読売ジャイアンツ時代とは? わかりやすく解説

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読売ジャイアンツ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:03 UTC 版)

小林繁」の記事における「読売ジャイアンツ時代」の解説

入団前はプロ練習にもついていけるのではないかという自信持っていたが、巨人練習想像以上厳しく筋肉痛に耐えながらついていくのが精一杯であった。それでも春季キャンプのうち5日間は一軍過ごした初め一軍練習行った日、小林長嶋茂雄王貞治一軍選手が持つ雰囲気圧倒され、「どんな練習をしたかも覚えていない」ほどの緊張味わいながら、「ここがプロなんだ、ここが野球で金を稼げる場所なんだ」と感じたという。後に阪神タイガースチームメイトとなる江本孟紀小林肉体を「3本ずつのハリガネを1本の束にしてより上げハガネにし、さらにそのハガネを束にしたような筋肉つくられていた」と評しているが、小林によるとそれは入団した年の練習で培われたものであった入団1年目1973年)、二軍イースタン・リーグ)で7勝5敗10セーブ防御率2.43の成績挙げ優勝投手にもなった小林は、9月26日一軍試合初登板。チーム負けている場面で3回リリーフ登板し結果残した後、10月11日阪神タイガース戦(10-10引き分け)に6番手出場1イニングを無失点抑えた。この試合巨人セントラル・リーグ優勝左右する試合といわれ、日本テレビ系列放送予定超えて放送されるなど野球ファン注目集めており、小林存在知られるきっかけとなったシーズン終了後小林牧野紀史に「どうやらプロやっていけそうです」と報告している。 翌1974年1月小林交際していた大丸時代の元同僚女性と結婚した(後に離婚)。小林入団同時に結婚するつもりでいたが、監督川上哲治から一年間結婚遅らせて野球打ち込むよう諭され、結婚延期していた。この年から背番号4019変え一軍定着するうになる1975年川上に代わって長嶋茂雄監督就任した巨人球団創設以来初めセ・リーグ最下位となったシーズン終了後小林投手コーチ杉下茂反発して引退決意しプロゴルファー転向考えたことがある多摩川グラウンド行われた秋季練習において気を抜いた素振り見せた小林杉下怒りを買い、雨中3時間にわたりランニングさせられた。「もう許してもらえるだろう」と思った小林ランニング終えた時には練習終了しており、小林を除く選手杉下グラウンドから引き上げていた。これに反発した小林二軍コーチ宮田征典電話をかけて引退する旨を伝えゴルフクラブ購入するなど練習休んでプロゴルファー転向準備進めた。しかしチームメイト高橋良昌から「一度でも死ぬ気になって野球取り組んだことがあるか?野球辞めるなんて言葉を吐くのは死ぬ気になってやった後にしろ」と諭され、翻意高橋勧めに従って杉下謝罪し練習復帰した。 翌1976年張本勲加藤初らをトレード獲得するなど戦力補強行った巨人は、2年ぶりのセ・リーグ優勝果たした小林18勝、防御率2.99(いずれもリーグ2位)の成績挙げ10月16日広島東洋カープ戦に救援登板して胴上げ投手となるなど活躍した阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全7試合中6試合登板、2勝1敗1セーブ記録する1977年巨人リーグ優勝果たし小林前年同じく18勝(防御率2.92)を挙げた最多勝最優秀防御率タイトル獲得できなかったものの沢村賞受賞しベストナイン選出された。同年阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全5試合中4試合登板。第1戦で日本シリーズ先発果たし山田久志投げ合うが、早々に打込まれ2回で降板敗戦投手となる。

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読売ジャイアンツ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:58 UTC 版)

