バルカン戦線とは? わかりやすく解説

バルカン戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 06:20 UTC 版)

本稿は、第二次世界大戦の全期間に渡るバルカン半島の状況を概観することを目的とする。




「バルカン戦線」の続きの解説一覧

バルカン戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)

イタリアの軍事史」の記事における「バルカン戦線」の解説

詳細は「ギリシャの戦い」、「イタリア・ギリシャ戦争」、および「ユーゴスラビア侵攻」を参照 北アフリカ東アフリカ戦線での物資装備不足の中で、ファシスト政権更なる戦線拡大という無謀な行動起こした。これはバルカン半島油田地帯狙ったドイツルーマニアなどを属国化する中、アドリア海沿岸部編入というイタリア王国地政学的な野心実現意欲アルバニア併合など)を見せていたムッソリーニ危機感抱いた為だと見られている。ユーゴスラビアは既に親枢軸にあった事から、アドリア海入り口押さえる親英国ギリシャ王国への宣戦布告された。 アフリカでの軍事行動当初からドイツ賛同得ていたのに比べ、バルカン戦線は外交による支配予定していたドイツから強く反対されている。軍部からの猛反対もあり、ムッソリーニ直前まで宣戦布告日時決めかねていたが、ローマ進軍記念日10月28日)に攻撃開始された。装備物資欠乏アフリカ戦線何ら変わりなく、常備兵補い臨時動員兵を本格的に使用し始めたのもこの戦いからである。遠征軍王国軍属国であるアルバニア王国軍勢加えられ始められた。 アルバニアから出撃した遠征軍は20km近く進出したが、冬季であった事に加えて山岳地帯用意されエピロス要塞線に阻まれ戦い程なく停滞した冬の山岳戦は徒に自軍戦力削り同盟軍として駆り出されアルバニア軍士気低下による逃亡追い討ちをかけた。外交工作不調に終わりブルガリア軍ギリシャ攻撃に加わらなかった事でエピロス山脈への戦力集中許してしまい、11月中旬には兵員数で上回られている(ギリシャ王国軍:25名、イタリア王国15名)。ギリシャ軍反撃転じ王国軍アルバニア軍アルバニア南部後退強いられる事となった。ムッソリーニ懲罰人事乱発した上で兵士増員などを試みたが、アルバニア南部防衛線を形成するのが精々という状態であった英軍支援受けたギリシャ軍それ以上進めなかったが、アフリカへ増援効率よく阻止したという点で連合軍貢献していた。 続いてユーゴスラビア枢軸政権倒され連合国政権樹立される事態起きるが、これを切っ掛け静観していたドイツ軍南下始まった王国軍ヴェネツィアからユーゴスラビアに別働軍を送りユーゴスラビア軍兵士数万名を捕虜にしてダルマチア占領したユーゴスラビア分割後、そのままドイツアルバニア隣国ブルガリアからギリシャ戦線参戦し側面突いて連合軍総崩れ追い込んだギリシャに関して沿岸部イタリア王国割譲されたが、ユーゴスラビア比べて然したる功績も無い中での大規模割譲明らかにドイツ温情よるものであった以降イタリア王国枢軸国内で対等であった盟主ドイツ対し、他の枢軸国と同じ事実上衛星国として従えられる状態となった。

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バルカン戦線 (第二次世界大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:44 UTC 版)

イタリア陸軍」の記事における「バルカン戦線 (第二次世界大戦)」の解説

1940年10月英軍は、イタリア属国であるアルバニアへの侵攻企図していたが、イタリアはその機先を制する形で逆にアルバニアからギリシャへの侵攻開始ギリシャ・イタリア戦争)、属国アルバニアの軍と共にエピロスピンドス山脈北部占領下置いた。この地域大アルバニア主義結びつく地域でもあり、アルバニア兵の奮戦期待されていた。だが過度にギリシャ軍戦力と冬のピンドス山脈寒さ侮った事から進軍は捗らず、ギリシャ軍反撃アルバニア兵の脱走ゲリラ兵化により占領地域を放棄してアルバニア南部後退する屈辱を味わわされた。戦局泥沼化し、英軍支援軍を送ると形勢不利が決定的となった。 しかしユーゴスラビアの反独クーデター契機にしてドイツ軍バルカン全土掌握計画する情勢変化するイタリア陸軍ドイツ軍要請に応じてイタリア本土から数個師団進軍させた。今度戦いでイタリア陸軍必要な戦果を得る事ができ、ユーゴスラビア軍守備隊撃破し数万名を捕虜とした。この功績からドイツ軍との戦後分割交渉占領地の「未回収」領のモンテネグロ割譲されモンテネグロ王国樹立、またクロアチア独立国イタリア王族を国王トミスラヴ2世として立てて影響下に置いたドイツ軍バルカン半島掌握向けてギリシャ戦線への介入決断、この助力によってどうにかギリシャ占領果たされ地中海沿岸部の大部分獲得した。 この戦いはしばしドイツ軍の対ソ戦争計画遅らせ敗北遠因となった複数戦史家によって主張される。しかしこの仮説については疑い余地持たれる推論であり、当事者一人である所のイギリス政府でも激し議論が行われた。1952年イギリス政府は「バルカン戦線とバルバロッサ作戦延滞関連見られない」と結論している。また当時英国内ではむしろギリシャ救援失策と見る向きすらあった。対ソ戦をドイツを除く枢軸連合国全て予想しない中、東地中海沿岸を失う事はイギリス中東軍に多大な危機感与えたのである

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バルカン戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:48 UTC 版)

