戦中から戦後にかけてとは? わかりやすく解説

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戦中から戦後にかけて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/27 01:03 UTC 版)

東武デハ2形電車」の記事における「戦中から戦後にかけて」の解説

第二次世界大戦中空襲などによって、東武保有する車両各形式にも被災車両少なからず発生したが、本系においては1945年昭和19年)にデハ101形101104戦災車体焼損した。同2両は1947年昭和22年)に汽車製造において焼損車体そのまま修繕する形、いわゆる叩き直し」と称する修繕方法によって復旧工事施工された。復旧に際して電装解除実施されたほか、片運転台化、前面窓3枚化、乗務員扉の新設とそれに伴う客用扉の移設等が施工され出場後の窓配置dD1 3 2D2 3 2D1(d:乗務員扉, D:客用扉)と変化し原形とは大幅に異な外観変化したまた、前述通り現車出場当時から制御車であったものの、車体表記ならびに書類上の扱いとも電動車デハ)のまま運用復帰した戦後間もなく激増した輸送需要対応するため、東武においては国鉄63系割り当てを受けることを決定したが、同系導入見返りとして保有車両地方私鉄への供出運輸省より指示されたことに伴い本系列からはデハ27・910の3両が供出対象となった。同3両は1947年昭和22年)から1948年昭和23年)にかけてデハ7・9が新潟交通へ、デハ10上毛電気鉄道それぞれ譲渡された。 譲渡に伴う改番対照旧番 譲渡後 デハ7 新潟交通モハ17 デハ9 新潟交通モハ18 デハ10 上毛電気鉄道デハ81

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戦中から戦後にかけて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 09:37 UTC 版)

広島電気軌道100形電車」の記事における「戦中から戦後にかけて」の解説

1945年8月6日広島市への原子爆弾投下によって、100形電鉄前(現・広電本社前付近走行していた108電車宮島駅(現・広電宮島口駅)に停泊していた106130被災免れたが、その他は全車とも何らかの被害受けたまた、450形453・457・458461の4両が大破し、その他7両も何らかの形で被災した450形被害軽微であった455・456が1945年昭和20年10月復旧しその他の9両も1948年昭和23年8月までに順次復旧された。 100形のうち、15両は100形として復旧されたが、105108の2両は復旧に際して450形462463改造され1949年昭和24年6月竣功した。462463戦前製の451 - 461とほぼ同一車体備えるが、客用扉が451 - 461の折扉から一枚引扉に改められた点が異なる。また、一旦100形として復旧され119120についても1950年昭和25年8月450形へ再改造され462463同一車体新製して464465改番編入された。 残る100形22両は復旧対象から外れ1951年昭和26年1月19日付で一斉に除籍処分された。なお、前述した被災免れた106同日付で除籍された。 以上の変遷経て100形101102107121・126129 - 131133 - 135138139の計13両が残存したが、状態の悪かった121133・135の3両が1951年昭和26年7月25日付で廃車となり、同年12月20日付で129134131126138139130103 - 106108 - 110(いずれも4代)と改番し、車番101 - 110再編したその後800形電車初代)など大型ボギー車導入伴って1953年昭和28年)までに全車とも運用離脱工作車事業用車)へ改造され101107・108の3両を除いて廃車となり、その後工作車転用された3両についても解体処分された。 450形4輪単車としては比較晩年まで運用されたものの、1965年昭和40年12月458459が、1969年昭和44年10月に残る全車廃車となり、形式消滅した100形450形とも除籍後全車とも解体処分され現存する車両はない。

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戦中から戦後にかけて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/18 05:10 UTC 版)

武蔵野鉄道デハ5560形電車」の記事における「戦中から戦後にかけて」の解説

前述のように、本形式はデハ・サハ末尾番号同士事実上固定編成とされ、他形式区別されることなく運用された。 その後戦中混雑激化に伴い扉間のクロスシート撤去されたが、同スペースには新たな座席設置されなかったため、あたかも荷物電車のような空間化した。オールクロスシート仕様であったサハ5660形については、扉間のクロスシート撤去同時に端部クロスシートロングシート改装している。加えて、本形式特徴である大型窓ガラス物資不足の影響からサッシ中央2分割され、印象変化生じた終戦後武蔵野鉄道は(旧)西武鉄道ならびに食糧増産株式会社吸収合併し、1945年昭和20年9月現・西鉄道成立したが、その後保有する全車に対して改番実施することとなり、本形式1948年昭和23年6月施行され一斉改番によってモハ241241242およびクハ1241形1241・1242車番はいずれ初代)改称改番された。 なお、同時期には扉間の座席復旧されているが、クロスシート復活することはなく、全車ともオールロングシート仕様となった。その他、客用扉の自動扉化・クハ台車換装およびパンタグラフ撤去・側窓ガラス1枚仕様復元客用下部ステップ撤去ならびに拡幅ステップ取り付け等の改造順次施工されている。

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戦中から戦後にかけて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 03:47 UTC 版)

フィリップ・スーポー」の記事における「戦中から戦後にかけて」の解説

スーポーは同地でラジオ・アルジェ局長務め、さらに自由フランス政府からの要請により、通信社創設参加した1944年8月20日フランス通信社として再編成)。1944年にはアルジェ英仏2か国語による詩『爆撃されロンドン捧げるオード』を発表同じくアルジェ出版活動行っていたエドモン・シャルロ(フランス語版)によって刊行された。その後終戦までの間、スーポーは多く文学者芸術家らが亡命していた南米次いで米国訪れペンシルベニアでミュリエル・リードに出会った1945年10月に彼女を連れて帰国以後1965年リード自殺するまでパリ5区同棲しリードジャーナリストとして月刊総合雑誌レアリテフランス語版)』などに寄稿した一方、スーポーは国営ラジオ局外国向け番組次いで文化番組担当した1977年まで)。また、国営ラジオ局フランス通信社のほか、ユネスコ活動にも参加し取材のために世界各国訪れた晩年には児童文学作品執筆編纂、および全3巻自伝忘却回想録』の執筆専念した。この第1巻は、 ルイ十四世時代回想録書いたサン・シモン公爵(ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモンフランス語版))に因んで1975年創設されサン=シモン賞(フランス語版)を受賞した1990年3月12日パリ16区自宅死去享年92歳。モンマルトル墓地埋葬された。

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