下関条約 下関条約の概要

下関条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 21:01 UTC 版)

日淸兩國媾󠄁和條約󠄁
永地秀太筆(1929)

日本側:右から伊藤博文陸奥宗光伊東巳代治
清側:右から李鴻章李経方伍廷芳


通称・略称 日清講和条約、下関条約、馬関条約
署名 1895年明治28年)4月17日[1]光緒21年3月23日
署名場所 山口県赤間関市(現・下関市)
発効 1895年(明治28年)5月8日(光緒21年4月14日批准書交換[2](批准地:山東省芝罘
締約国 日本[1]
[1]
当事国 朝鮮国[1]
文献情報 明治28年5月13日官報号外勅令
主な内容 日清戦争の講和条約。朝鮮の独立、台湾遼東半島澎湖列島の日本への割譲、清から日本への2億テール賠償金支払い、清の一部市港の開港、最恵国待遇など[3]
条文リンク媾和條約及別約批准』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
東京大学東洋文化研究所
ウィキソース原文
テンプレートを表示

山口県下関市料亭春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て締結された[3]。調印者は、日本側全権が伊藤博文陸奥宗光、清国側全権が李鴻章李経方である[4]

前文および11か条からなり、これには付属議定書があって、解釈批准等について規定している[4]朝鮮の独立、台湾遼東半島澎湖列島の日本への割譲、清から日本への2億テール賠償金支払い、清の一部市港の開港、最恵国待遇などを内容とする。ただし批准交換までに三国干渉があり、遼東半島は清に返還した[3]。かつては、会議が開かれた山口県赤間関市(現、下関市)の通称だった「馬関」をとって、一般に馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称であり、中国では、今でも「馬関条約」(簡体字: 马关条约; 繁体字: 馬關條約; 拼音: Mǎguān tiáoyuē)と呼んでいる[注釈 1]

調印者と調印場所

1895年(明治28年)1月に講和交渉の開始で日清両国が合意した後、日本側は内閣総理大臣伊藤博文外務大臣陸奥宗光の両名を全権弁理大臣に任じた[5]。清側は2月末に北洋大臣直隷総督李鴻章を欽差頭等全権大臣(特命全権大使)に任じ、また過去に駐日公使を務めていたことがある李経方も欽差全権大臣に任じた[5]

3月19日の朝に李鴻章と李経方が山口県赤間関市(現、下関市)に到着。伊藤博文と陸奥宗光が出迎え、その翌日から割烹旅館春帆楼において両国全権委員の講和会議が開催された[5]。清側が台湾割譲に反発して交渉は若干長引いたが、最終的には清側が折れ、4月17日に春帆楼において「下関条約」と通称される日清講和条約が両国全権委員の間で締結された[5]

条約の内容

1895年4月17日に調印された日清講和条約

主な調印内容は以下の通り[6][7][8][9][10][11]

  • 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
  • 清国は遼東半島台湾澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
  • 清国は賠償金2億テールを日本に支払う。(第四条)
  • 割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
  • 清国は沙市重慶蘇州杭州を日本に開放する。日本国臣民は清国の各開市・開港場において自由に製造業に従事することができる。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)
  • 日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
  • 清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
  • 清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
  • 条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
  • 条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)

備考

賠償金のテール(両)は、1テール=庫平銀37.3gで2億両(746万kg相当)の払いだった。2億テールは日本円に換算すると約3億1,100万円に相当した[7]

なお、日清戦争にともなう国交断絶により、1871年成立の日清修好条規が失効したため、第六条において日清両国は新しい通商条約を日本が欧米並の立場で改めて結ぶことが定められた[12]

それが、1896年7月21日北京にて日本側全権林董、清側全権張蔭桓の間に結ばれた日清通商航海条約である[4][12][注釈 2]

下関条約の第一条には、「清国は朝鮮の独立を承認する」ことが明記されており、それは朝鮮を清国から独立させることこそ、日清戦争における日本の目的の一つであったが、現代の韓国では、この条文は、一部の学術論文を除いては原文を改竄し、「朝鮮の独立」を「日本の支配下に置く」という文言に故意に書き換えているという指摘がある[14]


