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長嶋茂雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 02:44 UTC 版)

長嶋 茂雄(長島 茂雄[1]、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手内野手)、元プロ野球監督




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  1. ^ 1993年の2度目の監督就任以前までは、新聞やマスコミにおいては常用漢字ではない、異字体の「嶋」の字は使われず、「長島」姓の表記が使われていたこともあった。
  2. ^ 大映スターズオーナーの永田雅一が卒業後の獲得を目指して大学1年生の時に長嶋と実家で面会し「優勝するチームで野球がしたい」と言われたことがNHKテレビの『その時歴史が動いた』(2005年2月9日放送分)で紹介されている[1]
  3. ^ このほか、阪神タイガースのスカウトを務めていた青木一三が大学を中退させての獲得に向けて本人や家族と交渉したことを著書で明かしている(『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも…』ブックマン社、1989年、P176 - 178)。青木は「長嶋が2年生の時に起きた大沢らによる砂押の排斥運動の折、練習や規律の厳しさに音をあげた長嶋を中退させたうえで入団させようとしたが、阪神球団で藤村排斥事件が起こり、自らが阪神を退団したため獲得できなかった」と記している。
  4. ^ 周囲が付けたあだ名ではなく、本人が自称していたという話もある。
  5. ^ その後は金田を打つようになり、長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313・18本塁打である。
  6. ^ このケースでは、長嶋は二塁を踏んだ瞬間に一塁を踏み直すことが許されなくなり(公認野球規則7.10(b)(2))、投手がボールを保持してプレーがかかったのち、投手が最初の投球をする前に一塁手の藤井弘が送球を要求し、鵜狩投手から送球を受けて触塁しアピールし、一塁塁審の竹元勝雄がアウトを宣告した。この場合、投手に補殺、一塁手に刺殺が記録され、記録上投手ゴロと同じためこのように伝えられている。
  7. ^ 監督時代の1993年、皇太子のご成婚当日の試合も劇的なサヨナラ勝利で飾っている。
  8. ^ 雑誌Number 名勝負列伝
  9. ^ 雑誌Number 名勝負列伝
  10. ^ 庵原英夫『正しい技術 勝つ作戦のコツ 野球ルール』(有紀書房、1987年) p64-65
  11. ^ 長嶋のケースでは審判が四球の判定を下しているが、打席上で素手で構えるという行為は、厳密に言えば公認野球規則の「6・02 打者の義務」に抵触している(バットを持っていなければ投手の投球を打ち返すことは不可能であり、「打撃姿勢」を取っていないと見なされる可能性がある)。このため、素手で構えて以降の投球は全てストライクとなり、ストライクを3回宣告されるまでに打者が打撃姿勢を取らなかった時には、アウトを宣告される。
  12. ^ a b 文春ビジュアル文庫「熱闘!プロ野球三十番勝負」文藝春秋社
  13. ^ この試合の球審は松橋慶季であり、松橋は佐藤に予め「判っているだろうな。(=投球は直球のみ)」と言っていた(現役引退選手の最終打席は、一つの礼儀として直球勝負とされている)。佐藤も直球を投げるつもりでいたが緊張のあまり手が固くなり、難しい球になってしまった。
  14. ^ しばしば「永遠に不滅です」と誤って引用されることもある
  15. ^ 戦前に在籍したヴィクトル・スタルヒンはロシア系であるが日本の学校への在学歴がある。ここでは「学歴まで含めて外国で育った非日系の外国人選手」として初めてという意味である。
  16. ^ 当時、90番という背番号は日本のプロ野球の選手(支配下登録者)および監督・コーチの中では最も大きい数字であり、この番号を付けたのは長嶋が最初であった。このため、第1期監督時代には長嶋を指す言葉として「90番」がマスコミの見出しなどにしばしば用いられた。
  17. ^ この不買運動では読売で約30万部程度、報知で約5万部程度部数が減ったという。
  18. ^ 当時国内にいくつかあったトライアスロン競技団体の一つで、後に日本トライアスロン連合へ統合。「長嶋茂雄球場」の節も参照。
  19. ^ オリンピック本戦に向けてのチーム編成を進め、正式競技となってからまだ果たしていない優勝(金メダル獲得)への期待と責任を感じる中での発病だった。2007年、北京オリンピックの日本代表監督として本大会の出場権を得た星野仙一が長嶋を訪問した際、長嶋は「ほかの場合とは、勝ち負けの重みが違う。やはり日の丸の重みでしょう」と述べて代表監督の重圧を労った。出典:読売新聞(YOMIURI ONLINE)2007年12月5日付 「星野監督ら、長嶋アテネ五輪監督に五輪出場権獲得を報告」
  20. ^ 後に長嶋は阿川との対談で、「(意識は)なかった。もう(状態は)上中下の下で、一番悪かったですからね。その下は死ですから。」と語っている。阿川、2011
  21. ^ 長嶋は一茂の判断について「一番悪い状態の時でしたからね。」と理解を示しながら、誰が何と言ってもアテネへ行くつもりがダメになった事へのショックと孤独を語っている。阿川、2011
  22. ^ 長嶋の代理として後輩である中畑清ヘッドコーチが肩書きはそのままにチームの指揮を執ったものの、3位(銅メダル獲得)に終わった。
  23. ^ 同プロジェクトは2010年まで毎年1月に開催されていた。
  24. ^ この内容が2011年に単行本となっている。阿川、2011
  25. ^ 文春ビジュアル文庫「豪球列伝」足立の項
  26. ^ 文春ビジュアル文庫「ヒーロー列伝」権藤の項
  27. ^ 文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」
  28. ^ a b玉木正之 スポーツ・ジャーナリズムを語る 』(国士舘大学体育スポーツ科学学会 2003年)
  29. ^ 玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年、新潮文庫)では、東急フライヤーズ一言多十が映画『七人の侍』を「七人のマチ」と言ったエピソードから、多くのコラムニストが他のプロ野球選手にこれを付会させたエピソードを「創作」し、その「被害」が最も多いのは長嶋であろうと記されている(P470)。同書には1979年のあるエッセイで、長嶋が同じ黒澤明監督の映画『野良犬』を「ノヨシケン」と呼んだと書かれている例が紹介されている(P441)。
  30. ^ 著書『長島茂雄のトランジットタイム』(1984年、電通)による。
  31. ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)
  32. ^ 引用中、( )内は記者による描写。当時は前年の安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「昨年の安保のときから(引用者注:政治面に)興味もつようになったんです」と発言している)政権交代をうかがわせる雰囲気があった。


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