中国国分 中国国分の概要

中国国分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/07 09:04 UTC 版)

上空からみた中国路
* 文中の( )の年は西暦ユリウス暦(1582年10月15日以降はグレゴリオ暦)、月日は全て和暦宣明暦の長暦による。

中国路の平定

天正5年(1577年)以降、羽柴秀吉は主君織田信長に命じられて毛利輝元の勢力圏である中国路に対する進攻戦を展開した。これが中国攻めである。戦争は6年におよび、秀吉が備中高松城の戦いの最中にあった天正10年6月までつづいたが、同月2日(ユリウス暦1582年6月21日)の織田信長の突然の横死本能寺の変)によって中断された。

秀吉は、主君の仇明智光秀を討つため、ただちに毛利氏との講和を取りまとめ、京に向けて取って返した約10日間の軍団大移動(中国大返し)ののち6月13日山崎の戦いで光秀を討ち、6月27日(ユリウス暦1582年7月16日)の清洲会議でも他の重臣や一族に対して優位に立った。[注 1]

この会議の結果、柴田勝家は秀吉の本拠である近江国長浜を新たに得たが、秀吉は播磨国のほか、山城国河内国、そして光秀の旧領であった丹波国を獲得した[1]京都を擁する山城を領した効果は大きく、7月11日(ユリウス暦1582年7月30日)に京都山科本圀寺に入った秀吉を公家たちは次々に訪問した。また、7月17日には山崎戦のあった天王山山頂に山崎城の普請を開始した秀吉に対して、安国寺恵瓊が早々に毛利輝元と吉川元春の使者として訪れている[2]毛利氏側としては領土交渉を少しでも有利に進めたかったのであろうと考えられる[2]

天正11年(1583年3月、対立していた秀吉と柴田勝家は近江国賤ヶ岳を主戦場として戦った(賤ヶ岳の戦い)。その際、毛利輝元は、秀吉・勝家の双方から同盟を申し込まれたが、中立を保った。なお、このとき足利義昭は、秀吉・勝家の両陣営にはたらきかけて京都復帰を図ろうとしている[3]

秀吉は、賤ヶ岳戦勝後の同年5月15日(グレゴリウス暦1583年7月4日)付の近江坂本(滋賀県大津市)からの手紙で、東海北陸地方での戦果と旧武田氏領をのぞく信長の旧版図が秀吉の支配下にはいったことを、輝元の叔父小早川隆景に伝え、輝元がもし自分に従う覚悟をするなら、「日本の治、頼朝以来これにはいかでか増すべく候や」と述べ、信長から自立した独自の政権づくりによって天下一統を推し進めていく抱負を示した[4]。そして、新しい天下の拠点として9月には大坂城の築城を開始した。

秀吉は、領国割譲に関する毛利氏側の要請をいれて伯耆国西部および備中国高梁川以西を毛利領として画定した。天正11年8月、毛利氏もこれをいったん受諾して人質として小早川元総(毛利元就九男毛利秀包、兄小早川隆景の養子)と吉川経言(吉川元春三男吉川広家)を秀吉のもとに送ったことで境相論は解決の目途が立ち、これをもとに中国国分がなされた。

国分の概要

毛利氏の居城吉田郡山城
本丸から二ノ丸をのぞむ

毛利氏と秀吉の領知配分交渉は、山崎の戦い後の天正11年(1583年)から数年かけておこなわれた。毛利氏は人質の提出によって中国路9か国を有する大大名となった一方、秀吉政権に服属することとなった。しかし、天正12年(1584年3月、秀吉は宇喜多秀家に対し毛利氏への備えを命令しており、必ずしもすべての警戒を解いたものではなかった。

領知配分に関する細かい交渉は、毛利の服属後もつづき、秀吉政権における中国路の取次の任にあった黒田孝高蜂須賀正勝が現地で、毛利氏の外交僧であった安国寺恵瓊上方でそれぞれ交渉にあたった。

その結果、秀吉が当初求めた高梁川以東の毛利領の全面割譲は受け容れられなかったが、備中国のうち賀陽郡都宇郡窪屋郡美作国、および備前国のうち児島郡を毛利氏より割譲されることで決着し、これらはほとんど備前岡山城の城主宇喜多秀家にあたえられた[5]。秀吉は、領土の点で毛利氏に対して妥協する反面、天正13年の紀州攻め四国攻めでは毛利氏に協力を求め、輝元もまたこれに応じた。山陰道に属する伯耆国では、西3郡と八橋領が毛利領、八橋領をのぞく東3郡が南条元続領として画定した[6]

