唐招提寺 伽藍

唐招提寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 17:31 UTC 版)

伽藍

金堂(南東より望む)
金堂 正面吹き放し部
金堂平面図
講堂
講堂平面図
宝蔵・経蔵

南大門を入ると正面に金堂(国宝)、その背後に講堂(国宝)がある。かつては南大門と金堂の間に中門があり、中門左右から回廊が出て金堂左右に達していた。金堂・講堂間の東西にはそれぞれ鼓楼(国宝)と鐘楼がある。講堂の東方には南北に長い東室(ひがしむろ、重要文化財)があるが、この建物の南側は礼堂(らいどう、重要文化財)と呼ばれている。講堂の西にあった西室、北にあった食堂(じきどう)は今は失われている。この他、境内西側には戒壇、北側には鑑真廟、御影堂、地蔵堂、中興堂、本坊、開山堂、東側には宝蔵(国宝)、経蔵(国宝)、新宝蔵、東塔跡などがある。

  • 金堂(国宝) - 奈良時代の建立。解説は既述。
  • 鐘楼 - 梵鐘(重要文化財)は平安時代に造られたもの。
  • 鼓楼(国宝) - 舎利殿。鎌倉時代仁治元年(1240年)建立。金堂・講堂の東側に建つ小規模な楼造(2階建)の建物。入母屋造、本瓦葺き。頭貫は端部を大仏様(だいぶつよう)の木鼻とする。西側の対称的位置に建つ鐘楼に対し「鼓楼」と称するが、この建物には太鼓ではなく、鑑真から請来した仏舎利を安置しており、そのため舎利殿とも称する。毎年、5月19日に行われる梵網会(ぼんもうえ、通称「うちわまき」)の際は、この建物の楼上から縁起物のうちわが撒かれる。
  • 講堂(国宝) - もともとは平城宮の東朝集殿で、天平宝字4年(760年)頃、現在地に移築・改築。解説は既述。
  • 訶梨帝母
  • 開山堂 - もともとは元禄年間(1688年 - 1704年)に徳川将軍家歴代の位牌を祀る御霊殿として建立されたものだが、1881年明治14年)に現在地に移築されると、国宝の鑑真和上坐像を安置する開山堂とされた。その後、鑑真和上坐像が御影堂に移されると、覚盛上人、聖武天皇徳川家康を祀って「本願殿」と改称されるが、2013年平成25年)に再び開山堂に戻された。現在は鑑真和上坐像の「御身代わり像」が祀られている。
  • 礼堂(重要文化財) - もとの僧房弘安6年(1283年)に改築したもの。鼓楼の東にある南北に細長い建物。桁行19間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺き。中央やや南寄りに馬道(めどう、土間の通路)があり、それより北の10間分が東室、南の8間は仏堂となり、隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂として礼堂(らいどう)と呼ばれる。礼堂内には清凉寺釈迦如来立像(重要文化財)と日供舎利塔(重要文化財)を安置する。
    • 木造釈迦如来立像 - 像高166.7センチメートル。京都嵯峨清凉寺にある、三国伝来の霊像として信仰を集める釈迦像の様式を模した「清凉寺式」と呼ばれる形式の釈迦像である。中興の祖の覚盛が始めた釈迦念仏会(ねんぶつえ)という行事の本尊として造立されたものであり、像内納入文書により正嘉2年(1258年)の造立と判明する。釈迦念仏会に合わせ、10月21日 - 23日のみ公開される。
  • 東室(重要文化財)
  • 宝蔵(国宝) - 礼堂の東側に並んで建っている校倉造倉庫(北が宝蔵、南が経蔵)。奈良時代の建立。寄棟造。宝蔵と経蔵の外観は似ているが、規模は経蔵の方がやや小さい。軒を支える構造には両者で違いがある。経蔵では最上段の校木の上に桁(けた)という方形断面の水平材を入れて軒を支えているのに対し、宝蔵では上から1段目と2段目の校木を他より長く造り(持ち送り)、これが直接軒を支えている。宝蔵は当地が寺になってからの建物であると推定されている[注釈 2][34]
  • 七重石塔
  • 五重石塔
