毛利元就 毛利元就の概要

毛利元就

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 14:25 UTC 版)

 
毛利 元就
紙本著色毛利元就像(毛利博物館蔵)    
時代 戦国時代
生誕 明応6年3月14日[1]1497年4月16日)  
死没 元亀2年6月14日[1]1571年7月6日
改名 松寿丸(幼名)→元就 
別名 通称少輔次郎しょうのじろう[1]、多治比殿[2]
諡号 惟徳惟馨[3]
神号 仰徳大明神[4]
戒名 洞春寺殿日頼洞春大居士[1]
墓所 大通院跡(広島県安芸高田市吉田町)
菩提寺
洞春寺(山口県山口市水の上町)
大徳寺塔頭黄梅院京都市北区
官位 従四位上[1] 右馬頭[1] 治部少輔[1] 陸奥守[1]、贈従三位[1]、贈正一位[4][1]
幕府 室町幕府 相伴衆[1]
主君 毛利興元毛利幸松丸尼子経久大内義隆
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:毛利弘元[1]、母:祥室妙吉(福原広俊の娘)[1]
兄弟 興元、宮姫(武田氏室)、元就、八幡新造(渋川義正室)[5]相合大方井上元光室)、相合元綱、松姫(吉川元経室)、竹姫(井原元師室)、北就勝見付元氏
正室:妙玖吉川国経の娘[6]
側室:乃美大方[6]三吉氏[6]三吉隆亮の妹)、中の丸[7]
女(夭折)、隆元[7]五龍局宍戸隆家室)[7]吉川元春[7]小早川隆景[8]、芳林春香(三女、上原元将室)[8]穂井田元清[9]元秋[9]出羽元倶[9]天野元政[10]末次元康[10]秀包[11]
特記
事項
二宮就辰や井上元勝を元就の落胤とする説がある。
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毛利氏の本姓大江氏[注釈 2]。正式な姓名は、大江 元就(おおえ の もとなり)。家紋は一文字三星紋。  

用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家[注釈 3]として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ヶ国を支配する太守へとのし上がった[13]。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられている。




