にっぽん【日本】
読み方:にっぽん
「ヒノマルノハタハ—ノシルシデアリマス」〈尋常小学修身書・第2学年用・明治36年〉〈日葡〉
[補説] 「日本」が「ニホン」か「ニッポン」かについては決定的な説はない。「日」は漢音ジツ、呉音ニチで、ニチホンがニッポンに音変化し、発音の柔らかさを好むところからさらにニホンが生じたものか。ジパング・ジャパンなどはジツホンに基づくものであろう。国の呼称としては、昭和9年(1934)に臨時国語調査会(国語審議会の前身)が国号呼称統一案としてニッポンを決議したが、政府採択には至っていない。日本放送協会は昭和26年(1951)に、正式の国号としてはニッポン、その他の場合はニホンといってもよいとした。日本銀行券(紙幣)や運動競技の国際大会でユニホームのローマ字表記がNipponなのは、先の事情による。平成21年(2009)、麻生内閣は「今後、『日本』の読み方を統一する意向はあるか」の質問に対し、「『にっぽん』又は『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている」と答弁した。外務省では、英語による名称はジャパン(Japan)を用いている。なお本辞典では、両様に通用する語については、便宜上「にほん」の見出しのもとに集めた。
[名・形動]《安永・天明(1772〜1789)ごろの江戸での流行語》日本一であること。すばらしいこと。また、そのさま。
にっぽん【日本】
読み方:にっぽん
《Nippon》江戸時代後期に来日したドイツ人医師・博物学者、シーボルトによる日本の総合研究書。ドイツ国王ウィルへルム2世の援助を受け、オランダ、ライデンで出版。1832〜1851年にかけて13回の配本を行い、全20冊を刊行した。日本の地理・歴史・社会・風俗・動植物など、多分野について紹介した大著で、図版も多数収録。
明治22年(1889)創刊、大正3年(1914)廃刊の日刊新聞。明治21年(1888)創刊の日刊紙「東京電報」を改題して陸羯南(くがかつなん)が創刊。国家主義の立場から過度の欧化政策を批判、薩長藩閥政府を攻撃したため、しばしば発行停止処分を受けた。記者として古島一雄・福本日南・末永純一郎・正岡子規などが在籍、資金面では谷干城・近衛篤麿らが支援。
日本 (曖昧さ回避)
(ニッポン から転送)
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日本(にほん、にっぽん、ひのもと)、ニッポン
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ニッポン
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敦賀では、「日本インターナショナル建築会」の上野伊三郎らがタウトを出迎えた。上野らは、タウトの来日前に手はずを整えており、来日翌日の5月4日にはタウトを桂離宮に案内して観覧させ、タウトは離宮の美しさを称賛した。これほど早く拝観させた理由については、タウトが、毎年自分の誕生日にはその土地の最もよい建築を見ることにしているので日本の最もよい建築を見たい、と言っており、それに合わせて桂離宮を見せたのだと上野が言っていたという伝聞が残されている。タウトは桂離宮を世界に広めた最初の建築家だったと言える。 一方、その半月後の5月21日、斎藤寅郎の案内で日光東照宮に出かけて、その過剰な装飾を嫌ったタウトは日記に「建築の堕落だ」とまで書いて罵倒した。後にタウトが桂離宮や伊勢神宮を皇室芸術と呼んで持ち上げ、東照宮を将軍芸術と呼んで嫌悪する下地はこの時にできた。 上野は5月26日に、上野の母校である早稲田大学の建築学科教室を案内、上野はタウトを同大学の講師に迎え入れようと交渉したらしいが、こちらは不首尾に終わった。上野は、その後もタウトを修学院離宮、平安神宮、比叡山、琵琶湖、祇園、伊勢神宮にも案内した。上野は滞日中のタウトの面倒を最もよく見た人物で、タウトの滞在費捻出に骨を折ったのも上野である。その後、7月9日から17日まで6日間にわたって東京帝国大学で、上野の通訳のもとに講義を行った。ただ、この講義に集まってきたのは大半が学生だったらしく、一般人はほとんど聞きに来なかったので、タウトは幻滅したようである。 来日直後は、京都の呉服商(京都大丸の当主)下村正太郎の客人としてしばらくやっかいになっていたが、11月10日からは、タウトは仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)の嘱託として赴任、この後タウトは、1936年10月までの間日本に滞在し、仙台や高崎で工芸の指導や、日本建築に関する文章(『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』『日本美の再発見』『日本文化私観』『日本 タウトの日記』など)を書いた。 