  • 経蔵(国宝) - 奈良時代の建立。経蔵は唐招提寺創建以前、当地が新田部親王邸であった時代からの建物で、米倉を改造したものといわれる。現在[いつ?]は寄棟造になっているが、もともとは切妻造であった。唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉造の建物である。
  • 滄海 - 池。
  • 新宝蔵 - 1970年昭和45年)築。解説は既述。
  • 戒壇 - 境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元年(1848年)に放火により焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。1978年(昭和53年)にインド・サンチー式の古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。唐招提寺の戒壇は創建時建立説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)初建立説とがある。
  • 蓮池
  • 應量坊 - 塔頭。
  • 醍醐井戸 - 井戸の近くには東塔の礎石だとされている石が4つ置かれている。
  • 本坊蔵松院
    • 庫裏
    • 客殿
    • 表門
  • 牟尼蔵院
  • 中興堂 - 1999年平成11年)建立。重要文化財の木造大悲菩薩坐像(中興の祖・覚盛の肖像)を祀る。通常は非公開。
  • 地蔵堂 - 重要文化財の木造地蔵菩薩立像を安置する。地蔵盆(8月23・24日)の期間のみ公開。
  • 御影堂(重要文化財) - もともとは興福寺一乗院の宸殿。1964年(昭和39年)に現在地に移築された。解説は既述。
  • 旧・一乗院僧正門(奈良県指定有形文化財)
  • 茶室「三暁庵」
  • 鑑真和上御廟 - 開山御廟とも呼ばれる。
  • 趙紫陽手植えの科瓊花(けいか) - 1982年(昭和57年)6月に来日した中華人民共和国首相(当時)の趙紫陽が植えたもの。瓊花は鑑真和上の故郷である現・中国の江蘇省揚州市の名花である。
  • 戒学院
  • 東門
  • 水鏡天神社 - 祭神:菅原道真気比大神天照天神春日大神。かつての鎮守社。明治時代の神仏分離で唐招提寺から独立したが、現在[いつ?]管理は唐招提寺が行っている。
  • 東塔跡 - 五重塔の跡。基壇が残る。『日本紀略』によれば、弘仁元(810年)の創建。享和2年(1802年)落雷で焼失した。水鏡天神社の境内地にある。
  • 弁天
  • 弁天池
  • 寺務所
  • 南大門 - 天平様式を模して1960年(昭和35年)に再建された。柱五間の中央を三扉とする切妻造の門。複製ではあるが掛けられている勅額「唐招提寺」は孝謙天皇の宸筆である。
  • 西塔跡 - 唐招提寺戒壇院近くの寺域外の私有地に、西塔が存在したという伝承地がある。ただ、存在を伝える史料もあるが、跡地は発掘等もされておらず定かではない。
  • 西方院 - 境外塔頭。唐招提寺奥の院。少し西にある。

  1. ^ 盧舎那仏像の光背の化仏の員数については資料によって「862躯」または「864躯」とある。『月刊文化財』554号 特集「唐招提寺金堂平成の大修理」(第一法規、2009年(平成21年))2ページの解説(奥健夫執筆)には「862躯」とあるが、同じ特集の50ページ(神田雅章執筆)には「864躯」とあり、いずれが正確であるかは不明である。
  2. ^ 経蔵と宝蔵では、正面扉の錠の数が異なる(経蔵は2箇、宝蔵は1箇)。
  3. ^ 旧鴟尾2箇は2012年追加指定[35]
  4. ^ 唐招提寺の塔頭・法花院(法華院)は1934年(昭和9年)まで唐招提寺境内にあり、その後奈良県曽爾村今井に移転したが、太平洋戦争後に廃寺となった[39]






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