日月神示 天の岩戸

日月神示

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 08:10 UTC 版)

天の岩戸

日月神示によると、昭和20年の段階で奥の神界の岩戸は開かれており、中の神界における岩戸開きが最中とされ、次の世の型を急ぐと述べられている(「夜明けの巻」第十一帖)。

岩戸開く仕組みについては「下つ巻」第二十二帖で「岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、この仕組、言ふてはならず、・・・」と明かされていない。

岩戸が開けるには、一苦労、二苦労と困難が訪れるとされ、子の年に岩戸が開かれると予言されている

「あら楽(たぬ)し、あなさやけ、元津御神の御光の、輝く御代ぞ近づけり。岩戸開けたり野も山も、草の片葉(かきは)も言(こと)止(や)めて、大御光に寄り集ふ、誠の御代ぞ楽しけれ。今一苦労二苦労、とことん苦労あるなれど、楽しき苦労ぞ目出度けれ。申、酉すぎて戌の年、亥の年、子の年 目出度けれ。一二三(ひふみ)の裏の御用する身魂も今に引き寄せるから、その覚悟せよ。覚悟よいか。待ちに待ちにし秋来たぞ。」(「夜明けの巻」第十二帖)

昭和20年以後の子年は、昭和23年(1948年)、昭和35年(1960年)、昭和47年(1972年)、昭和59年1984年)。

この後、一八十(イワト)が成ったとする平成の時代が訪れ、日月神示で示されるアヤワは一八十の位置にあると飛鳥昭雄は述べている。

三千世界の大道(三界を貫く誠の道) 

日月神示の内容は極めて広範囲にわたり、神霊が上記の「アメの巻」第十三帖で

「外で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ。三千世界のこと一切の事説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち着いて聞き落としのない様になされよ。」

と語っているように、そのそれぞれに多くの記述が見られるが最も大きな特徴は神霊自身が「下つ巻」第一帖や「春の巻」第一帖、「黄金の巻」第二帖で

「この道は宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ。」

「此処は光の道伝え、行ふ所、教えでないと申してあろう。教へは教へに過ぎん。道でなくては、今度はならんのぢゃ。」

「今迄の日本の宗教は日本だけの宗教。この度は世界のもとの、三千世界の大道ぞ、教えでないぞ。」

また、「アメの巻」第一帖、「〇つりの巻」第一帖、同巻第六帖の

「此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。」

「今迄の教ではこの道判らんぞ。」

「三界を貫く道ぞ誠なり誠の道は一つなりけり。神界の誠かくれし(隠れし)今迄の道は誠の道でないぞや、鬼おろち草木動物虫けらも一つにゑらぐ[15]道ぞ誠ぞ。」

と述べているように、この神示を宗教でもなく教えでもなく「三千世界の大道」で「三界を貫く誠の道」だと語っていることであろう。そのために既成宗教の信仰のあり方や教えとは大きく異なるものが多く、それらを否定している記述も随所に見られる。例えば既成宗教では有名な教えのひとつとされる「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」と言う教えについてでは日月神示を書記させたこの神霊は次のように述べられている。

「右の頬をうたれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申しているが、その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるやうなものを心の中にもっているから打たれるのぞ。マコトに居れば相手が手をふり上げても打つことは出来ん、よくききわけてくだされよ。笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ。世界一家天下太平ぢゃ、左の頬を出すおろかさをやめて下されよ」(極め之巻第十五帖)

「そなたは無抵抗主義が平和の基だと申して、右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るなれど、それは真の無抵抗ではないぞ。よく聞きなされ、打たれるやうなものをそなたがもってゐるからこそ、打たれる結果となるのぢゃ。まことに磨けたら、まことに相手を愛してゐたならば、打たれるような雰囲気は生れないのであるぞ。頬をうたれて下さるなよ。生れ赤児見よと知らしてあろうが。」(月光の巻第五十三帖)

(※これらの帖に関しては、幼児虐待や幼児殺しをしてしまう親が度々ニュースになるなど、説得力のない文章だと考える人や意見もある。)

同様に既成宗教では神の「しるし」や「証し」として重要視、神聖視されている奇跡であるが、これについても完全に否定。いくつかの帖で言及され、奇跡やこれらを求め信じる人に大きな警鐘を鳴らしている。「二日んの巻」第十三帖では「地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであること知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。」や「黄金の巻」第二十二帖でも「奇跡では改心出来んのであるぞ」また、「龍音の巻」第十八帖では「正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ。わかりたか。」と語られている。

