岡部長職 岡部長職の概要

岡部長職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 07:12 UTC 版)

岡部 長職
おかべ ながもと
肖像写真
生年月日 1855年1月4日
嘉永7/安政元年11月16日
出生地 江戸
没年月日 (1925-12-27) 1925年12月27日(70歳没)
出身校 慶應義塾
(現在の慶應義塾大学
所属政党 研究会
称号 子爵
正二位
勲一等旭日大綬章

第15代 司法大臣
内閣 第2次桂内閣
在任期間 1908年7月14日 - 1911年8月30日

第15代 東京府知事
内閣 第2次松方内閣
在任期間 1897年10月12日 - 1898年7月16日

選挙区 子爵議員
在任期間 1890年7月10日 - 1916年4月11日
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岡部長職
岡部長職肖像(泉光寺所蔵)
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 嘉永7/安政元年11月16日1855年1月4日
死没 大正14年(1925年12月27日
改名 弥次郎(幼名)、長職
墓所 青山霊園岸和田市泉光寺
官位 正二位
主君 明治天皇大正天皇
和泉岸和田藩
氏族 岡部氏
父母 父:岡部長発、母:鳥居忠挙の娘
養父:岡部長寛
兄弟 長職、武子
青山幸哉の娘・錫子
前田斉泰の娘・坻子
清子、鍾子、長景、長剛、村山長挙、栄子、豊子、盈子、小林長世、長量、久子、長建、長伸、長章
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略歴

嘉永7/安政元年11月(1855年1月)、岸和田藩11代藩主岡部長発の長男として、江戸藩邸にて生まれる。母は鳥居忠挙の娘。幼名は弥次郎。長発は長職が生まれた翌年2月に早世し、家督は伯父の長寛(筑前守)が継いだ。長職は長寛の養嗣子となり、成長後に家督を譲られることとなった。

旧暦・明治元年12月(1869年2月)、長職は伯父の隠居に伴い家督を継いだ(従五位下、美濃守)。明治2年6月(1869年7月)、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行なったが、明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県で免官となり、太政官の命により東京へ移住した。

1874年(明治7年)、慶應義塾に入塾、福澤諭吉が「行状宜敷人物」と評して1875年(明治8年)11月、渡米させる。1878年(明治11年)、リバイバリストドワイト・ライマン・ムーディーの説教を聞いて回心し、キリスト教信仰を持つことになる(日本組合基督教会新島襄沢山保羅への手紙で故郷・岸和田での伝道を依頼、1885年に岸和田教会が誕生[1])。1879年(明治12年)よりイェール大学シェフィールド科学学校 Sheffield Scientific School で学んだが中退。1882年(明治15年)9月には渡英し、ケンブリッジ大学で学び、ヨーロッパ各国を歴訪した。1883年(明治16年)10月の帰国後は、三好退蔵の自宅での聖書研究会に参加していたが、近くの霊南坂教会(現・日本基督教団霊南坂教会)に合流して教会員となった。

1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵[2]1886年(明治19年)3月に公使館参事官に任じられ、翌月には外務省条約改正掛を兼務。翌年12月に在英国公使館勤務を命じられ(翌月赴任)、臨時代理公使を務めた。1889年(明治22年)12月に外務次官に任じられ、1890年(明治23年)2月に帰国。同年7月10日には貴族院議員(子爵議員)にも選出された[3]青木周蔵外相の下、条約改正に尽力したが、1891年(明治24年)6月、前月の大津事件の責任をとる形で、特命全権公使に転任した(94年6月迄)。

1897年(明治30年)10月、高等官一等に叙せられ、東京府知事に任じられる(翌年7月迄)。この頃には貴族院会派・研究会の幹事長を務めるなど、貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣司法大臣(11年8月迄)に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に努めた。1916年(大正5年)4月8日には枢密顧問官に任じられ[4]、同月11日、貴族院議員を辞職した[5]

その他、鉄道会議議員(1894年)、鉄道国有調査会副会長(1899年)、南満洲鉄道株式会社設立委員(1906年)、臨時仮名遣調査委員会委員(1908年)、法律取調委員会会長(1908年)、学習院評議会会員(1916年)、宗秩寮審議官(1924年)、東京保善商業学校校長等の要職を歴任。晩年は一木喜徳郎と共に大正天皇の側近として宮内省にあった。

1925年(大正14年)12月27日、かねてより患っていた脳梗塞が再発し、72歳で死去。天皇・皇后より祭資が下賜された。墓所は東京都港区青山墓地

身の丈180cmを超えるという、いわゆる「六尺豊かな大男」であり当時としてはもちろん、現代日本人男子と比較しても大柄な人物であった。

栄典

位階
勲章等

  1. ^ 『沢山保羅』1977年、127頁
  2. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』
  4. ^ 『官報』第1104号、大正5年4月10日。
  5. ^ 『官報』第1107号、大正5年4月13日。
  6. ^ 『官報』第1966号「叙任及辞令」1890年1月21日。
  7. ^ a b 『官報』第4005号「叙任及辞令」1925年12月29日。
  8. ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
  9. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  10. ^ 『官報』第7954号「叙任及辞令」1909年12月27日。
  11. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  12. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  13. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  14. ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
  15. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  16. ^ 岡部長景『華族家庭録. 昭和11年12月調』
  17. ^ 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)


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