バルカン戦線
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本稿は、第二次世界大戦の全期間に渡るバルカン半島の状況を概観することを目的とする。
- 1 バルカン戦線とは
- 2 バルカン戦線の概要
- 3 総論
- 4 その他キーワード
バルカン戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)
詳細は「ギリシャの戦い」、「イタリア・ギリシャ戦争」、および「ユーゴスラビア侵攻」を参照 北アフリカ・東アフリカ戦線での物資・装備不足の中で、ファシスト政権は更なる戦線拡大という無謀な行動を起こした。これはバルカン半島の油田地帯を狙ったドイツがルーマニアなどを属国化する中、アドリア海沿岸部の編入というイタリア王国の地政学的な野心の実現に意欲(アルバニア併合など)を見せていたムッソリーニが危機感を抱いた為だと見られている。ユーゴスラビアは既に親枢軸側にあった事から、アドリア海の入り口を押さえる親英国のギリシャ王国への宣戦が布告された。 アフリカでの軍事行動が当初からドイツの賛同を得ていたのに比べ、バルカン戦線は外交による支配を予定していたドイツから強く反対されている。軍部からの猛反対もあり、ムッソリーニも直前まで宣戦布告の日時を決めかねていたが、ローマ進軍の記念日(10月28日)に攻撃が開始された。装備や物資の欠乏はアフリカ戦線と何ら変わりなく、常備兵の補いに臨時動員兵を本格的に使用し始めたのもこの戦いからである。遠征軍は王国軍に属国であるアルバニア王国の軍勢も加えられて始められた。 アルバニアから出撃した遠征軍は20km近く進出したが、冬季であった事に加えて山岳地帯に用意されたエピロス要塞線に阻まれ、戦いは程なく停滞した。冬の山岳戦は徒に自軍戦力を削り、同盟軍として駆り出されたアルバニア軍の士気低下による逃亡も追い討ちをかけた。外交工作も不調に終わり、ブルガリア軍がギリシャ攻撃に加わらなかった事でエピロス山脈への戦力集中を許してしまい、11月中旬には兵員数で上回られている(ギリシャ王国軍:25万名、イタリア王国軍15万名)。ギリシャ軍は反撃に転じ、王国軍とアルバニア軍はアルバニア南部に後退を強いられる事となった。ムッソリーニは懲罰人事を乱発した上で兵士の増員などを試みたが、アルバニア南部に防衛線を形成するのが精々という状態であった。英軍の支援を受けたギリシャ軍もそれ以上は進めなかったが、アフリカへの増援を効率よく阻止したという点で連合軍に貢献していた。 続いてユーゴスラビアで枢軸政権が倒されて連合国政権が樹立される事態が起きるが、これを切っ掛けに静観していたドイツ軍の南下が始まった。王国軍もヴェネツィアからユーゴスラビアに別働軍を送り、ユーゴスラビア軍の兵士数万名を捕虜にしてダルマチアを占領した。ユーゴスラビア分割後、そのままドイツはアルバニアの隣国ブルガリアからギリシャ戦線に参戦し、側面を突いて連合軍を総崩れに追い込んだ。ギリシャに関しても沿岸部はイタリア王国に割譲されたが、ユーゴスラビアに比べて然したる功績も無い中での大規模割譲は明らかにドイツの温情によるものであった。以降、イタリア王国は枢軸国内で対等であった盟主ドイツに対し、他の枢軸国と同じ事実上の衛星国として従えられる状態となった。
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バルカン戦線 (第二次世界大戦)
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「イタリア陸軍」の記事における「バルカン戦線 (第二次世界大戦)」の解説