イタリア空軍」の記事における「バルカン戦線」の解説

詳細は「イタリア・ギリシャ戦争」を参照 1940年後半イタリア空軍ギリシャ・イタリア戦争参加圧倒的な戦力差もありギリシャ空軍77機中52機を撃墜したが、伊軍側も64機(ギリシャ空軍側は更に24機の追加撃墜主張している)の航空機喪失した陸軍による苦戦アルバニア国境への戦線後退余儀無くした。1941年前半ドイツ軍ユーゴスラビア侵攻経て対ギリシャ戦に参戦ギリシャの戦い)すると陸戦状況好転したが、空軍役割ドイツ空軍支援任務へと縮小された。ユーゴズラビア・ギリシャの治安維持多くイタリア担当するうになると(ユーゴスラビア進駐)、空軍もこれに従事した

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バルカン戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 07:15 UTC 版)

ヘルベルト・イーレフェルト」の記事における「バルカン戦線」の解説

4月6日マリタ作戦発動I.(J)/LG 2 はユーゴスラビア侵攻参加した部隊ブルガリアラドミル拠点にし、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将指揮する第8航空軍団に従属していた。この作戦での I.(J)/LG 2 の主な戦略目標は、スコピエ地区ユーゴスラビア王国空軍飛行場であったI.(J)/LG 2 はII.(S)/LG 2と共に、5回の戦闘任務遂行した。これらの任務のうちの最初の任務で、ヴァルダル渓谷鉄道ニシュ近郊飛行場対地射撃している間に、イーレフェルトは高射砲によりBf 109 E-7 (Werknummer 2057-製造番号)が撃墜されユーゴスラビア兵に捕らえられた。ニシュ飛行場閑散としており、イーレフェルトは小銃撃たれ頭部軽傷負った拘留中、銃殺隊にひどく殴られ死刑脅迫受けた4月14日8日間の拘束の後、第5装甲師団ドイツ軍によって救出され療養のためドイツ戻った4月17日休戦協定締結されユーゴスラビア侵攻終了した同日I.(J)/LG 2はギリシャのプトレマイダに移転し3日後、ラリサ移転した4月21日I.(J)/LG 2はピレウスアテネの港に対す任務遂行した4月27日I.(J)/LG 2はエレウシス移った4月30日ギリシャの戦い終了しI.(J)/LG 2は5月2日まで休息の期間を与えられた。5月13日I.(J)/LG 2はクレタ島の戦い1941年5月20日6月1日)のため、クレタ島上空偵察任務出撃した。クレタ島対す任務はモラオイの飛行場から出撃した。翌日I.(J)/LG 2はさまざまな目標に対して最初地上攻撃任務遂行した5月22日I.(J)/LG 2は軽巡洋艦フィジー爆撃し撃沈成功した5月26日クレタ島マレメ上空ハリケーン撃墜した5月31日I.(J)/LG 2のクレタ島での任務終わった。この日までに、I.(J)/LG 2はこの戦いで6機を撃墜したI.(J)/LG 2はバルバロッサ作戦のために、ベオグラード移転した6月18日I.(J)/LG 2はブカレスト移り南方軍集団支援する第77戦闘航空団JG 77)の指揮下に入った6月21日I.(J)/LG 2はロマン移った。その晩、パイロット地上勤務員は、ソ連侵攻について説明され東部戦線開かれた6月22日3時20分、JG 77I.(J)/LG 2のBf 109 70機がソ連飛行場攻撃し、第27爆撃航空団III飛行隊(III./KG 27)の戦闘機護衛した6月23日SB-2 2機を撃墜し東部戦線初戦果記録した同日JG 77I.(J)/LG 2は、7回の戦闘任務行った最初の任務で、Bf 109 34機はドイツ陸軍支援するために、KG 27の2個飛行隊戦闘機護衛した。5時50分に、イーレフェルトは37機目を撃墜した1910分に始まった7回目任務では、チェルニウツィー爆撃機撃墜した6月26日イリューシン DB-3 2機撃墜により40撃墜達成した。この戦功により6月27日ドイツ全軍16人目となる柏葉付騎士鉄十字章受章した国防軍軍報での自身に関する6回の言及内の最初となる言及受けた6月28日、イーレフェルトはヤシ近郊戦闘空中哨戒中にI-16撃墜した6月29日I.(J)/LG 2はウージュホロド飛行場移り7月1日にトゥドラの飛行場移った7月2日I.(J)/LG 2は5回の戦闘任務出撃し、イーレフェルトはI-153撃墜し42撃墜記録した7月4日カームヤネツィ=ポジーリシクィイへのシュトゥーカ護衛任務I-15撃墜した7月6日I.(J)/LG 2は7回の戦闘任務出撃し、そのうち2回会敵した。この日6回目任務で、I.(J)/LG 2は7機のI-16護衛された5機のSB-2遭遇した。イーレフェルトは1機のI-16撃墜し44撃墜記録した8月30日ソ連戦闘機5機を撃墜し、「ace-in-a-day(1日で5機以上を撃墜した飛行士)」の称号得た1942年春に撃墜3月24日に5機、3月30日に7機、4月20日に7機)を重ね4月22日第二次世界大戦5人目となる100撃墜達成4月24日柏葉・剣付騎士鉄十字章授与された。1月13日I.(J)/LG 2は第77戦闘航空団第I飛行隊(I./JG 77)に改称された。イーレフェルトが指揮を執った間、I./JG 77323機を撃墜し損害17機のメッサーシュミット Bf109けだった

※この「バルカン戦線」の解説は、「ヘルベルト・イーレフェルト」の解説の一部です。
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