また、他の多くの宗教が修行の一環や、神への自己犠牲のしるしとして断食の必要性やその意義を説いているが日月神示では断食すること自体を厳しく戒めているのも注目される。「日月の巻」第三帖では「滝に打たれ断食する様な行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物頂きて、神国のおん仕事してゐる臣民には行は要らぬのざぞ。此の事よく心得よ。」と述べられ、滝に打たれたり、断食するような行は低い世界の行に過ぎず全く必要がないのだとされる。さらに「正しい食生活について」では「食物を食べるのも喜びであるぞ。正しき食物正しく食べよ。更に喜びふえて弥栄えるのぢゃ。悪い食物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。何も彼も同様ぞ。人民は喜びの子と申してあらう。罪の子でないぞ。うれしうれしの道あるに、何故歩まんのぢゃ。」(春の巻第五帖)と語られている。

しかし、一方で多食や肉食についてはこれを戒めており、次のような帖もある。「食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運開ける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理窟と申すもの。理窟悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。」(冬の巻捕帖)[16]「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生まれると申してあろう、臣民の食物は五穀野菜の類であるぞ。」(碧玉の巻第八帖)。なお肉食についてはそれを戒めつつも、次のようにも書記させている「獣の喰ひ物くふ時には一度神に献げてからにせよ、神から頂けよ、さうすれば神の喰べ物となって、何たべても大じやうぶになるのぞ」(天つ巻第五帖)。

「人間の生き方」に関しては次の記述が代表的なものであろう。

「臣民にわかる様にいふなれば、身も心も神のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思へばよいのであるぞ、それでその身体をどんなにしたらよいかと云ふこと分かるであらうが、夜になれば眠ったときはお返ししてゐるのざと思へ、それでよく分かるであらうが。身魂みがくと申すことは、神の入れものとして神からお預りしてゐる、神の最も尊いとことしてお扱ひすることぞ」(富士の巻第十四帖)。「目覚めたら其の日の生命お預りした事を神に感謝し、其の生命を神の御心のままに弥栄に仕へまつる事に祈れよ。神は其の日其の時に何すべきかに就いて教へるぞ。明日の事に心使ふなよ。心は配れよ。取越苦労するなよ。」(日月の巻第十五帖)と語られている。

さらに夫婦のありかたについては次のように述べられている。

「愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。」(春の巻第二十六帖)。「家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。」(黄金の巻第七十二帖)、また「妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二(富士)晴れるぞ。」(黄金の巻第九十九帖)、さらには「夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。」(月光の巻第九帖)とあり、お互いに信頼しきった夫婦関係が大切で真の信仰の礎であると語られている。

霊界と現界との関係

日月神示には霊界についての記述も多く見られるが、特に「二日んの巻」(ジシンの巻)や「龍音之巻」は、ほとんどがこれらについての記述である。そのなかでも、我々が住んでいるこの現界と関係が深いと思われるもので主なものを以下に箇条書きで記す。

  • 広く霊界といっても神界と幽界に大別され、神界は天国と霊国に分けられ、幽界はそれぞれ、陽界と陰界に分けられる。
  • 天国には天人が、霊国には天使が住み、幽界は陽界には陽霊人が、陰界には陰霊人が住んでいる[17]
  • 幽界は人間界(現界)と最も深い関係にあり、初期の神懸かりの殆んどはこの幽界からの感応によるものであるから注意が必要である。
  • 幽界は本来は無いものであるが、人間の地獄的想念が生み出したものである。
  • 高度の霊がただちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならない。
  • 参1 目に見えぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的なものになる。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるため、その感応は極めて強く人間の目にはいかにも、もっともらしく映るのでこれも注意が必要である。
  • 高度なものはその人間の心(精神)に応じてそれと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現される。
  • 下級霊が懸かった霊媒の態度や所作、動作、言動は高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものであるがこれらは良く見極めれば判る。
  • 特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降って来て人間に特別な通信をしたり、指示したりすることがある。また天使の霊が母体(母胎)に宿り人間として生まれて来ることもある。末世にはこの種の降誕人が沢山ある。
  • 特別の使命を持つ天使は別として、人間霊以外の霊で人間に憑依するのは、日本を例にとれば天狗仙人などが大部分である。
  • 先祖霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意を要する。動物霊が祖先のことを知っているのは、その憑依の対象となる人間の肉体霊(その人間の想念や考えていること)[18]の知っていることを、直ちに知り得るからである。
  • 動物霊が人間の言葉を使うのは不可解にも思えるが、それは例えれば、他人の家に入り込んでそこにある道具類をそのまま使うのと同じ道理である。動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、ある程度その人間の持つ言葉を使いこなせる。日本人に感応すれば日本語を、米国人ならば英語を語ることが出来る。
  • 基本的に下級霊や動物霊は人間に感応はするが肉体の内部までは入り込めない。しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える場合がある。
  • 例外として人間の魂と動物の魂が入れ替わっていることもある。こうした場合は肉体に入り込んだと考えて良い。例えばそれが狐なら狐の様相を露呈するから、すぐ判るが悪行を積んだ霊などの場合は、その時代時代に合わせて化けているので見破ることがなかなか難しい。
  • 人間霊の場合でも或種の霊は、自分自身が高度な神界に住んでいると誤信しているものがいるが、こうした霊が感応した場合は自信をもって断言する場合が多い。人間の知らぬ世界のことを自信を以って強く告げてくるので、判別は困難で多くの場合、審神者は参ってしまう。
  • 仙人というのはどんなに高度に見えるものでも、幽界に属す。なぜなら、仙人界には戒律があるからである。神界には戒律はない。真の宗教に戒律はないのである。戒律がある宗教は亡びる。しかし、神界にも仙人的な存在はある。
  • 竜体(竜神と思われる)を持つ霊は神界にも幽界にもある。竜体だからといってそれらが全て神界に属すると思うのは誤りである。
  • 先祖霊が出る場合は、何か頼みたいことがある場合が多い。浄化した高級霊ともなれば、人間の肉体に判るような感応はほとんどない。
  • 先祖は現界に住んでいる肉体人を土台として修業するものである。また、同様に霊界に於ける自分は先祖との交流や交渉は深いものである。その先祖は神界に属する場合と幽界に属する場合とがある。神界に属するものは正流を通じて、幽界に属する場合は外流を通じて、肉体人の子孫にそれぞれ感応して来る。
  • 下級霊や動物霊の場合は「酔いどれ」のように箸にも棒にもかからないことを言ってくる。霊の要求だからといって、そのまま受け入れるのではなく、よく判断した上で処理しなければならない。
  • 霊眼で見たり霊耳で聞いたりすることは間違いが多い。霊耳は耳をふさいでも内から聞こえてくる。また、霊人と語るのは非常に危険である。
  • 参2 物を見るのはで見ることが重要である。額の目に見の誤りはなく、額の判断に間違いはない[19]。また、正神からの感応は額から入り、顔面全体に及び、やがては身体全身に及んでいくものである。逆に、悪の霊が懸かった場合は肉体の背後や首すじなどから感応し、肉体の「みぞおち」あたりに集まり、そこで頑張るものである。
  • 霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくいて、一般人はそれに騙されることがよくある。これらは、いずれも下級霊の仕業である。
  • 正神には奇跡はない。高級霊は態度が立派である[20]
  • どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはならない。馬鹿にすると反射的に審神者を馬鹿にして始末に負えないことになるので思慮が必要である。特にその霊が病気に関連をもっている場合は微妙である。霊には常にを持って接し、柔らかく持ち掛け良い方向に導いて行こうとする努力が大切である。霊の邪道的要求を受けて一時的に病気を治すと、それに倍になってぶり返すものである。
  • 悪霊自身は自身を悪だとは思っていない。
  • 霊的良識は神示や神典類によって、また体験によって養われる。さらには高度の科学書も参考になる[21]
  • 人間界(現界)のことを良く知っている霊は人間界を去って間もない霊か地上世界に長く住んでいた動物霊か、人間に憑依していた霊である。
  • 神の守護というのは人間からは全然判らないものである。判る様な守護は低い神や悪神の守護である。悪神でも大将ともなればその守護は人間には判らない[22]
  • 日本には日本の守護の神、中国には中国の、外国には外国のそれぞれの守護の神がいる。
  • 今の人間は9分9厘は幽界との繋がりを持つから、よくよく自分自身を審神し反省する必要がある。
  • 霊媒を通じてこの世に呼びかける霊の9分9厘は邪霊である。今後は更に激しくなる。
  • 少しでも、怪しいと思った場合はそれが神の言葉でも裏表の見境もなく闇雲に信じてはならない。例え神の言葉でも自分で一応考えて、審神することが重要である。
  • 悪神が懸かった時は自分では偉い神様が乗り移ったと信じ込む場合が多い。それは自分の天狗のような高慢な心が原因である。
  • 我は「天照大御神」などと名乗る霊にろくなものはいない。こうした霊に憑かれた人間は例外なく大言壮語するものであり、眉唾ものである。
  • 幽界霊も時によっては正しく善なることを言うが、それはただ言うだけである。例えるなら悪人が口先だけで善を語るようなものである。
  • 良い言葉ならば、たとえ悪神が語ってもいいのでは?とも思えるが、それは理屈である。真の善言や真言は心、言葉、行ないが一致しているから直ちに力を持つが、それらが一致していないと力は出ないのである。言葉の上のみ同一であっても例えば、同じ「はい」という返事でも喜びの時と不満の時とでは違うように、偽りの言葉は落ち着いて聞けば判るものである。
  • その人間の心に相応した神しか拝めない。悪い心で拝めば、どんなに立派な神前でも悪神が感応する。逆に悪神を拝んでも正しい愛や喜びがあり、善い念が通じるならば悪神は引っ込んでそれぞれの善い神が現れる。
  • 2重3重人格というのは2重3重の憑き物の転換によるものであり、群集心理とはその時の一時的な憑依霊達の仕業である。また、流行病のほとんどが邪霊集団の作用や仕業によるものである。
  • 霊人には何でも判っているとか神懸りで世界のことが何でも分かると思うのは大きな間違いである[23]
  • 人は死ぬ時の想念がそのまま続くので、その想念に応じた世界に住むことになるのである。この世を天国として暮らしていた人は天国へ、地獄と感じて生きていた人は自ら地獄的な想念を作り出してそのような世界に住むことになる。
  • 神界より真っ直ぐに感応する想念が正流である。幽界からや幽界を経て流れてくる想念が外流である。
  • 神的自分が本守護神であり、霊的自分が正守護神である。また、幽界的自分が副守護神である。本守護神は大神の歓喜である。
  • 偶然の真理を覚ることが大切である。この世に偶然というものは、ひとつも存在しない。高い所(神界、天界)から来るから人間には偶然や奇跡と見えるのである。神からの現われであり、その手順が現界の人間には全く分からないためにそう見えるだけである。これが判れば大安心、立命である[24]
  • 人間の肉体は最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前において必ず霊的動きが有る。また、肉体的には小さな行為であつても霊的には大きな意味や働きをしている場合が多い。
  • 天界で起こった出来事は必ず現界にも起こる。しかし、その時の現界の状況にもある程度左右され、早くなったり逆に遅くなったりする場合がある。また、時によっては順序が違う場合もある。[25]
  • 天人や天使の行為が人間にうつるのであるが、逆に人間の自由や能力の如何によっての行為も天界や霊界に反映する。日本や外国では土地が違うように天界へのうつり方も違うのである。
  • 悪いこと(天災戦争や世の中の騒動や混乱など)を待つ心は魔の心である。いつどこにそれらが来たり、起ったりするのかと待ち望んでいるような心は悪魔に使われているのである。

