渋川春海
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渋川春海[1] | |
人物情報 | |
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別名 | 六蔵(幼名)、順正、安井助左衛門、新蘆、保井春海 |
生誕 |
寛永16年閏11月3日(1639年12月27日) 京都四条室町 |
死没 | 正徳5年10月6日(1715年11月1日) |
居住 | 江戸麻布 |
国籍 | 日本 |
学問 | |
時代 | 江戸時代 |
研究分野 | 天文・暦・囲碁 |
特筆すべき概念 | 貞享暦 |
主要な作品 | 日本長暦、三暦考、貞享暦書、天文瓊統、地球儀 |
生涯
江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。慶安5年(1652年)、父の死により、二世安井算哲になったが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子・算知が継いで、算哲は保井(後に改字)姓を名乗った。秋冬は江戸に、春夏は京に住んだ。
そして万治2年(1659年)に21歳で幕府より禄を受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。この後、算知、弟の知哲、算知の弟ともいわれる春知などとともに御城碁に出仕する。延宝6年(1678年)に本因坊道策が碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされた。
数学・暦法を池田昌意(まさおき)に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、和漢の書および垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ。21歳(1659年)の時に天体観測に基づいて中国四国地方の各地の緯度・経度を計測した[注 1]。
当時の日本は貞観4年(862年)に唐よりもたらされた宣明暦を用いていた。宣明暦はかなりの誤差が生じていた。とくに、月食・日食の予報が天の運行に2日も遅れていた。春海は、1670年(寛文10年)32歳の時から天体を日夜観測[2]、その結果をもとにして元の授時暦への改暦を願い出た。ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。
春海は失敗の原因を研究していくうちに、太陽の運行の遅速にかかわる基点(今日の天文学の用語でいえば近日点)が授時暦では冬至と一致すると仮定されていた(13世紀にはよい近似であった)がすでに移動していたことと、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり今日でいう時差が発生してしまうことに気づいた[3]。そこで、授時暦に通じていた朱子学者の中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データをもとにして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代・稲葉正往の家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの明の大統暦を採用する詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は里差の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった[4]。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もある[5]が、惕斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた徳川光圀や泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。
この功により貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。
囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめて、太極(北極星)の発想から初手は天元(碁盤中央)であるべきと判断している。寛文10年10月17日(1670年11月29日)の御城碁で本因坊道策との対局において実際に初手天元を打っており、「これでもし負けたら一生天元には打たない」と豪語した。しかしこの対局は9目の負けに終わり、それ以後、初手天元をあきらめることとなった。
貞享3年(1686年)、春海は幕府の命令で京都より家族とともに江戸麻布に移り住み、元禄2年(1689年)に本所に天文台の建設が認められた。1690年、52歳の時、日本で最初の地球儀[6](直径25センチメートル)と天球儀 [6]を造った。1697年にも直径33センチメートルの地球儀を作っている[7]。元禄5年(1692年)に幕府から武士身分が認められると蓄髪して安井助左衛門と名乗り、元禄15年(1702年)に渋川に改姓した。これは、先祖が河内国渋川郡を領していたが、播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためである。元禄16年(1703年)、天文台は更に駿河台に移された。著書に天文暦学においては『日本長暦』[6][8]『三暦考』『貞享暦書』[6]『天文瓊統』[6]、神道においては『瓊矛拾遺』がある。
また、朝鮮の「天象列次分野之図」(1395)を参考に「天象列次之図」(1670)、「天文分野之図」(1677)という星図を著し、さらに星の位置を測定して「天文瓊統」に示すとともに、子の昔伊と作成した「天文成象」(1699)で図に表した[9]。 改暦の際に「地方時」の存在を主張したように、彼は中国や西洋では地球が球体であるという考えがあることを知っており、地球儀をはじめ、天球儀・渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器を作成している。
後に嫡男である昔尹に天文方の地位を譲ったが、正徳5年(1715年)に昔尹が子供のないまま急死すると、春海も後を追うように死去した。渋川家と天文方は春海の弟・知哲の次男敬尹が継承した。法号は本虚院透雲紹徹居士。墓は東京都品川区の東海寺大山墓地にある。明治40年(1907年)に改暦の功績によって従四位が贈位された[10]。平成24年(2012年)、第9回囲碁殿堂入りが決まる。
系譜
注釈
出典
- ^ 鳳晴堂光正『天文大意録』1826年頃。
- ^ a b 岡田 2011, p. 37.
- ^ “国立天文台 暦Wiki 貞享暦 (じょうきょうれき) / 大和暦”. 2019年11月8日閲覧。 “国立天文台 暦Wiki 近日点の移動”. 2019年11月8日閲覧。
- ^ 保柳睦美「伊能忠敬と根気」『史苑』第29巻第2号、立教大学、1969年1月、82-111頁、doi:10.14992/00001052、ISSN 03869318、NAID 110009393705。
- ^ 中山 1983.
- ^ a b c d e f 伊勢市内指定文化財 2019, p. 4.
- ^ 岡田 2011, p. 39.
- ^ 長谷川ほか 1984, p. 315.
- ^ “美星町 星のデータベース”. 2017年10月22日閲覧。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.24
- ^ 日本人の暦を作った男 渋川春海 - NHKアーカイブス 2019年11月7日
- ^ “天文分野之図 - 国立天文台(NAOJ)”. 2017年10月22日閲覧。
- ^ 昭和53年6月15日文部省告示第131号
- ^ “みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財 / 情報データベース / 渋川春海天文関係資料”. www.bunka.pref.mie.lg.jp. 三重県庁. 2019年11月30日閲覧。
- ^ 平成2年6月29日文部省告示第93号
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