五月みどり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/25 16:26 UTC 版)
さつき みどり 五月 みどり | |
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1963年 | |
本名 | 面高フサ子 |
生年月日 | 1939年10月21日(84歳) |
出生地 | 東京都江戸川区 |
職業 | 歌手、タレント、女優 |
配偶者 |
西川幸男(1965年 - 1971年) 面高昌義(1976年 - 1984年) 立花淳一(1985年 - 1987年) |
著名な家族 |
小松みどり(妹) 西城正明(弟) 西川哲(息子) |
主な作品 | |
レコード 『おひまなら来てね』 映画 『五月みどりのかまきり夫人の告白』 バラエティー番組など 『金曜10時!うわさのチャンネル!!』 『クイズダービー』 『伊東家の食卓』 |
プロフィール | |
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生年月日 | 1939年10月21日 |
現年齢 | 84歳 |
出身地 | 日本・東京都江戸川区 |
血液型 | A型 |
公称サイズ(時期不明) | |
身長 / 体重 | 156 cm / ― kg |
スリーサイズ | 88 - 63 - 90 cm |
活動 | |
デビュー | 1958年 |
ジャンル | 女優、歌手、画家 |
モデル内容 | 一般、ヌード |
モデル: テンプレート - カテゴリ |
最初の夫との間に1男1女があり、プロゴルファーの西川哲は長男。元歌手の水沢絵里(みずさわ えり、本名:丸山 千恵(まるやま ちえ)、1967年2月28日 - )は長女。元プロボウラーの西城正明は実弟。女優の小松みどりは実妹。孫が4人いる。母方のはとこの娘にタレントの山本理恵(やまもと りえ、1985年1月31日 - )がいる。
略歴
父の大野房次郎は鹿児島県出身で、江戸川区平井で大野屋精肉店を経営[3]。母は山形県舟形町出身[3]。父は終戦時に仲間と近所に芝居小屋を建て、昼は肉屋、夜は役者という生活をしていた[2]。8人兄弟の長女(弟4人、妹3人)、「江戸川区の大野精肉店の長女として生まれました。その後12年の間に姉弟は8人になり、母は大変だったでしょうね。」と述べている[2]。
6歳から日本舞踊を初め、8歳で舞台に立つ。父は芝居に厳しくセリフを覚えられないと学校に行かせてもらえなかった[2]。歌が好きでラジオの「のど自慢大会」などに出たが成績は振るわず、しかし1956年(昭和31年)、ニッポン放送『ものまねのどじまん』で優勝。審査員だった作曲家の宮城秀雄から「歌手を目指さないか」と言われ、宮城の下で修行することになる。同年5月、16歳でキャバレーでの初舞台を踏んだ時「天才少女現る」と話題になり、その際本名(大野フサ子)が地味であると、宮城が「五月みどり」という名前を考えた。由来は5月だったので緑の芽がすくすく伸びるようにと、五月自身も明るく華やかな名前で気に入っている[2]。
1958年(昭和33年)11月、「お座敷ロック」でレコードデビュー。3年間売れず、4年目のある日レコード会社の廊下で作曲家の遠藤実から「君に合いそうな曲ができた」、「おひまなら来てよネ~」と遠藤がその場で歌い、その時ビビッと来て「私に歌わせてください」とお願いし[2]、1961年(昭和36年)5月、「おひまなら来てね」発売。それまでの歌手にはなかった愛らしくチャーミングな美貌とともに、奇麗な「ちりめんビブラート」を生かしたこの歌は大ヒットとなる。1962年(昭和37年)には『NHK紅白歌合戦』(第13回)に初出場。