1940年10月、英軍は、イタリアの属国であるアルバニアへの侵攻を企図していたが、イタリアはその機先を制する形で逆にアルバニアからギリシャへの侵攻を開始(ギリシャ・イタリア戦争)、属国アルバニアの軍と共にエピロスのピンドス山脈北部を占領下に置いた。この地域は大アルバニア主義と結びつく地域でもあり、アルバニア兵の奮戦も期待されていた。だが過度にギリシャ軍の戦力と冬のピンドス山脈の寒さを侮った事から進軍は捗らず、ギリシャ軍の反撃やアルバニア兵の脱走・ゲリラ兵化により占領地域を放棄してアルバニア南部へ後退する屈辱を味わわされた。戦局は泥沼化し、英軍が支援軍を送ると形勢不利が決定的となった。 しかしユーゴスラビアの反独クーデターを契機にしてドイツ軍がバルカン全土の掌握を計画すると情勢が変化する。イタリア陸軍はドイツ軍の要請に応じて、イタリア本土から数個師団を進軍させた。今度の戦いではイタリア陸軍は必要な戦果を得る事ができ、ユーゴスラビア軍の守備隊を撃破して数万名を捕虜とした。この功績からドイツ軍との戦後分割交渉で占領地の「未回収」領のモンテネグロを割譲されモンテネグロ王国を樹立、またクロアチア独立国にイタリア王族を国王トミスラヴ2世として立てて影響下に置いた。ドイツ軍はバルカン半島掌握に向けてギリシャ戦線への介入も決断、この助力によってどうにかギリシャ占領も果たされ、地中海沿岸部の大部分を獲得した。 この戦いはしばしばドイツ軍の対ソ戦争計画を遅らせ、敗北の遠因となったと複数の戦史家によって主張される。しかしこの仮説については疑いの余地が持たれる推論であり、当事者の一人である所のイギリス政府でも激しい議論が行われた。1952年、イギリス政府は「バルカン戦線とバルバロッサ作戦の延滞に関連は見られない」と結論している。また当時の英国内ではむしろギリシャ救援を失策と見る向きすらあった。対ソ戦をドイツを除く枢軸・連合国全てが予想しない中、東地中海沿岸を失う事はイギリス中東軍に多大な危機感を与えたのである。
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バルカン戦線
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詳細は「イタリア・ギリシャ戦争」を参照 1940年後半、イタリア空軍はギリシャ・イタリア戦争に参加、圧倒的な戦力差もありギリシャ空軍77機中52機を撃墜したが、伊軍側も64機(ギリシャ空軍側は更に24機の追加撃墜を主張している)の航空機を喪失した。陸軍による苦戦はアルバニア国境への戦線後退を余儀無くした。1941年前半、ドイツ軍がユーゴスラビア侵攻を経て対ギリシャ戦に参戦(ギリシャの戦い)すると陸戦の状況は好転したが、空軍の役割はドイツ空軍の支援任務へと縮小された。ユーゴズラビア・ギリシャの治安維持の多くをイタリアが担当するようになると(ユーゴスラビア進駐)、空軍もこれに従事した。
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バルカン戦線
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「ヘルベルト・イーレフェルト」の記事における「バルカン戦線」の解説
4月6日、マリタ作戦が発動。I.(J)/LG 2 はユーゴスラビア侵攻に参加した。部隊はブルガリアのラドミルを拠点にし、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将の指揮する第8航空軍団に従属していた。この作戦での I.(J)/LG 2 の主な戦略目標は、スコピエ地区のユーゴスラビア王国空軍の飛行場であった 。I.(J)/LG 2 はII.(S)/LG 2と共に、5回の戦闘任務を遂行した。これらの任務のうちの最初の任務で、ヴァルダル渓谷の鉄道とニシュ近郊の飛行場を対地射撃している間に、イーレフェルトは高射砲によりBf 109 E-7 (Werknummer 2057-製造番号)が撃墜され、ユーゴスラビア兵に捕らえられた。ニシュの飛行場は閑散としており、イーレフェルトは小銃で撃たれ、頭部に軽傷を負った。