戦中から戦後にかけて
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「東武デハ2形電車」の記事における「戦中から戦後にかけて」の解説
第二次世界大戦中の空襲などによって、東武が保有する車両各形式にも被災車両が少なからず発生したが、本系列においては1945年(昭和19年)にデハ101形101・104が戦災で車体を焼損した。同2両は1947年(昭和22年)に汽車製造において焼損車体をそのまま修繕する形、いわゆる「叩き直し」と称する修繕方法によって復旧工事が施工された。復旧に際しては電装解除が実施されたほか、片運転台化、前面窓の3枚化、乗務員扉の新設とそれに伴う客用扉の移設等が施工され、出場後の窓配置はdD1 3 2D2 3 2D1(d:乗務員扉, D:客用扉)と変化し、原形とは大幅に異なる外観に変化した。また、前述の通り現車は出場当時から制御車であったものの、車体表記ならびに書類上の扱いとも電動車(デハ)のまま運用に復帰した。 戦後間もなく、激増した輸送需要に対応するため、東武においては国鉄63系の割り当てを受けることを決定したが、同系列導入の見返りとして保有車両の地方私鉄への供出を運輸省より指示されたことに伴い、本系列からはデハ2形7・9・10の3両が供出対象となった。同3両は1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)にかけてデハ7・9が新潟交通へ、デハ10が上毛電気鉄道へそれぞれ譲渡された。 譲渡に伴う改番対照旧番 譲渡後 デハ7 新潟交通モハ17 デハ9 新潟交通モハ18 デハ10 上毛電気鉄道デハ81
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戦中から戦後にかけて
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「広島電気軌道100形電車」の記事における「戦中から戦後にかけて」の解説
1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下によって、100形は電鉄前(現・広電本社前)付近を走行していた108、電車宮島駅(現・広電宮島口駅)に停泊していた106・130は被災を免れたが、その他は全車とも何らかの被害を受けた。また、450形は453・457・458・461の4両が大破し、その他7両も何らかの形で被災した。 450形は被害が軽微であった455・456が1945年(昭和20年)10月に復旧し、その他の9両も1948年(昭和23年)8月までに順次復旧された。 100形のうち、15両は100形として復旧されたが、105・108の2両は復旧に際して450形462・463へ改造され、1949年(昭和24年)6月に竣功した。462・463は戦前製の451 - 461とほぼ同一の車体を備えるが、客用扉が451 - 461の折扉から一枚引扉に改められた点が異なる。また、一旦100形として復旧された119・120についても1950年(昭和25年)8月に450形へ再改造され、462・463と同一の車体を新製して464・465と改番・編入された。 残る100形22両は復旧対象から外れ、1951年(昭和26年)1月19日付で一斉に除籍処分された。なお、前述した被災を免れた106も同日付で除籍された。 以上の変遷を経て、100形は101・102・107・121・126・129 - 131・133 - 135・138・139の計13両が残存したが、状態の悪かった121・133・135の3両が1951年(昭和26年)7月25日付で廃車となり、同年12月20日付で129・134・131・126・138・139・130を103 - 106・108 - 110(いずれも4代)と改番し、車番を101 - 110へ再編した。その後、800形電車(初代)など大型ボギー車の導入に伴って、1953年(昭和28年)までに全車とも運用を離脱、工作車(事業用車)へ改造された101・107・108の3両を除いて廃車となり、その後工作車へ転用された3両についても解体処分された。 450形は4輪単車としては比較的晩年まで運用されたものの、1965年(昭和40年)12月に458・459が、1969年(昭和44年)10月に残る全車が廃車となり、形式消滅した。 100形・450形とも除籍後は全車とも解体処分され、現存する車両はない。
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戦中から戦後にかけて
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「武蔵野鉄道デハ5560形電車」の記事における「戦中から戦後にかけて」の解説
前述のように、本形式はデハ・サハ末尾同番号同士で事実上固定編成とされ、他形式と区別されることなく運用された。 その後、戦中の混雑激化に伴い扉間のクロスシートが撤去されたが、同スペースには新たな座席は設置されなかったため、あたかも荷物電車のような空間と化した。オールクロスシート仕様であったサハ5660形については、扉間のクロスシート撤去と同時に車端部のクロスシートをロングシートに改装している。加えて、本形式の特徴である大型側窓ガラスも物資不足の影響からサッシが中央で2分割され、印象に変化が生じた。 終戦後、武蔵野鉄道は(旧)西武鉄道ならびに食糧増産株式会社を吸収合併し、1945年(昭和20年)9月に現・西武鉄道が成立したが、その後保有する全車両に対して改番を実施することとなり、本形式も1948年(昭和23年)6月に施行された一斉改番によってモハ241形241・242およびクハ1241形1241・1242(車番はいずれも初代)と改称・改番された。 なお、同時期には扉間の座席が復旧されているが、クロスシートが復活することはなく、全車ともオールロングシート仕様となった。その他、客用扉の自動扉化・クハの台車換装およびパンタグラフ撤去・側窓ガラスを1枚仕様に復元・客用扉下部のステップ撤去ならびに拡幅ステップ取り付け等の改造が順次施工されている。
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戦中から戦後にかけて
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「フィリップ・スーポー」の記事における「戦中から戦後にかけて」の解説
スーポーは同地でラジオ・アルジェ局長を務め、さらに自由フランス政府からの要請により、通信社の創設に参加した(1944年8月20日にフランス通信社として再編成)。1944年にはアルジェで英仏2か国語による詩『爆撃されたロンドンに捧げるオード』を発表。同じくアルジェで出版活動を行っていたエドモン・シャルロ(フランス語版)によって刊行された。その後終戦までの間、スーポーは多くの文学者・芸術家らが亡命していた南米、次いで米国を訪れ、ペンシルベニアでミュリエル・リードに出会った。1945年10月に彼女を連れて帰国。以後、1965年にリードが自殺するまでパリ5区で同棲し、リードはジャーナリストとして月刊総合雑誌『レアリテ(フランス語版)』などに寄稿した。一方、スーポーは国営ラジオ局の外国向け番組、次いで文化番組を担当した(1977年まで)。また、国営ラジオ局やフランス通信社のほか、ユネスコの活動にも参加し、取材のために世界各国を訪れた。晩年には児童文学作品の執筆と編纂、および全3巻の自伝『忘却の回想録』の執筆に専念した。この第1巻は、 ルイ十四世の時代の回想録を書いたサン・シモン公爵(ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモン(フランス語版))に因んで1975年に創設されたサン=シモン賞(フランス語版)を受賞した。 1990年3月12日、パリ16区の自宅で死去、享年92歳。モンマルトル墓地に埋葬された。
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