このうち、『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』(1933年6月に起稿、同年7月に脱稿、1934年5月に明治書房から出版、翻訳者は平居均)と『日本文化私観』だけがタウト滞日中に翻訳・発表された文章である。残りの文章は全てタウトの死後に翻訳・出版された。『ニッポン』はタウトが来日直後の日本に関する印象をまとめた口述筆記による本で、この中で桂離宮を激賞したことが以後の「桂離宮ブーム」を引き起こしたことで知られる。出版して間もなく日本図書館協会の推薦図書に、その後は文部省選定の優良図書に指定されている。 1934年8月1日になると、タウトはエリカとともに高崎へ移住し井上工業研究所顧問として、井上工業が制作していた工芸製品のデザイン、製作指導を行うようになった。これは、久米権九郎が井上房一郎にタウトを紹介したことが縁で決まったことである。高崎に移って以降約2年間を少林山達磨寺にある洗心亭でエリカと共に過ごした。 ここでの生活をタウトは大変気に入ったようである。井上工業研究所では、水原徳言が共同制作者としてタウトに協力した。水原はタウトの日本における唯一の弟子だと言われている。井上工業研究所でタウトは、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表した。井上が1935年に東京・銀座と軽井沢に開店した工芸品の店「ミラテス」で販売を始めた。また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。例えば、高崎で細々と生産が続く工芸「竹皮編」は、竹皮を使った草履表(南部表)の職人に対して、近代化が進んでいた当時の日本に合うような新しい用途の製品を作るよう、タウトがデザインなどを指導したという。 一方でタウトは日本滞在中、建築方面の仕事に余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていた。実際にタウト自身が日記の中で、日本での生活は「建築家の休日」であると自嘲している。唯一の例外が、実業家だった日向利兵衛の別邸(熱海市指定有形文化財)の地下室部分である。 滞日中、タウトに設計を依頼するという計画は何度か持ち上がったが実現まではいかなかった。例えば、1935年3月5日に、大倉和親邸の設計を任された久米権九郎を手伝う話があったが、タウトが描いたスケッチが「日本的でありすぎ」たことに失望され、それ以後二度と依頼する人物はあらわれなかった。日本でのタウトは建築設計では実りがなかったが、一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した本を著したり、日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行ったりもした。タウトは、日本滞在中に地方へ何度か旅行をしているが特高に尾行されたこともある。また、必ずしも名所のような美しい場所ばかりに足を運んだというわけでもなく、貧民窟を見たこともある。 1935年に入ると、タウトは次第に日本での生活の将来に不安を覚えるようになりだした。
※この「ニッポン」の解説は、「ブルーノ・タウト」の解説の一部です。
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「ニッポン」の例文・使い方・用例・文例
- ニッポニア・ニッポンという学名をもつトキは,かつて日本じゅうで見ることができた。
- ニッポン放送の経営権をめぐる争奪戦以来,企業買収に関するセミナーが増えている。
- M&Aコンサルティングは,ライブドアによるニッポン放送買収の企(くわだ)てに関与していた。
- 東(ひがし)国(こく)原(ばる)英(ひで)夫(お)宮崎県知事が3月10日の午前1時から3時まで,ニッポン放送のラジオ番組「オールナイトニッポン」に出演した。
- 宮城県にある東(ひがし)鳴(なる)子(ご)温泉の宿3軒と山形県にある肘(ひじ)折(おり)温泉の宿1軒が「ニッポンTOJIむら」という名称の共同事業を始めた。
- ニッポンTOJIむらは,滞在客が温泉の他にさまざまな活動を楽しめるまったく新しいプログラムを提案している。
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