拘留中、銃殺隊にひどく殴られ死刑の脅迫を受けた。4月14日、8日間の拘束の後、第5装甲師団 のドイツ軍によって救出され、療養のためドイツに戻った。 4月17日、休戦協定が締結されユーゴスラビア侵攻は終了した。同日、I.(J)/LG 2はギリシャのプトレマイダに移転し、3日後、ラリサに移転した。4月21日、I.(J)/LG 2はピレウスとアテネの港に対する任務を遂行した。4月27日、I.(J)/LG 2はエレウシスに移った。4月30日、ギリシャの戦いは終了し、I.(J)/LG 2は5月2日まで休息の期間を与えられた。5月13日、I.(J)/LG 2はクレタ島の戦い(1941年5月20日~6月1日)のため、クレタ島上空の偵察任務に出撃した。クレタ島に対する任務はモラオイの飛行場から出撃した。翌日、I.(J)/LG 2はさまざまな目標に対して最初の地上攻撃任務を遂行した。5月22日、I.(J)/LG 2は軽巡洋艦フィジーを爆撃し、撃沈に成功した。5月26日、クレタ島マレメ上空でハリケーンを撃墜した。5月31日、I.(J)/LG 2のクレタ島での任務は終わった。この日までに、I.(J)/LG 2はこの戦いで6機を撃墜した。I.(J)/LG 2はバルバロッサ作戦のために、ベオグラードに移転した。 6月18日、I.(J)/LG 2はブカレストに移り、南方軍集団を支援する第77戦闘航空団(JG 77)の指揮下に入った。6月21日、I.(J)/LG 2はロマンに移った。その晩、パイロットと地上勤務員は、ソ連侵攻について説明され、東部戦線が開かれた。6月22日3時20分、JG 77とI.(J)/LG 2のBf 109 70機がソ連の飛行場を攻撃し、第27爆撃航空団第III飛行隊(III./KG 27)の戦闘機を護衛した。6月23日、SB-2 2機を撃墜し、東部戦線で初戦果を記録した。同日、JG 77とI.(J)/LG 2は、7回の戦闘任務を行った。最初の任務で、Bf 109 34機はドイツ陸軍を支援するために、KG 27の2個飛行隊の戦闘機を護衛した。5時50分に、イーレフェルトは37機目を撃墜した。19時10分に始まった7回目の任務では、チェルニウツィーで爆撃機を撃墜した。6月26日、イリューシン DB-3 2機撃墜により40機撃墜を達成した。この戦功により6月27日にドイツ全軍で16人目となる柏葉付騎士鉄十字章を受章した、国防軍軍報での自身に関する6回の言及の内の最初となる言及を受けた。 6月28日、イーレフェルトはヤシ近郊を戦闘空中哨戒中にI-16を撃墜した。6月29日、I.(J)/LG 2はウージュホロドの飛行場に移り、7月1日にトゥドラの飛行場に移った。7月2日、I.(J)/LG 2は5回の戦闘任務に出撃し、イーレフェルトはI-153を撃墜し、42機撃墜を記録した。7月4日、カームヤネツィ=ポジーリシクィイへのシュトゥーカ護衛任務でI-15を撃墜した。 7月6日、I.(J)/LG 2は7回の戦闘任務に出撃し、そのうち2回会敵した。この日6回目の任務で、I.(J)/LG 2は7機のI-16に護衛された5機のSB-2に遭遇した。イーレフェルトは1機のI-16を撃墜し、44機撃墜を記録した。 8月30日、ソ連の戦闘機5機を撃墜し、「ace-in-a-day(1日で5機以上を撃墜した飛行士)」の称号を得た。1942年春に撃墜(3月24日に5機、3月30日に7機、4月20日に7機)を重ね、4月22日に第二次世界大戦で5人目となる100機撃墜を達成。4月24日、柏葉・剣付騎士鉄十字章を授与された。1月13日、I.(J)/LG 2は第77戦闘航空団第I飛行隊(I./JG 77)に改称された。イーレフェルトが指揮を執った間、I./JG 77は323機を撃墜し、損害は17機のメッサーシュミット Bf109だけだった。
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