注釈

  1. ^ 「赤間関」は「赤馬関」とも表記され、これを江戸時代漢学者が縮めて「馬関」とした。明治期に作られた「鉄道唱歌」の第二集(山陽九州編)でも、「世界にその名いと高き 馬関条約結びたる 春帆楼の跡とひて 昔しのぶもおもしろや」との歌詞で紹介された。調印後の1902年に赤間関市が下関市に改称されても「馬関条約」の名称は長らく使われた。「下関条約」の表記が完全に定着するのは、第二次世界大戦後のことである。
  2. ^ 日清通商航海条約は、1900年義和団の乱(北清事変)後の北京議定書をもとに「日清間の追加通商航海条約」が調印され、日本の利権はいっそう拡充された[13]
  3. ^ 伊藤首相と同様の観測は民間にもあり、たとえば1895年1月12日の『東京経済雑誌』では、北京の紫禁城が陥落しても、清の皇帝は降伏せず、退去して抗戦するケースを想定している[21]。また、同誌では、当時の日本国民が開戦時に高唱した「義戦」もまた、東洋にあっては聞こえがよいものであっても実は虚飾にすぎず、ヨーロッパ列強はただ利のみを図っているのであり、それゆえ介入の心配は常にせねばならないのであり、日本国内における、義のために国富と人命を消耗することを良しとする考えは愚かであることも指摘している[22]
  4. ^ 陸軍では遼東半島のほかに山東半島の領有を望む声もあった。海軍の樺山資紀も山東半島領有を望んだ。
  5. ^ 国交断絶中の国同士に「国書」交換なるものが存在しないのは確かであった[26]
  6. ^ しかし、こののち徐載弼は朝鮮王高宗によって命をねらわれ、高宗の勅令によって独立協会が強制的に解散させられたため、立憲君主制の芽は摘まれてしまった[42]
  7. ^ 賠償金2億両は庫平銀では746万kgに相当し、還付金の111.9万kgを合わせると857.9万kgに達する。2011年4月現在の日中銀取引相場価格では銀1kgが12万円程度なので、それをもとに計算すると1兆294億円前後にのぼる。
  8. ^ この措置によって、軍拡にともなう艦船やその資材、兵器弾薬などの輸入が促進され、1896年から1903年までのそれらの輸入額は1億5,000万円弱に達した[48]
  9. ^ 台湾の割譲以上に賠償金借款の抵当と通商権益について警鐘を鳴らしたのが譚嗣同であった。彼は、これにより外国人はどこでも機械類をはじめとする諸商品を製造することができることから、中国人の商工業の利益は一網打尽となり、清国民の生計・生活もすべて外国人に握られ、中国の4億の民は、ことごとく日本の蝦夷、アメリカのインディアンないし黒人奴隷のような境遇に置かれてしまうだろうと訴えた[53]
  10. ^ 条約の上では下関条約にいたるまで外国企業設立の法的根拠はなかったはずではあるが、実際には既成事実が積み重ねられていた結果でもあり、とくに上海は最大の外資投下の対象であった[54]

出典

  1. ^ a b c d e "下関条約". 日本大百科全書(ニッポニカ)典. コトバンクより2021年1月11日閲覧
  2. ^ 日本学術振興会『条約目録』1936年
  3. ^ a b c "下関条約". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典典. コトバンクより2021年1月11日閲覧
  4. ^ a b c d 下村(1979)pp.426-427
  5. ^ a b c d アジア歴史資料センター、大英図書館共同インターネット特別展 描かれた日清戦争 ~錦絵・年画と公文書~ 4. 講和へ:講和交渉の開始~下関条約締結と三国干渉
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 原田(2007)pp.84-87
  7. ^ a b c d e f g h i j 猪木(1995)pp.12-17
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 加藤祐三(1998)pp.389-393
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 隅谷(1971)pp.35-47
  10. ^ a b c d e f g h i j 並木(1998)pp.347-352
  11. ^ a b c 小島・丸山(1986)pp.43-46
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 御厨(2001)pp.302-305
  13. ^ 下村(1979)p.427
  14. ^ 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、136頁。ISBN 978-4594042158 
  15. ^ 大山(2014)pp.111-115
  16. ^ 大山(2014)pp.210-213
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 陳(1983)pp.44-50
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 大山(2014)pp.213-215
  19. ^ a b c d e f g h i j 原田(2008)pp.250-252
  20. ^ a b 小松(2009)pp.45-46
  21. ^ 原田(2007)p.85
  22. ^ 隅谷(1971)p.36
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 佐々木(2002)pp.143-146
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 海野(1992)pp.69-73
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 原田(2008)pp.253-255
  26. ^ 陳(1983)pp.47-48
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 陳(1983)pp.50-54
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 陳(1983)pp.54-58
  29. ^ a b c d e f g h i j 大山(2014)pp.215-216
  30. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 原田(2008)pp.255-257
  31. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 陳(1983)pp.58-63
  32. ^ a b c d e f g h i j 岡崎(2009)pp.489-493
  33. ^ a b c d e f g h i j k 大山(2014)pp.217-219
  34. ^ a b c d e f g h i j k l m n 陳(1983)pp.63-71
  35. ^ a b c d e f g h i j k l 中山(1990)pp.117-122
  36. ^ a b c 岡部(1969)pp.102-108
  37. ^ a b c d e f g h i 河合(1969)pp.70-71
  38. ^ a b c d 加藤陽子(2002)pp.126-131
  39. ^ a b c d 糟谷(2000)pp.242-244
  40. ^ a b 糟谷(2000)pp.244-247
  41. ^ a b c 海野(1992)pp.92-94
  42. ^ 糟谷(2000)p.244
  43. ^ a b c d e f g 原田(2007)pp.96-101
  44. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 海野(1992)pp.82-86
  45. ^ a b c 中山(1990)pp.115-117
  46. ^ 原田(2007)pp.122-126
  47. ^ a b c d e 海野(1992)pp.104-108
  48. ^ 海野(1992)p.106
  49. ^ a b 海野(2007)pp.118-120
  50. ^ a b c d e f g h i j 中村(1969)pp.362-367
  51. ^ 近藤(1971)pp.494-502
  52. ^ a b c d e f g h i j k l 小島・丸山(1986)pp.46-49
  53. ^ 近藤(1971)p.497
  54. ^ 中村(1969)pp.345-348
  55. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 中山(1990)pp.122-125
  56. ^ a b 宮崎(1978)pp.540-543
  57. ^ a b c d e f 小島・丸山(1986)pp.49-52
  58. ^ a b 「日清講和記念館」下関市立歴史博物館
  59. ^ 日本下關有一條“李鴻章小路”” (中国語). 人民網 (2018年6月4日). 2019年12月28日閲覧。






下関条約と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「下関条約」の関連用語

下関条約のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



下関条約のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの下関条約 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS