b 玉置和弘. “学問所土蔵跡”. 広島城. 2012年4月23日閲覧。
  107. ^ 沿革”. 修道中学校・修道高等学校. 2016年10月16日閲覧。
  108. ^ a b c 広島城から移築?土蔵復元へ”. 中国新聞 (2010年9月18日). 2010年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月5日閲覧。
  109. ^ 同窓会報修道No.73” (PDF). 修道中学校・修道高等学校. 2012年5月18日閲覧。
  110. ^ a b 江戸後期の土蔵、近く解体へ”. 中国新聞 (2010年4月3日). 2014年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月5日閲覧。
  111. ^ 修道学問所(仮称)移築・復元事業に係る募金について”. 修道中学校・修道高等学校 (2011年12月16日). 2013年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月5日閲覧。
  112. ^ 修道中学校・高等学校に設置の旧重谷家土蔵が広島市指定重要文化財に指定されました | 2019年お知らせ一覧”. 学校法人 修道学園サイト. 2023年7月13日閲覧。
  113. ^ a b 広島城三の丸にぎわい施設や多目的広場、広島市がPark-PFIで整備”. 日経BP (2022年12月18日). 2023年4月23日閲覧。
  114. ^ 中央バレーボール場の閉鎖について”. 公益財団法人広島市スポーツ協会. 2023年4月23日閲覧。
  115. ^ 観光バス駐車場、広島城の堀沿いに完成 広島市中央バレーボール場跡地、従来の三の丸から移転【変わる街】”. 中国新聞 (2023年4月22日). 2023年4月23日閲覧。
  116. ^ しろうや!広島城 第12号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「広島城」の関連用語

広島城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



広島城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの広島城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS