東京湾要塞 東京湾要塞の概要

東京湾要塞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 15:57 UTC 版)

戦後、跡地は民間に払い下げられるなどしたが、千代ケ崎砲台跡神奈川県横須賀市)の一部は海上自衛隊が通信施設として2013年(平成25年)まで使用した[1]

概要

欧米列強の船舶が日本列島周辺に出没するようになった江戸時代後期に海防論が高まり、江戸幕府幕末江戸前面に砲台(品川台場)整備に着手した。

明治政府は国防強化を引き継ぎ、1880年明治13年)、東京湾に侵入する敵艦艇を撃退し、東京など湾岸各地および横須賀軍港を防衛する目的で、軍事施設群の建設を始めた。最初は清国北洋水師、次にロシア帝国海軍太平洋艦隊の来攻を想定しての施設であった。主要な設備は、千葉県館山市洲崎から富津市富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、さらに3つの海堡からなる。運用期間は約60年にわたり、その間には日清戦争日露戦争、太平洋戦争といった大規模な戦役があり継続的に設備の強化が行われたものの、一度も実戦を経験することなく太平洋戦争での終戦とともにその役目を終えた。現在では海堡を含む一部の砲台跡が残され、観光資源として活用されている[1]

歴史

東京湾要塞は1880年(明治13年)の観音崎砲台着工から建設が始まった。1894年(明治27年)の日清戦争勃発直前に「臨時東京湾守備隊司令部」が置かれ、翌1895年(明治28年)の要塞司令部条例発令と同時に「東京湾要塞司令部」が正式に発足。司令部は横須賀市上町に置かれた。東京湾で最も幅が狭い東京湾湾口部(富津岬・観音崎間)が防衛線とされ、日清戦争までには横須賀軍港周辺の8か所、観音崎・走水地区の15か所、富津岬の1か所、第一海堡の累計25か所の砲台が完成していた。ただし、日清戦争当時は未完成の設備が多い上に砲弾備蓄は少なく、十分な防衛態勢が整っていたわけではなかった。

日清戦争後には防御計画が策定されて要塞を構成する各砲台の役割が明確化され、砲弾の備蓄も進められた。日露戦争では宣戦布告前の奇襲に備え、東京湾要塞は1904年(明治37年)2月6日から戦闘態勢に移行した。同年7月にはロシア帝国海軍のウラジオストック艦隊が東京湾外で活動したこともあり厳重な臨戦態勢がとられるが、艦隊は東京湾に接近することなく帰投したためこれはほどなく解除されている。なお、旅順攻囲戦においては、東京湾要塞が持つ28サンチ榴弾砲のうち米が浜砲台より6門、箱崎高砲台より8門、他4門、弾薬が旅順へと送り込まれ、第二回旅順総攻撃以降ロシア軍陣地攻撃・旅順港砲撃に使用されている。

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では要塞司令部の建物や各所の砲台・倉庫が被害を受けている。特に第二・第三海堡の被害は大きく、修復は困難と判断されて両海堡はそのまま除籍となった(第三海堡は完成した後、わずか2年で除籍となっている)。第一海堡は浅い海域に造成されていたため被害は少なく、震災後も運用が継続された。また、震災で通信設備が破壊されたことから要塞施設間の通信には伝書鳩が活用された(その後も鳩による通信は太平洋戦争終結まで利用され、要塞施設では通信線途絶時への備えとして伝書鳩を飼育していた)。復旧計画には被害を受けた砲台の復旧だけでなく新砲台の建設も織り込まれ、震災復旧としての要塞整備は1941年度(昭和16年度)まで続けられた。

昭和時代に入ると、軍縮によって廃艦となった海軍主力艦の大口径艦砲が海軍から無償で移管・設置されるようになる(「要塞砲塔加農砲 (日本軍)」も参照)。その中には戦艦巡洋戦艦の主砲であった12インチ(30.5センチ)砲も含まれており、備砲の強化によって射程と威力が増大した。より幅の広い水域を防衛できることが可能になり、新たに三崎地区や房総半島先端部(洲崎大房岬)に砲台が新設されている。これにより、東京湾要塞の防衛範囲は従来の東京湾湾口部(富津岬・観音崎間)から東京湾手前の浦賀水道に拡大し、さらには相模灘相模湾も射程に収めるようになった。洲崎、大房岬、三崎地区からの射線、その奥の海堡、横須賀近辺からの射線を第二線とし、二段構えで東京湾の防衛が可能となったのである。

1941年(昭和16年)に太平洋戦争が開戦した後も東京湾に敵艦艇が侵入することはなく、東京湾要塞は戦闘を行っていない。しかし、1945年(昭和20年)に入り、アメリカ軍による反撃が激しさを増し戦線が次第に日本本土に近づくと、東京湾要塞でも本土決戦の準備が進められた。アメリカ軍艦艇の東京湾侵入を防ぐべく砲台の増設が行われている。また、東京湾に侵入する潜水艦を警戒し、防潜網や水中聴音機の設置および機雷敷設が行われた。しかし、実際には日本本土空襲の途次に東京湾海上に脱出した爆撃機搭乗員を救助するため、アメリカ潜水艦が度々東京湾に侵入していたとされる。

2015年3月10日、猿島砲台跡・千代ヶ崎砲台跡が「東京湾要塞跡」の名称で国の史跡に指定された[2][3][4][5][6][7]。明治以降の軍事関連施設では初の指定になる。観光資源としての活用も行われており、猿島砲台跡は一般観光客も見学が可能であり、千代ヶ崎砲台跡は曜日限定で公開されている[8]。第二海堡は安全上の理由から立ち入りが禁止されてきたが、2019年令和元年)からは民間業者主催のツアーに参加することで上陸・見学が可能になった。

主要建築物

横須賀軍港周辺

三浦半島

剣崎砲台跡(2010年5月2日)

房総半島

大房岬の探照灯格納庫跡(2007年3月6日)

東京湾海堡

第一海堡の遺構(1974年撮影)[12]
第二海堡の遺構(1988年撮影)[12]
第三海堡の遺構(1983年撮影)[12]

東京湾要塞の重要な設備として、東京湾入口の最挟部である富津岬と観音崎の間に造成された人工島「海堡」がある。海堡には砲台と砲台を運用するための設備が備えられ、浦賀水道の沿岸砲台を突破した敵艦艇を海上から砲撃する任務を持っていた。このため各海堡の備砲は横須賀側の猿島や走水の砲台と合わせて全体で浦賀水道全体を射程に納めるように配置され、沿岸砲台と協調して敵艦艇を左右と前から挟撃する態勢が取られていた。海堡は富津岬と観音崎を結ぶ線上に3か所建設され、富津岬に近い方から第一・第二・第三と番号が振られている。

海堡は、明治の中頃に建設が始まり30年にわたる海上工事と多大な工事費、及び犠牲者を出しつつ大正時代に完成を見て15センチカノン砲などが配備された。

しかしながら、難工事の末に第三海堡が完成した2年後の関東大震災によって第二・第三海堡が被災、復旧は困難との判断になり除籍され、第一海堡のみの運用となる。第三海堡は特に地震による被害が甚大で、4.8メートルも沈下し全体の三分の一が水没してしまい、その後も少しずつ侵食が進み暗礁となってしまう。

第三海堡は、東京湾の船舶航行において大きな支障が出てしまい、2000年12月から2007年8月にかけて撤去作業が行われた。第一・第二海堡は現存しているが、老朽化した第二海堡の護岸が地震で崩壊した場合に土砂が隣接する航路まで流出するおそれがあることから、第二海堡では護岸整備工事が行われている。また第二海堡には海上保安庁によって灯台が設置されている。

富津岬の千葉県立富津公園展望台からは、これら海堡周辺が一望にでき、浦賀水道を守る海堡の配置をうかがうことができる。


  1. ^ a b c d 【探訪】「近代の国防」物語3つの穴産経新聞』朝刊2022年8月14日(特集面)2022年8月17日閲覧
  2. ^ 平成27年3月10日文部科学省告示第38号
  3. ^ 「横須賀製鉄所」「東京湾要塞跡」歴史遺産で集客と郷土愛 タウンニュース(2015年1月1日号)2022年8月17日閲覧
  4. ^ 横須賀の2砲台跡 文化審議会の史跡指定答申に[リンク切れ]神奈川新聞カナコロ
  5. ^ 東京湾要塞跡猿島砲台跡・千代ヶ崎砲台跡、国指定史跡に内定[リンク切れ]横須賀市役所(2014年11月21日)
  6. ^ 東京湾要塞跡国史跡指定記念シンポジウム~猿島砲台、千代ヶ崎砲台の歴史とその活用~[リンク切れ]
  7. ^ 東京湾要塞の砲台跡など13件、史跡に 文化審が答申[リンク切れ]朝日新聞
  8. ^ 横須賀市. “千代ヶ崎砲台跡の公開”. 横須賀市. 2023年6月27日閲覧。
  9. ^ 土木学会 平成12年度選奨土木遺産 猿島要塞”. www.jsce.or.jp. 2022年6月9日閲覧。
  10. ^ 神奈川県. “神奈川県の文化財”. 神奈川県. 2023年6月27日閲覧。
  11. ^ 東京湾第三海堡”. NPO法人アクションおっぱま|横須賀市追浜のまちづくり. 2023年6月27日閲覧。
  12. ^ a b c 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
  13. ^ 『任免裁可書』明治二十七年・任免巻十三


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