アシャッフェンブルク 地名

アシャッフェンブルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/27 02:25 UTC 版)

地名

語源

アシャッフェンブルクという地名はアスカニウスに由来するという説が、しばしば誤って受け容れられている。元々の名称 Ascafaburc は、アシャッフ川を表す ascafa古高ドイツ語で「城砦」を意味する burch が接続したものである[5]

歴史的表記

本市は様々な歴史上の文書に以下のように表記されている[5]

  • 976年 Ascafaburc
  • 982年 Ascafaburg
  • 1131年 Aschapheneburch
  • 1143年 Aschafenburc
  • 1173年 Aschaffenburg

ラテン語化された名称として Asciburgum, Schaffnaburgum といった表記もなされている[6]

歴史

中世

アシャッフェンブルクは、5世紀アレマン人によって建設されたのだが、最初の入植地は石器時代にはすでに営まれた。

957年シュヴァーベン公リウドルフが、聖ペテロおよびアレクサンダー修道院を設立した。アシャッフェンブルクは、982年オットー1世からオットー2世を経てマインツ大司教に寄贈され、オーバーアムトを形成した。10世紀から1803年帝国代表者会議主要決議まで、アシャッフェンブルクはマインツ選帝侯領に属しており、当時はマインツ大司教の第2の都市であった。マインツ大司教の世俗支配下にあった領土は、中世全体および近世に著しく断片化し、最も大きなまとまり(オベーレス・エルツシュティフト)がアシャッフェンブルク周辺の現在バイエリッシャー・ウンターマイン(バイエルンのウンターマイン)と呼ばれている地域であった。このため、アシャッフェンブルクは重要な行政都市であり、大司教(選帝侯)がしばしば滞在する街であった。

957年に聖ペテロ修道院教会(後の聖ペテロおよびアレクサンダー修道院教会)の建設が始まった。998年、マインツ大司教ヴィリギスドイツ語版英語版は、マイン川に木造の橋を建設した。1122年頃、大司教アーダルベルト1世フォン・ザールブリュッケンドイツ語版英語版は、集落に防衛施設を建設した。アシャッフェンブルクは1144年に市場開催権を、1161年に都市権を授けられた。1346年にアガータ教会の周囲に市壁で護られたフォアシュタット(衛星都市)が建設された。同じ年に大司教ハインリヒ3世フォン・ヴィルネブルクドイツ語版は本市の特権を保証した[7]

1675年に出版されたマテウス・メーリアンの銅版画に描かれたアシャッフェンブルク。

近世以降

マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクドイツ語版英語版は、元々はハレ・アン・デア・ザーレに住んでいた。彼は、ハレでは芸術的パトロンであり、特にルーカス・クラナハ (父)に多くの作品を依頼した。宗教改革の結果、彼は1541年にハレから逃走を余儀なくされ、居住地をアシャッフェンブルクに移した。その際、多くの美術品を運び出した。このため数多くのクラナハの絵画や、それぞれの日付の聖人の聖遺物を集めた聖遺物暦がアシャッフェンブルクの聖ペテロおよびアレクサンダー修道院教会の所有となった。アルブレヒトはここから贖宥状に関する有名な書簡を、マルティン・ルターに対しても送っている。聖ペテロおよびアレクサンダー修道参事会は、1516年に「画家 マティス」(現在マティアス・グリューネヴァルトとして知られる)に祭壇画の制作を依頼した。1552年辺境伯戦争によって古い城が破壊された後、1605年にヨハン・シュヴァイクハルト・フォン・クロンベルクが新しい城館ヨハニスブルク城を建設し、1619年に完成した。1631年から1634年までアシャッフェンブルクはマインツにおけるスウェーデンの所有物であった。

アシャッフェンブルクの戦い

この修道院は、1700年頃、フランケン騎士サークルのカントン・オーデンヴァルトに登録されている。1798年マインツフランスに占領されたため、アシャッフェンブルクはマインツ大司教領の首都となった。1803年、最後のマインツ選帝侯で帝国宰相のカール・テオドール・フォン・ダールベルクアシャッフェンブルク侯国を創設し、アシャッフェンブルクは同年この新しい国の首都となった。1810年から1813年まではアシャッフェンブルク公国を含むフランクフルト大公国の首都であった。その後1814年6月3日のパリ条約でアシャッフェンブルクは、1814年6月26日にバイエルン王国領となり、それ以後バイエルンに属している[8]1835年から1865年までアーダルベルト・フォン・ヘルラインがアシャッフェンブルクの市長であった。その在任中、急速な人口増加が起こった。バイエルン国王ルートヴィヒ1世1840年から1848年に別荘「ポンペイアヌム」を建設した。普墺戦争では、1866年7月14日にアシャッフェンブルクで戦闘が行われた。

ヴォルフスタール広場のかつてのナビの居館。

この街には、700年からユダヤ人家族が住んでいた。アシャッフェンブルクのユダヤ人達は、周辺のユダヤ人達と同様、死者を初めはフランクフルトに埋葬していたが[9]、18世紀の初めにシュヴァインハイム市区にユダヤ人墓地が設けられた。ここには、1942年に強制移送前に自殺した 7人のユダヤ人を偲ぶ記念碑が建てられている。1890年には旧市営墓地に隣接して、もう一つのユダヤ人墓地が造営された。ユダヤ人の生活により、ヴォルフスタール広場の旧学校やラビの館(1898年にケヒッラーが創設された)が造られた。シナゴーグは1893年に建設されたが、1938年11月の排斥運動(水晶の夜)に突撃隊によって冒瀆され破壊された。唯一遺されたかつてのラビの居館は、市の青年館として利用された後、アシャッフェンブルク市によって1984年にユダヤの歴史と文化の博物館が設けられた。展示物には、迫害やホロコーストでの殺害に関する情報もある。慈善家であったユダヤ人銀行家ヴォルフスタールにちなんで名付けられた広場には約 300人のアシャッフェンブルクのユダヤ人を追悼する記念碑が建立されている[10]。また、市内にはストルパーシュタイン(躓きの石)が記念碑として埋め込まれている。この街では1925年からユダヤ教のロッジが禁止されるまで、「ブナイ・ブリス・ロッジ」という名前のロッジがあった。1937年に押収されたラムプレヒト通り21番地のロッジ(現在の番地では37番地)は、アンドレアス・バウリードル・ハウスとして、NSDAPの地方統括本部が置かれた。

アシャッフェンブルクは1940年から1945年3月までに 連合軍による空爆を20回受けた。最も深刻な被害は、1944年11月21日のイギリス空軍による空爆であった。アシャッフェンブルクの大部分、特にダム市区が破壊され、344人が死亡した。

1945年春のアメリカ陸軍の侵攻に対して、アシャッフェンブルクは「防衛」の立場を明らかにし、あらゆる手段を講じることとした。この決定は本市のさらなる破壊をもたらし、周辺村落も砲撃や空爆により被害を受けた。一般市民からも多くの死者が出た。アメリカ軍は、破壊されずに残ったニルクハイマー鉄道橋を通ってシュヴァインハイム市区に到達し、1945年の受難週の戦闘の間に内市街に突入しようとした。空爆による破壊後、さらにこの街を占領するために行った砲撃によって、たとえばヨハニス城やポンペイアヌムなどの貴重な文化財や建築物がひどく損傷し、または破壊された。9日間の防衛戦の後、1945年4月3日にこの街は降伏した。

すべての破壊された教会が再建され、城館も1954年から再建された。ポンペイアヌムは1984年から1994年にやっと再建された。この2つの建築物は現在、この街の風景に特殊な具合に再び組み込まれている。しかし多くの価値ある建造物が永久に失われ(旧市庁舎、修道院の参事会員会館、オスタイン/ダルベルクスホーフ、貴重な民家など)、あるいは一部のみが復元された(ドイツ騎士団の館、シェーンボルナー・ホーフなど)。旧市庁舎のポルチコは、新しい建物と融合した[11]。レーヴェンアポテーケ(獅子薬局)は1995年に市民主導の活動により昔の様式で復元された。

第二次世界大戦後の1945年にアシャッフェンブルクはアメリカ管理地区に属した。アメリカ軍政府は、いわゆるディスプレイスト・パーソンドイツ語版英語版(DP、戦争で故郷を逐われた人々)を収容するDP収容所を設けた。その多くはウクライナポーランドの出身者であった。

1958年夏にアウトバーン A3号線にアシャッフェンブルク=ツェントルム・インターチェンジ(アシャッフェンブルク中央IC)が利用開始された。この年に聖ペテロおよびアレクサンダー修道院教会は「マイナー・バシリカドイツ語版英語版」という教皇庁の格式を与えられ、聖ペテロおよびアレクサンダー修道院バシリカ教会となった。グイード・クノップは1978年に歴史討論を発足させ、2008年まで毎年アシャッフェンブルク会談を開催した。これは当時のドイツにおける歴史討論の確固たる構成要素の一つであった。

1990年から1992年にかけて、以下のアメリカ軍の軍事基地が閉鎖された: テイラー兵舎(旧軍事補給局、ゴルトバッハー通り)、アシャッフェンブルク軍事飛行場(軍事飛行場、マインヴィーゼンヴェーク)、フィオーリ兵舎(旧工兵隊兵舎、クリスティアン=シャート通り)、グレイヴス兵舎(旧ボイス・ブルーレ兵舎、バイロイター通り)、レディー兵舎(旧砲兵隊兵舎、ヨーゼフ=ディンゲス通り)、スミス兵舎(旧ラガルデ兵舎、アム・フンクハウス)、イェーガー兵舎(旧猟兵隊兵舎、1896年建造、ヴォュルブルガー通り)。

イェーガー兵舎には、第一次世界大戦までバイエルン王国第2猟兵大隊が駐屯していた。1995年、ここにヴュルツブルク=シュヴァインフルト専門大学の分校(当時はヴュルツブルク=シュヴァインフルト=アシャッフェンブルク専門大学)が開校した。その後すぐにアシャッフェンブルク分校は、独立のアシャッフェンブルク専門大学(現在のアシャッフェンブルク大学)となった。

シュヴァインハイム市区とガイルバッハ市区の軍事演習場は、2007年に土地所有者に返還された。

市町村合併

アシャッフェンブルクに対して、以下の合併が行われた。

  • 1855年: ニルクハイム
  • 1901年3月1日: ライダー[12]
  • 1901年7月1日: ダム[12]
  • 1939年4月1日: シュヴァインハイム[12]
  • 1975年4月1日: ガイルバッハ[13]
  • 1978年5月1日: オーベルナウ[13]

住民

アシャッフェンブルクの人口推移

人口推移

中世から近世初期アシャッフェンブルクの人口はゆっくりと増加し、度重なる戦争、疫病、飢餓などでたびたび減少した。三十年戦争(1618年 – 1648年)中でペスト流行後の1635年には大幅な人口喪失を甘受しなければならなかった。

1792年のキュスティーヌ将軍によるマインツ占領前、アシャッフェンブルクの人口は、約3,000人強であった。カンポ・フォルミオ条約(1797年)の結果としてのフランスによるライン川左岸の占領に伴い、マインツの廷臣の大部分がアシャッフェンブルクに移り住んだ。さらに、廷臣以外にもマインツやライン川左岸地域から移住する者があった。1812年までにアシャッフェンブルクの人口は約6,600人に増加した。19世紀になると工業化に伴い、人口増加に拍車がかかった。1900年頃、本市には約18,000人が住んでいた。

第二次世界大戦の影響は、はっきりと目に見える。1940年9月から1945年3月まで20回以上の空爆後、市の大部分が灰燼に帰した。最も激しかった1944年11月21日の空爆だけで 344人が命を落とした。全体では、疎開、逃亡、空爆によりアシャッフェンブルクは人口の1/3を失った。人口は1939年の 45,379人から1945年12月には 30,861人にまで減少した。人口は 1950年に戦前の状態まで回復した。バイエルン州統計・データ管理局の研究に基づく2006年12月30日のアシャッフェンブルク市の公式な人口統計値は 69,863人の歴史上最高値に達した。

2011年人口調査に基づく2011年12月31日時点の人口は、67,470人に修正された。2011年の人口調査は、ドイツ全体の人口を明らかに下方修正しており、1987年から行われた過去の人口調査に基づき補正された先行する人口統計値も過剰評価している可能性があることを示唆している[14]

以下の表は各時点の市域における人口を示している。1792年と1812年の数値は現代の研究に基づく推定値であり、これ以後は人口調査結果 (¹) または公的統計機関の研究値である。

時期 人口(人)
1668年 1,526
1792年 3,300
1812年 6,590
1830年6月1日 ¹ 6,800
1840年12月1日 ¹ 9,300
1858年12月3日 ¹ 10,445
1864年12月3日 ¹ 10,700
1867年12月3日 ¹ 10,300
1875年12月1日 ¹ 10,800
1880年12月1日 ¹ 12,152
1885年12月1日 ¹ 12,393
1890年12月1日 ¹ 13,630
1895年12月2日 ¹ 15,831
1900年12月1日 ¹ 18,093
時期 人口(人)
1905年12月1日 ¹ 25,891
1910年12月1日 ¹ 29,892
1916年12月1日 ¹ 26,957
1917年12月5日 ¹ 27,377
1919年10月8日 ¹ 32,199
1925年6月16日 ¹ 34,056
1933年6月16日 ¹ 36,260
1939年5月17日 ¹ 45,379
1945年12月31日 30,861
1946年10月29日 ¹ 36,383
1950年9月13日 ¹ 45,499
1956年9月25日 ¹ 51,998
1961年6月6日 ¹ 54,131
1965年12月31日 55,580
時期 人口(人)
1970年5月27日 ¹ 55,193
1975年12月31日 55,398
1980年12月31日 59,257
1985年12月31日 59,240
1987年5月25日 ¹ 60,964
1990年12月31日 64,098
1995年12月31日 66,360
2000年12月31日 67,592
2005年6月30日 68,798
2006年12月30日 69,863
2008年12月31日 68,747
2009年12月31日 68,722
2010年12月31日 68,678
2011年12月31日 ¹ 67,470
時期 人口(人)
2012年12月31日 67,681
2013年12月31日 67,844
2014年9月30日 67,873

¹ 人口調査結果

方言

アシャッフェンブルクでは、周辺市町村と同様に、ラインフランケン方言(ヘッセン方言)の一つであるウンターマインラント訛りが話されている。人々は、時に頑なに、ウンターフランケン訛りでは話さない。アシャッフェンブルク方言自身は、境を接するカールグリュント訛りやグロースオストハイム訛りといったウンターマインラント方言地区からも区別されている。

アシャッフェンブルク方言を話す有名人として、キャバレッティストのウルバン・プリーオルがいる。


  1. ^ Genesis Online-Datenbank des Bayerischen Landesamtes für Statistik Tabelle 12411-003r Fortschreibung des Bevölkerungsstandes: Gemeinden, Stichtag (Einwohnerzahlen auf Grundlage des Zensus 2011)
  2. ^ Duden Band 6: Das Aussprachewörterbuch, Dudenverlag, ISBN 978-3-411-04066-7
  3. ^ Aschaffenburger Anzeiger 2007年5月16日付け
  4. ^ Die Einwohnerzahlen der Stadtteile sind angegeben mit Stand 12月31日 2014 nach Angaben der Stadtverwaltung.
  5. ^ a b [Wolf-Armin Frhr. v. Reitzenstein: Lexikon fränkischer Ortsnamen. Herkunft und Bedeutung. C.H.Beck, München 2009, ISBN 978-3-406-59131-0, S. 26–27.
  6. ^ Besonderes Lexicon derer meisten Länder/ Städte/ Insuln [...], Nürnberg 1727, S. 12
  7. ^ Heinrich Gottfried Gengler: Regesten und Urkunden zur Verfassungs- und Rechtsgeschichte, Erlangen 1963, S. 60–61, 966
  8. ^ Beendigung der Napoleonischen Kriege(2015年9月13日 閲覧)
  9. ^ H.-B. Spies: Der Beerdigungsort Aschaffenburger Juden in Spätmittelalter und Früher Neuzeit. In: Mitteilungen aus dem Stadt- und Stiftsarchiv Aschaffenburg. Nr. 6, 1999–2001, S. 165–172.
  10. ^ Gedenkstätten für die Opfer des Nationalsozialismus. Eine Dokumentation, Band 1. Bundeszentrale für politische Bildung, Bonn 1995, ISBN 3-89331-208-0, S. 115
  11. ^ Hartwig Beseler und Niels Gutschow: Kriegsschicksale Deutscher Architektur. Karl Wachholtz Verlag, Neumünster, Band 2. ISBN 3-926642-22-X. S. 1317–1325
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  13. ^ a b Statistisches Bundesamt (Hrsg.): Historisches Gemeindeverzeichnis für die Bundesrepublik Deutschland. Namens-, Grenz- und Schlüsselnummernänderungen bei Gemeinden, Kreisen und Regierungsbezirken vom 27. 5. 1970 bis 31. 12. 1982. W. Kohlhammer GmbH, Stuttgart und Mainz 1983, ISBN 3-17-003263-1, S. 733.
  14. ^ Statistisches Bundesamt: Bevölkerung und Erwerbstätigkeit(2015年9月13日 閲覧)
  15. ^ Anstalt für Kommunale Datenverarbeitung in Bayern (AKDB)(2015年9月14日 閲覧)
  16. ^ Rathauschef gewinnt mit Traumergebnis, Frankfurter Allgemeine Rhein-Main 2012年3月11日付け(2015年9月14日 閲覧)
  17. ^ “Jürgen Herzing ist neuer Oberbürgermeister in Aschaffenburg”. br24 Newsletter. (2020年3月30日). https://www.br.de/nachrichten/bayern/juergen-herzing-ist-neuer-oberbuergermeister-in-aschaffenburg,RuiAfyC 2020年10月17日閲覧。 
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