その後も1963年(昭和38年・第14回)、1964年(昭和39年・第15回)と通算3回連続で紅白出場した。ビデオリサーチ社発足以後のテレビ番組としては史上最高の視聴率81.4%(ビデオリサーチ社調べ、関東地区。以下同じ)を記録した第14回では自身の「一週間に十日来い」歌唱時に瞬間最高視聴率85.3%を出した[2]。ほかに「忙しくても来てね」「明日も来てね」(「来てね」シリーズ)、「温泉芸者」「熱海で逢ってね」(「芸者」シリーズ)などのヒット曲がある。
1965年(昭和40年)に結婚し芸能界を引退したものの、のちに離婚し芸能界へ復帰。1970年代以降はタレント、女優としての活動に重心を移す。1975年(昭和50年)には主演ポルノ映画『五月みどりのかまきり夫人の告白』(東映)が話題になった。その後、40歳を過ぎても日活ロマンポルノ作品に主演し、若々しい肉体と大胆な演技で世に衝撃を与えた。熟女ヌードのさきがけとも言える。五月は「ロマンポルノのお話をいただき「面白そう」とお受けしました。周囲からは紅白に出た歌手なのにと色眼鏡で見られたこともあります。昔から、面白そうと思ったことはすぐやってみたくなるの。それに過去よりも現在の自分を見てもらいたかった。父は反対すると思いきや、私のヌードポスターを自宅に貼っていました。当時、脱ぐの若い人ばっかりだったので、自分で言うのはなんですが、熟女ブームの先駆けとなったかもしれないと思います。」と述べている[2]。
1976年(昭和51年)に番組がスタートした『クイズダービー』(TBS) の初代2枠レギュラーとして出演。勝率は4割6分8厘(平均4勝6敗 - 5勝5敗ペース)だった。レギュラー降板後も度々5枠のゲスト解答者として出演したが、出題が五月のレギュラー時より難しくなったこともあり、勝率は2割台に下がっている。同番組最終回には、出場者(ギャンブラー席)として、初代3枠レギュラーの黒鉄ヒロシ、初代5枠レギュラーのガッツ石松とともにトリオを組んで登場した。しかし、賭け方が下手だったこともあり[注 1]、賞金獲得額は0円となっている。
1984年にテレビドラマ『昨日、悲別で』(日本テレビ)に主人公の母親役で出演、これは五月が徹子の部屋で最初の離婚による二人の子供とのつらい別れの話をする機会があり、それを自宅見ていて倉本聰が執筆中のドラマの主人公の母親役は「この人しかいない」と思って、直接オファーをもらい、涙を浮かべながら微笑んで、淡々とつらい体験を語る姿が印象的だったという[2]。
1989年(平成元年)には二科展入選。個展を開催したこともある。
ミツカン「追いがつおつゆ」のCMで、当時長男の妻菊池桃子(2012年離婚)との共演も行った。現在は着物のデザインやティッシュボックスの製作などでも活躍している。1997年10月 - 2007年3月に日本テレビで放送された『伊東家の食卓』の母親役でもお馴染みであった。2007年1月には、大相撲の初場所14日目に溜席で観戦しているのがテレビカメラに大きく映っていたのにもかかわらず、中継では一切触れられなかった。
世間が新型コロナ禍に見舞われた2020年以降、年齢的な面からも芸能活動とは距離を置いている状態が続いている。芸能活動の傍らで経営していた雑貨店の関係者は週刊誌の取材に対し、五月自身はいたって健康で、元気に過ごしている旨を回答している[4][5]。
結婚歴
これまで3度結婚したが、いずれも離婚。
最初の相手は、新栄プロダクション社長(現・会長)の西川幸男。一男一女(一男はプロゴルファーの西川哲)を儲ける。しかし、西川の前妻との子の西川賢(歌手名:山田太郎)の存在や、価値観の違いや社長夫人という立場に耐え切れず、1971年(昭和46年)に離婚。「年の離れた夫は厳しい人でDVなどに発展し約6年で離婚に、その条件が「子供をおいていくこと」だったのでつらかった。子供に会いたくても夜も眠れず、家の近くに何度も行っては泣いて、でも徐々にたとえ会えなくても子供が生きていてくれることが幸せだと思うようになりました」と述べている[2]。
2番目の相手は、日本テレビディレクターであった面高昌義。面高が、五月がレギュラー出演していた『金曜10時!うわさのチャンネル!!』のディレクターであったことから恋愛に発展し、1976年(昭和51年)に結婚(2度目)。結婚式での馬車に乗っているシーンは、今でも面高の顔にモザイクがかかった状態でよくテレビで放送される。奇妙な夫婦として有名で、互いに浮気告白をワイドショーや雑誌で幾度か行っている。1984年(昭和59年)に離婚。離婚会見に揃って出席し、会見中5度もキスしたシーンも、今でも時折テレビで流れる。離婚の原因は面高の金銭トラブルによるもので、このために無断で五月の財産を遣い込み、アメリカにあった自宅も手放さざるを得ない状態になってしまったためという。これが無かったら別れる事はなかったと語っている。
1985年(昭和60年)に歌手の立花淳一と結婚(3度目)。3度目の結婚もさることながら、相手が20歳年下ということも手伝ってテレビや雑誌が大いに賑わった。結婚当時、女性週刊誌で『立花淳一にお風呂にいっしょに入ろうと誘われるが、恥ずかしくて裸を見せられない』と言っている。結婚会見時に「今度こそは添い遂げます」と宣言するも、2年後の1987年(昭和62年)に離婚。前回の離婚会見とは打って変わり「本当は結婚して2週間後に(立花に)女がいるってわかったんですけど、今度は3度目だし、私も後が無いと思って、何とか我慢しようと思ったんですけど…」と大号泣。その際「1年間男断ちして本業の歌手に専念する」と発言し一筆記した。この時の映像もよくテレビで流れる。ところが離婚直後に立花は五月宅から退去する引越し作業中に転倒して複雑骨折し、仕方なくその後暫く五月が彼の面倒をみていたとのことである[6]。
立花との離婚後はマネージャーで五月企画代表取締役の逸見文泰から「僕が貴女を一生支える」と告白を受け、事実婚状態にあることを、「事実上4番目の夫」「20年ですからね、どの夫たちよりも長い。ちゃんと結婚(入籍など)しないから長続きしているのかもしれない」などと発言し公にしている。
注釈
出典
- ^ a b c 「決定!保存版 '76 ALLスタアLIST 五月みどり」『スタア』1976年2月号、平凡出版、95頁。
- ^ a b c d e f g h i j 週刊現代 2019年1月5日・12日号、私の地図、第398回、歌手・女優五月みどり、86-88頁
- ^ a b 木村隆『この母ありて』 青蛙房 2010年 131-132頁
- ^ “大晦日に復活する「伊東家の食卓」に緊急事態? “健康不安説”が囁かれた母役・五月みどりのマネージャーを直撃すると「出演は……」”. デイリー新潮 (2023年11月27日). 2023年12月21日閲覧。
- ^ 本多圭 (2023年11月22日). “五月みどり“重病説・引退説”の真相は…大晦日に復活「伊東家の食卓」出演困難報道で”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 2023年12月21日閲覧。
- ^ 2011年1月4日 オンエア「 さんま御殿!! 〜踊る踊る踊る!さんま御殿!!涙のバツアリ&崖っぷち女の暴走SP〜 」より
- ^ 週刊現代2018年11/10号 179p-184の182pと183pの五月のインタビューより
- ^ 週刊アサヒ芸能 2012年6月28日特大号 「熟女」の誕生とそれから
- ^ “NEWSポストセブン|熟女ブーム72歳五月みどり「29年ぶりに脱いでもいいかな」”. 小学館 (2012年3月22日). 2012年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月23日閲覧。
- 1 五月みどりとは
- 2 五月みどりの概要
- 3 エピソード
- 4 NHK紅白歌合戦出場歴
固有名詞の分類
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