日英米蘭の開戦までの国策
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「太平洋戦争」の記事における「日英米蘭の開戦までの国策」の解説
アメリカの太平洋戦略 アメリカはアメリカ・メキシコ戦争に勝利してカリフォルニア州を獲得して太平洋に面する広大な領土を手に入れ、ロシアからはアラスカを購入した。太平洋ではハワイ王国併合に続き、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)勝利によりフィリピン、グアムなどを手に入れると、アメリカ・フィリピン戦争を経てフィリピンを植民地化することにより太平洋への覇権を確立した。 日本は戦勝国となった第一次世界大戦後、国際連盟からドイツ帝国領であったパラオやサイパンなどの太平洋の島々の委任統治を委ねられるようになり(南洋諸島)、アメリカの勢力圏と接するようになった。アメリカの呼びかけで行われたシベリア出兵では、日本はアメリカ軍の撤兵後も駐留を継続するなどアメリカの利害とずれが生じるようになっていた。とはいえ、1920年代は日米ともに東アジア・太平洋地域における平和的な国際体制であるワシントン体制下で協調外交を行っていた。1921年に結ばれた四ヵ国条約では太平洋における日英米仏の利益を相互に認め、現状維持を確認し、この条約の中に日英同盟は発展的解消を遂げた。1922年にはワシントン海軍軍縮条約が結ばれ、列強間の建艦競争に歯止めをかけた。 日露戦争後、アメリカは対日戦略を明確化し、1906年に対日戦争計画「オレンジ計画」を作成、1938年には「新オレンジ作戦」を策定した。新オレンジ作戦では、開戦した場合日本はまずフィリピン攻撃を行うと予想、これに対しアメリカ海軍主力艦隊は太平洋を西進し、同時に対日海上封鎖を実施、日本経済を枯渇させ太平洋制海権を掌握した上で日本海軍と艦隊決戦するという戦略が構想された。また1941年3月のレインボー5号作戦では欧州戦線の優先、太平洋戦線防御、日本の経済的弱体化、太平洋海域の海上交通線の封鎖・破壊、日本の南洋諸島占領が主軸となった。 満洲事変、華北分離工作、日中戦争 1931年(昭和6年)に満州事変が起こり、関東軍の後押しによる満洲国が成立すると国際社会の中で日本は大きく非難されることとなる。その後も関東軍は、華北を中華民国から引き離すため傀儡自治政権を作る華北分離工作を行った。中華民国は日本軍に対する対抗する軍事力を蓄えていく。1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争において、大日本帝国政府と軍部は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。しかし、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、五・一五事件、二・二六事件以後から行われるようになった軍部による政治干渉により軍部の統御は難しくなっていた。加えて中国大陸で、大紅門事件、盧溝橋事件とそれに呼応して起きた郎坊事件、広安門事件、通州事件、第二次上海事変など在留日本人が中国軍や中国人に虐殺される事件が頻発すると、日本世論は中国を徹底的に叩くべきという方向に傾く(暴支膺懲)。この結果、政府は軍事行動を主張する陸軍・海軍を抑えきることがさらに難しくなり、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突に発展する。日本軍は北京や上海など主要都市を占領、続いて中華民国の首都南京を陥落させた(南京戦)。1937年8月26日に、日本海軍によるものとされる英国大使襲撃事件であるヒューゲッセン遭難事件が起きると、英国新聞は日本に対する怒りを顕わにした。1937年10月、国際連盟は日本を九国条約及び不戦条約の侵犯であると決議した。同年11月3日にはブリュッセルで九国条約会議が開かれ、英国は自身が首唱し指導した国際議定によって、それまでソ連により行われていた第二次国共合作中の蔣介石への支援に参加した。1937年12月には、パナイ号事件とレディバード号事件も起きた。 詳細は「トラウトマン和平工作」を参照 1937年11月から翌1938年1月にかけて、中独合作により中華民国と友好関係にあったナチス・ドイツを仲介者とするトラウトマン和平工作が日中間によって行われたが、12月の南京陥落によって日本側では対中強硬論が政府(内閣総理大臣近衛文麿、外務大臣広田弘毅)と海軍(海軍大臣米内光政)にて台頭。一方、陸軍では陸軍省(陸軍大臣杉山元)こそ政府・海軍と同じく強硬派であったが、多田駿陸軍中将を筆頭とする参謀本部は日中和平交渉の継続を終始強く主張。参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれるなどしたが、政府・海軍および陸軍省の圧力を受け、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定。翌日16日に近衛内閣は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」との声明を発し(第一次近衛声明)、トラウトマン和平工作は頓挫した。 蔣介石総統率いる中国の国民政府は、首都を西部奥地の重慶に移して抗戦を続けた。中華民国軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助を受け(援蔣ルート)、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じて成立した国共合作に基づき、中国共産党軍も北西部奥地の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛け、日中戦争は長期戦に陥っていた。 こうして国共合作および国民政府の抗戦の続行により軍事的解決に失敗し、傀儡政権樹立(汪兆銘政権)による政治的解決にも失敗。日中戦争は収拾のめどがつかなくなり、日本は援蔣ルートの遮断を企図する。
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