注釈

  1. ^ 現在の広島県広島県安芸高田市吉田町。
  2. ^ 毛利氏は大江広元が四男・毛利季光に相模国毛利荘を譲ったことに由来し、季光を祖として、元就は広元の雲孫の玄孫にあたる。
  3. ^ 元就は「能や芸や慰事、何もかも要らず。ただただ武略、計略、調略こそ肝要にて候」「謀多きは勝ち、少なきは負け候」と孫子を踏まえて自らの信条を書き綴っている[12]
  4. ^ アルコール中毒や飲酒の害毒のこと『酒毒』 - コトバンク
  5. ^
    「我々は五歳にて母に離れ候、十歳にて父に離れ候、十一歳の時にて兄〔興元〕京都へ上られ候。誠に了簡なく、みなしご〔孤児〕に罷り成り」 — 毛利元就、毛利家文書 第420号
    「多治比を我々に弘元お譲り候へども、井上中務丞〔元盛〕渡し候わで押領候……」 — 毛利元就、毛利家文書 第420号
    と述懐している[14]
  6. ^ 「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む。[要出典]
  7. ^ この時連署状に署名した15名の重臣は、署名順に福原広俊中村元明坂広秀渡辺勝粟屋元秀赤川元助(元保)井上就在井上元盛赤川就秀飯田元親井上元貞井上元吉井上元兼桂元澄志道広良
  8. ^ この家督相続について、元就は初め辞退したという話が元就自身の日記[20]に記されているが、この日記は連署状を受け取った日時が現存する書状と違い、また日記といってもこの時の3日分しか存在しない史料であるため、疑問がもたれている[21]
  9. ^ これを元就の謀略であると伝える軍記もあるが、尼子氏が、統率力強化のために自発的に行ったものと考えられている。詳しくは新宮党の項目参照。
  10. ^ この戦いは日本三大奇襲作戦の1つとされるが、従来の通説は陰徳太平記など、後世に編纂された不確かな軍記物語によって構築されたもので、実際にどのような戦いが行われたかは不透明な部分が多い。
  11. ^ しかし、大友の立場からすれば、同じく毛利の侵攻に悩まされ危機的な状況に陥り、龍造寺氏や島津氏の勢力伸長を抑える事ができなかった。
  12. ^ 多門坊宗秀が6月14日に厳島神社棚守房顕へ宛てた書状には「昨日十三日より大殿様以ての外の御虫気(腹痛)に付て、公私此の取り乱しに何事も成らず候」と記されており、毛利家中が混乱を極めた様子が窺われる[37]
  13. ^ 甲陽軍鑑』にも、武田信玄の軍師山本勘助が「源義光公の時代以来、この世に戦巧者といえば楠木正成を除いて、他には毛利元就しかおりません」と評した逸話があるが、これに関しては創作の可能性が高い。
  14. ^ 「当分五ヶ国十ヶ国御手に入れ候は、時の御仕合せにて候(我々が5ヶ国10ヶ国を手に入れられたのは時の運であり、これ以上望むべきではない)」と元就がこぼしていたことに触れている[49]
  15. ^ 家臣の志道広良に宛てたとされる自筆書状では、内容の要点に関する部分が韻を踏むかのように記されており、視覚的にも効果的な記述とされる。
  16. ^ 元就を基準とすると、時計回りに毛利元就、吉川元春、阿曽沼広秀、毛利隆元、宍戸隆家、天野元定、天野隆誠、出羽元祐、天野隆重、小早川隆景、平賀広相、熊谷信直の12名。
  17. ^ この「傘連判状」の解釈には異論も存在する。元就が時計の十二時の最も目立つ位置に署名していること、この申し合わせが毛利家に伝わっており、国衆が元就に提出したと見られること、恩賞は一般に主人が部下に与えるものだが、この中の平賀氏は「御恩賞は決して忘れはしません」と書かれた書状が残っている等の理由から、傘連判は多分に形式的なもので、実質的に国衆と家中の間に差はなかったとする意見もある[52]
  18. ^ こうした二元的な主従関係の複雑さから、元就没後の織田氏との戦いでは軍がまとまらず、常に後手に回る醜態を晒した。また関ヶ原以前の毛利氏では分国法が編纂されず、代わりに当主の下に官僚組織を形成することで人的に対応する方針を採った。
  19. ^ 陸奥守は毛利家の祖先である大江広元が就いていた官職である。
  20. ^ 毛利元就の自筆が題字として採用されたため、スタッフの一人として毛利元就自身がクレジットされている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 時山弥八編 1916, p. 75.
  2. ^ https://www.akitakata.jp/akitakata-media/filer_public/71/ce/71ce4b82-31e3-4945-9add-b2ed4e68dd74/rei-wa-3nen-11gatsu-20nichi-shinpojiumu-mouri-motonari-rejume.pdf
  3. ^ a b c d e f 渡辺 1984, p. 648.
  4. ^ a b 阪本 1994.
  5. ^ a b 閥閲録』巻76「村上権右衛門」。
  6. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 76.
  7. ^ a b c d 時山弥八編 1916, p. 77.
  8. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 78.
  9. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 79.
  10. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 80.
  11. ^ 時山弥八編 1916, p. 81.
  12. ^ 『毛利家文書』第413号、嫡男・隆元宛の三子教訓状追伸文。
  13. ^ 池亨「元就の領国拡張と支配」(河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年)51頁
  14. ^ a b 『毛利家文書』第420号 弘治4年(1558年)8月付 毛利隆元宛て毛利元就書状写
  15. ^ 『毛利家文書』第405号 弘治3年(1557年11月25日付 毛利元就自筆書状(いわゆる「三子教訓状」)の第12条。
  16. ^ 河合 1984, p. 104.
  17. ^ 河合 1984, p. 105.
  18. ^ a b 河合 1984, p. 112.
  19. ^ 『毛利家文書』第248号、大永3年(1523年)7月25日付、福原広俊外十四名連署状。
  20. ^ 『毛利家文書』第246号、毛利元就郡山入城日記。
  21. ^ 山室 1995.
  22. ^ 『毛利家文書』第250号、毛利元就発句。
  23. ^ 馬部隆弘「細川晴元に対する交渉と取次」『大阪大谷大学歴史文化研究』第17号、2017年。 /所収:『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、466-476頁。ISBN 978-4-642-02950-6 
  24. ^ 木下聡 著「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」、木下聡 編『若狭武田氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-192-9 
  25. ^ 藤木 1976.
  26. ^ 光成準治 2016, pp. 4–5.
  27. ^ 光成準治 2016, pp. 26–29.
  28. ^ 光成準治 2016, p. 49.
  29. ^ a b 光成準治 2016, p. 51.
  30. ^ 光成準治 2016, p. 107.
  31. ^ a b 光成準治 2016, pp. 78–80.
  32. ^ a b c d 渡辺 1984, p. 628.
  33. ^ a b 宮本 1993a.
  34. ^ a b c 宮本 1993b
  35. ^ a b c d 渡辺 1984, p. 629.
  36. ^ 渡辺 1984, p. 630.
  37. ^ a b 渡辺 1984, p. 630-631.
  38. ^ a b 渡辺 1984, p. 632.
  39. ^ 渡辺 1984, p. 638.
  40. ^ a b c 渡辺 1984, p. 639.
  41. ^ 渡辺 1984, p. 638-39.
  42. ^ 渡辺 1984, p. 639-640.
  43. ^ a b 渡辺 1984, p. 642.
  44. ^ a b 渡辺 1984, p. 643.
  45. ^ 渡辺 1984, p. 643-645.
  46. ^ 渡辺 1984, p. 645.
  47. ^ 渡辺 1984, p. 645-647.
  48. ^ a b c 渡辺 1984, p. 647.
  49. ^ 吉川家文書 第917号、吉川広家卿自筆覚書
  50. ^ 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜 第421回(毛利博物館館長代理 柴原直樹) - 地域情報新聞ほっぷ(2018年11月23日号)
  51. ^ 宮本 2002, pp. 121–123.
  52. ^ 鴨川達夫 2011, pp. 69–76.
  53. ^ 河合 1984, p. 145.
  54. ^ 宮本 1978.
  55. ^ 宮本 1974a.
  56. ^ 宮本 1974b.
  57. ^ 宮本 1974c.
  58. ^ 宮本 1975.
  59. ^ 田端泰子「戦国期女性の役割分担」『日本中世女性史論』塙書房、1994年、91頁。 
  60. ^ Amazon | KOEI The Best 毛利元就 誓いの三矢 | ゲームソフト”. www.amazon.co.jp. 2022年12月9日閲覧。
  61. ^ TBS. “TVアニメ「学園BASARA」公式ホームページ|TBSテレビ”. TBSテレビ. 2022年12月9日閲覧。
  62. ^ 郡山城観光パンフレット「国指定史跡毛利氏城跡 郡山城」(発行:安芸高田市未来創造事業 歴史・伝統文化を活用した地域活性化実行委員会) - 郡山城趾観光ルート(時刻表付き)[リンク切れ] (安芸高田市)






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