李承燁 (野球)」の記事における「読売ジャイアンツ時代」の解説

2006年 その後メジャーへの移籍模索していたが、1月19日読売ジャイアンツへの入団発表された。1年契約を結び、背番号33第1回WBC韓国代表選出され一次リーグ日本戦では石井弘寿から逆転2点本塁打二次リーグメキシコ戦、アメリカ戦でも先制本塁打放つなど、4試合連発を含む大会最多の5本塁打10打点記録する大活躍で韓国代表を4強導き記者投票による優秀選手ベストナイン)に一塁手として選出された。 レギュラーシーズンでは上記WBCでの活躍などもありこの年から巨人監督復帰した原辰徳開幕から4番打者として起用。その開幕戦東京ドーム、対横浜ベイスターズ戦)で加藤武治から巨人移籍後本塁打放った6月11日ロッテ戦千葉マリン)では渡辺俊介から勝ち越し2点本塁打放ったが、走者小関竜也三塁を空過したため、この打席記録単打として記録された。8月1日には日韓通算400本塁打達成故障続出の中でフル出場続け143試合出場し打率.323本塁打41打点108来日以降最高の成績マークした前年まで苦しんでいた左投手に対してこの年打率.338をマークするなど、完全克服印象付ける好成績残したがこのシーズン本塁打王打点王タイロン・ウッズ獲得している(47本塁打144打点)。 シーズン終了後に再びメジャー移籍目指す思われたが終盤に膝を痛めオフシーズン内視鏡手術を受け、オフリハビリ費やした巨人の熱心な説得もあり、2007年から年俸6億円の4年契約結んだ2007年 この年から背番号25変更する前年手術した左膝のほかに左肩や左手親指にも炎症起こすなど故障多く2軍降格7番打者での出場経験するなど打率.274・本塁打30打点74前年より成績落とした巨人リーグ優勝貢献した7月には日本通100本塁打達成したことを記念して起亜自動車からニューオピラスが贈呈された。クライマックスシリーズ第2ステージでは、3試合で3安打放つも0打点だった。 2008年 手術明けであったにもかかわらず宮崎春季キャンプ2月半ば早々に切り上げ3月からの2008年北京オリンピックの野球競技・世界最終予選韓国代表として出場し打率.478・本塁打2・打点12という活躍韓国代表を2大会ぶりの本戦出場導いた。 しかし、その余波オープン戦には2試合し出場できず、調整の遅れが生じて開幕から14試合打率.135・本塁打0・打点2と大きく低迷し4月14日には早々に登録抹消された。北京オリンピック派遣直前7月25日一軍昇格したものの成績振るわず打率.141のまま北京オリンピック参加した北京オリンピック野球韓国代表として出場したが、シーズン不調を引きずった形で打率1割台となり、予選最終戦ではスタメン外されるほどの不振陥った。しかし、準決勝日本戦では勝ち越し2点本塁打決勝キューバ戦でも先制決勝本塁打放ち韓国野球初の金メダル獲得貢献したオリンピック終了後8月28日出場選手登録された。外国人枠アレックス・ラミレスマーク・クルーンセス・グライシンガーの4人でいっぱい状況で、エイドリアン・バーンサイド登板予定があった)の関係で9月4日にいったん二軍落ちしたものの、9月14日一軍昇格してからは復調し最終戦まで5番起用された。シーズン通じ45試合出場打率も2割5分を下回り本塁打来日後初めて1(8本)に終わった阪神との最大13ゲーム差逆転してリーグ連覇(メークレジェンド)に貢献しクライマックスシリーズでは16打数4安打・2本塁打・4打点活躍見せた。しかし、日本シリーズでは一転して18打数2安打12三振の大不振に陥り、チーム日本シリーズ敗退大きな要因となったシリーズ12三振ジャック・ハウエル1992年記録した16三振に次ぐ記録で、巨人選手としてはチーム新記録であったその後来日以来最低の成績終わった今季を「野球人生最悪1年だった」と振り返り翌年集中するとして第2回WBC韓国代表辞退することを表明した2009年 第2回WBC出場辞退体調整えオープン戦では打率.302・本塁打8本・17打点好調維持したが、開幕同時に絶不調となり、エドガルド・アルフォンゾとの併用で右投手登板時中心の起用となった本塁打は出るもチャンス結果残せず、一時打率.300超えるも、そこから無安打続いて打率大幅に落としたほか、一塁守備ミス目立ったため、一軍二軍往復する最後に腰痛発症して出場選手登録抹消されたままシーズン終えた77試合2年ぶり2(16)本塁打放ったものの打率.229と前年よりさらに下回る成績終わった。しかし、日本シリーズでは好調適時打本塁打放つなどして巨人優勝貢献し、更に日韓クラブチャンピオンシップでも活躍して巨人日韓クラブチャンピオンシップ制覇貢献した2010年 開幕一軍入り果たしたが、腰痛から復活した高橋由伸一塁手起用されるなどしたためスタメン起用少なく出場56試合打率.163・本塁打5本・打点11自己最低の成績終わった。これについて「渡邉恒雄巨額複数年契約見合う成績が残さなかったことを痛烈に批判した」という一部報道もあった。 11月16日巨人から戦力外通告受けたは「このままでは韓国帰れない日本のチーム現役続けたい」と公言し日本球界でのプレー希望した天地日報大韓仏教曹渓宗機関紙)とのインタビューで「私を捨てた読売後悔するだろう」とコメントしたこの年はじめにソウル市城東区聖水洞にある10階建てのビル293ウォン購入した

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読売ジャイアンツ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 18:21 UTC 版)

ガブリエル・ガルシア」の記事における「読売ジャイアンツ時代」の解説

前期終了後同年6月3日より読売ジャイアンツ巨人)3軍の練習合流し6月9日読売ジャイアンツ支配下登録での契約発表された。すでに巨人には同姓ホセ・ガルシアがいたため、登録名は「ガブリエルとなった巨人3軍キャンプ合流時のインタビューでは「制球力売り一日でも早く契約してもらえるよう頑張りたい」と語っている。ツイッターでは、「偉大なチーム入れてうれしい。」と述べている。しかし一軍登板はなく、シーズン終了後12月2日自由契約公示された。

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読売ジャイアンツ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:38 UTC 版)

ウォーレン・クロマティ」の記事における「読売ジャイアンツ時代」の解説

1983年シーズンオフ時にFAとなって同年12月29日読売ジャイアンツ移籍1984年35本塁打マークするなど、日本でもレギュラー一人としてチーム牽引した1986年には打率.363を記録したが、この年阪神ランディ・バース日本プロ野球記録である打率.389を記録したため、首位打者獲得できなかった。シーズン打率が.360以上を記録しながらも、首位打者になれなかったのは、現在までクロマティただ1人である。 1988年ヤクルトスワローズとの開幕戦巨人選手では東京ドーム第1号となるホームランを打つ。しばらくは不振原辰徳代わり4番任されるなど好調維持していたが、6月13日阪神タイガース戦で久保康生から指に死球受けて骨折してしまったことで、残りシーズン棒に振ったチーム最終戦10月4日横浜大洋ホエールズ戦には、尊敬する王貞治監督ラストゲーム見届ける為にベンチ入りしていたが、試合には出場しなかった。 1989年、4割を打って引退する宣言開幕から長打捨ててヒット量産しシーズン規定打席403打席当時130試合であったため規定打席数試合数×3.1403打席数であった)に到達した時点打率4割を超えていた。最終的な打率は.378まで下がり、4割打者誕生はならなかったが、首位打者獲得した96試合まで4割を維持したのは広瀬叔功89試合を抜くプロ野球最長記録であり、.378は巨人球団歴代最高打率である。首位打者加え、.449で最高出塁率の二冠タイトル獲得20勝を挙げたチームメート斎藤雅樹抑えてMVP受賞したチーム独走状態だったこともあり、監督休養提案したが、出場することを選んだ結果として終盤打率低下著しくなり4割打者誕生は幻となったシーズン打率.360以上を2回(1986年1989年記録している。これは他にイチロー1994年2000年)と落合博満1985年1986年)しか達成していない記録である。 1990年開幕から低調7月まで打率.252 5本塁打という成績ながらチーム史上最速ペース優勝を飾るなど首位独走しており、加えてクロマティファン人気が高いこともあってオールスターファン投票選出された。8月以降打率.390(136打数53安打)9本塁打復調兆し見えたシーズン終了後1991年1月16日退団発表された。直後に「さらばサムライ野球」を出版する中畑清王貞治監督のことを陰で「ワン公」と呼んでいたとか、篠塚和典は苦手投手先発予想される仮病で休むなど、暴露本様相呈していたため話題となった

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