日英米蘭の開戦までの国策とは? わかりやすく解説

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日英米蘭の開戦までの国策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)

太平洋戦争」の記事における「日英米蘭の開戦までの国策」の解説

アメリカ太平洋戦略 アメリカアメリカ・メキシコ戦争勝利してカリフォルニア州獲得して太平洋面する広大な領土手に入れロシアからはアラスカ購入した太平洋でハワイ王国併合続き米西戦争アメリカ・スペイン戦争勝利によりフィリピングアムなどを手に入れると、アメリカ・フィリピン戦争経てフィリピン植民地化することにより太平洋へ覇権確立した日本戦勝国となった第一次世界大戦後国際連盟からドイツ帝国であったパラオサイパンなどの太平洋島々委任統治委ねられるようになり(南洋諸島)、アメリカ勢力圏接すようになったアメリカ呼びかけ行われたシベリア出兵では、日本アメリカ軍撤兵後も駐留継続するなどアメリカ利害とずれが生じるようになっていた。とはいえ1920年代日米ともに東アジア太平洋地域における平和的な国際体制であるワシントン体制下で協調外交行っていた。1921年結ばれた四ヵ国条約では太平洋における日英米仏の利益相互に認め現状維持確認し、この条約中に日英同盟発展的解消遂げた1922年にはワシントン海軍軍縮条約結ばれ列強間の建艦競争歯止めをかけた。 日露戦争後アメリカ対日戦略を明確化し、1906年対日戦計画オレンジ計画」を作成1938年には「新オレンジ作戦」を策定した。新オレンジ作戦では、開戦した場合日本はまずフィリピン攻撃を行うと予想、これに対しアメリカ海軍主力艦隊は太平洋西進し同時に対日海上封鎖実施日本経済枯渇させ太平洋制海権掌握した上で日本海軍艦隊決戦するという戦略構想された。また1941年3月レインボー5号作戦では欧州戦線優先太平洋戦線防御日本の経済弱体化太平洋海域海上交通線封鎖破壊日本の南諸島占領主軸となった満洲事変華北分離工作日中戦争 1931年昭和6年)に満州事変起こり関東軍後押しによる満洲国成立する国際社会の中で日本大きく非難されることとなる。その後関東軍は、華北中華民国から引き離すため傀儡自治政権作る華北分離工作行った中華民国日本軍対す対抗する軍事力蓄えていく。1937年昭和12年)に勃発した日中戦争において大日本帝国政府軍部当初現地解決不拡大方針によって事態の収拾試みた。しかし、大日本帝国憲法規定である統帥権独立問題や、五・一五事件二・二六事件以後ら行われるようになった軍部による政治干渉により軍部統御難しくなっていた。加えて中国大陸で、大紅門事件盧溝橋事件とそれに呼応して起きた郎坊事件広安門事件通州事件第二次上海事変など在留日本人中国軍中国人虐殺され事件頻発すると、日本世論中国徹底的に叩くべきという方向に傾く(暴支膺懲)。この結果政府軍事行動主張する陸軍・海軍抑えきることがさらに難しくなり、情勢日中両軍による大規模な全面衝突発展する日本軍北京上海など主要都市占領続いて中華民国の首都南京陥落させた(南京戦)。1937年8月26日に、日本海軍よるものとされる英国大使襲撃事件であるヒューゲッセン遭難事件起きると、英国新聞日本対す怒り顕わにした。1937年10月国際連盟日本九国条約及び不戦条約侵犯であると決議した同年11月3日にはブリュッセル九国条約会議開かれ英国自身首唱指導した国際議定によって、それまでソ連により行われていた第二次国共合作中の蔣介石への支援参加した1937年12月には、パナイ号事件レディバード号事件起きた詳細は「トラウトマン和平工作」を参照 1937年11月から翌1938年1月にかけて、中独合作により中華民国友好関係にあったナチス・ドイツ仲介者とするトラウトマン和平工作日中間によって行われたが、12月南京陥落によって日本側では対中強硬論政府内閣総理大臣近衛文麿外務大臣広田弘毅)と海軍海軍大臣米内光政)にて台頭一方陸軍では陸軍省陸軍大臣杉山元)こそ政府海軍同じく強硬派であったが、多田駿陸軍中将筆頭とする参謀本部日中和平交渉継続終始強く主張参謀本部要請によって日露戦争以来御前会議開かれるどしたが政府海軍および陸軍省圧力を受け、1月15日政府最終的に交渉打ち切り決定翌日16日近衛内閣は「帝国政府爾後国民政府を対手とせず真に提携する足り新興支那政権期待し、これと国交調整して更生支那建設協力せんとす」との声明発し第一次近衛声明)、トラウトマン和平工作頓挫した蔣介石総統率い中国国民政府は、首都西部奥地重慶移して抗戦続けた中華民国軍アメリカイギリスソ連から軍需物資人的援助を受け(援蔣ルート)、地の利活かし各地抵抗徐州会戦武漢会戦発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法ゲリラ戦術清野戦術などの戦術用い日本軍攪乱した。一方西安事件通じて成立した国共合作に基づき中国共産党軍北西部奥地延安拠点朱徳率い八路軍新四軍日本軍ゲリラ戦仕掛け日中戦争長期戦に陥っていた。 こうして国共合作および国民政府抗戦続行により軍事的解決失敗し傀儡政権樹立汪兆銘政権)による政治的解決にも失敗日中戦争収拾のめどがつかなくなり日本援蔣ルート遮断企図する

※この「日英米蘭の開戦までの国策」の解説は、「太平洋戦争」の解説の一部です。
「日英米蘭の開戦までの国策」を含む「太平洋戦争」の記事については、「太平洋戦争」の概要を参照ください。

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