武蔵野鉄道
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武蔵野鉄道は、1911年(明治44年)10月18日に鉄道免許を取得し、1912年(明治45年)5月7日に設立、当初は巣鴨駅を起点とする計画であったが、東京府が池袋駅を起点にするよう指示したため、1913年(大正2年)4月に計画を変更。1915年(大正4年)4月15日に現在の池袋線の一部である池袋駅 - 飯能駅間を開業した。1922年(大正11年)に池袋駅 - 所沢駅間、1925年(大正14年)に飯能駅までの全線を電化し、1929年(昭和4年)9月10日に吾野駅まで開業させた。なお西武豊島線は1927年(昭和2年)に、狭山線は1929年(昭和4年)に開業している。 一方、1924年(大正13年)に箱根土地(後のコクド。現在のプリンスホテル)が武蔵野鉄道沿線の東京府北豊島郡大泉村に大泉学園都市の分譲を開始。武蔵野鉄道に東大泉駅(現在の大泉学園駅)を建設した上で寄贈する。翌1925年には武蔵野鉄道の株式を取得した。また、箱根土地は1928年(昭和3年)、村山貯水池(多摩湖)および小平地区一帯を開発すべく、多摩湖鉄道を設立。4月6日に国分寺駅 - 萩山駅間を開業し、1936年(昭和11年)12月30日に村山貯水池まで開業させ、全通した。 1932年(昭和7年)に箱根土地社長の堤康次郎が経営危機に陥っていた武蔵野鉄道の株式を買い集め、再建に乗り出す。1934年(昭和9年)8月28日、武蔵野鉄道は鉄道抵当法に基づく強制執行が実施され、運賃収入が強制管理人に差し押さえられる(1937年〈昭和12年〉まで)。 1935年(昭和10年)1月21日からは、9か月分の電力料金17万円滞納を理由に東京電燈から制限送電を受け、最大5600kwを必要とするところを4000kwしか受電できなくなった。通勤時の輸送能力が激減して混乱を招いたため、東京電燈側は沿線住民に対して制限送電を行う経緯を記した文書を配布し理解を求めた。経営は一層苦境に立たされるが、1936年(昭和11年)に武蔵野鉄道と債権者の間で和議が成立する。1938年(昭和13年)、大口債権者である東武鉄道の初代社長初代根津嘉一郎らがようやく債務免除に応じ、経営再建に道筋をつけた。 1940年(昭和15年)3月12日、武蔵野鉄道は同系の多摩湖鉄道を吸収合併する。10月、堤は根津および浅野財閥(元々の親会社)から株式を取得して過半数を確保し、社長に就任した(長年、西武鉄道株式のうち約45%を箱根土地の後身会社であるコクドが保有していて、他に西武建設の保有分を合わせると関連会社による持分が過半数を占めていたのはこの一件に由来する)。
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