丹後国細川藤孝忠興父子の安堵がみとめられた。日本史学者藤田達生によれば、本能寺の変後、遅くとも天正10年6月8日までに秀吉の使者と藤孝とが接触していたとしている。藤孝はまた、同時に明智光秀からも与力するようさかんに求められたが、結局は、光秀の要請には応じずに中立を守った。そして、山崎の戦いでは秀吉軍に加勢しなかったにもかかわらず、戦後の秀吉は同年7月11日付の書状において、藤孝に対し、その全面的な協力に謝意を表し、今後の細川家の処遇について請け合うことをに誓う起請文を発した[7]

山陰道に属する丹波国但馬国因幡国山陽道播磨国および南海道淡路国の諸国には織豊系とくに秀吉配下の大名・小名に領土が配分された。これら諸国は、秀吉自身が中国攻めや山崎の戦いなどによって獲得し、その勢力を扶植していった地であった。それゆえ、譜代の家臣のいない秀吉にとっては一門や子飼いの家臣に知行配分する地域として重視された。このため、領土としては細分されることが多く、また、並行して天下統一事業の一環としての四国九州・東国等の戦役が進められたことから、その論功行賞の影響を強く受けて、この地の領主は目まぐるしく交替した。


注釈

  1. ^ 本能寺の変後の和睦条件は、当初織田氏方が要求していた備中備後美作伯耆出雲の5か国割譲に代えて、備後・出雲をのぞく備中・美作・伯耆の3か国の割譲と高松城岡山県岡山市北区)の城主清水宗治切腹というものであった。
  2. ^ 毛利家中で秀吉の信任が最も厚かった小早川隆景は、四国攻めののちの四国国分伊予一国35万石をあたえられて秀吉の直臣大名として取り立てられ[13]、さらに九州征伐後の九州国分では、筑前国筑後国および肥前国一部の計37万石に加増された。九州転封後の隆景は、筑前名島城福岡県福岡市東区)を本拠とした。
  3. ^ しかし、その直後に養父にあたる小早川隆景が隠居して、家臣団とともに安芸三原(広島県三原市)に移ったため、秀秋はその後を継いで筑前名島の城主となった。なお、隆景はその際、秀吉から筑前国内に5万石という破格の隠居料を拝領している。
  4. ^ 四国攻めののち、蜂須賀正勝の子蜂須賀家政阿波国徳島城徳島県徳島市)18万石、九州征伐ののち黒田孝高は豊前国中津城大分県中津市)17万石、浅野長政は若狭国小浜城福井県小浜市)8万石の大名となった。

出典

  1. ^ 熱田『天下一統』(1992)p.201
  2. ^ a b 熱田『天下一統』(1992)p.202-203
  3. ^ 熱田『天下一統』(1992)p.204
  4. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.137
  5. ^ a b 竹林『岡山県の歴史』(2003)p.172
  6. ^ a b c d 日置『鳥取県の歴史』(1997)p.140
  7. ^ 藤田『謎とき 本能寺の変』(2003)p.161-162
  8. ^ 太閤検地石高(『日本賦税』『当代記』など。徳川旧領5か国、信濃は上杉領の川中島4郡を除く)。
  9. ^ 豊臣家において石田ら子飼い家臣と、秀勝・秀保ら一門の石高は蔵入地222万石とは別のため、豊臣家勢力は徳川を凌駕している。
  10. ^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)
  11. ^ 『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項
  12. ^ 池「天下統一と朝鮮侵略」(2003)p.76-77
  13. ^ 内田(2003)『愛媛県の歴史』p.153
  14. ^ 仮里屋(赤穂)6万石の生駒親正が讃岐へ転封された事による。
  15. ^ 竹林『岡山県の歴史』(2003)p.175-176
  16. ^ a b 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.179
  17. ^ a b 水本『京都府の歴史』(1999)p.218-219
  18. ^ a b c 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.180-p.181
  19. ^ a b 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.180
  20. ^ 今井・三浦『兵庫県の歴史』(2004)p.179-p.180
  21. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.142
  22. ^ 光成『関ヶ原前夜』(2009)p.189-192
  23. ^ 熱田『天下一統』(1992)p.286 および『決定版 図説・戦国地図帳』(2003)p.126 より作表
  24. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.158
  25. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.342
  26. ^ 池上『織豊政権と江戸幕府』(2002)p.343
  27. ^ a b 河合「西軍決起の謎」(2000)p.170-171
  28. ^ a b 光成『関ヶ原前夜』(2009)p.51-62
  29. ^ 周防国も含む(一城令で岩国城を破却。幕末に政庁を山口に移す。)
  30. ^ 慶長5年の検地による石高。慶長10年(1605年)の『毛利家御前帳』にも同様の石高が記載。 慶長18年(1613年)、36万9千石に高直し。


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