  1. ^ 二日んの巻(ジシンの巻)は全19帖その全てが抽象的な絵のみで書記されている。
  2. ^ 平成19年現在、これらの13巻は未だ発表されていない。また、発表されている巻の中にも「星座の巻」第二十四帖のように未発表で欠帖の部分が有る。
  3. ^ 「|三の巻」(ウミの巻)第十五帖、「龍音の巻」第十二帖。
  4. ^ 東京の千駄ヶ谷に在った八幡神社(鳩森八幡神社)で氏子総代を務めていた高井是空が設立した日本古代史を研究していたグループ。東京の原宿にあり、科学畑の人物が多かったといわれる。
  5. ^ 霊媒に懸かった霊を判定する役割の人間。神の名を語る下級霊が懸かってくる場合も多いため、それらを見分ける幅広く深い霊的知識が必要とされる。
  6. ^ 天明を訪れた将校は「陸軍の一部ではこの神示をガリ版にして配っているほど有名で信用されているのだ。」と天明に語ったという。
  7. ^ 1879年明治12年)10月1日-1960年(昭和35年)10月10日岡山県生まれ。宗教家、思想家。社会主義、社会運動家の「九津見房子」は高田の元妻である。
  8. ^ 「天之日津久神社」が千葉県印旛郡公津村台方に在る事は扶乩実験後、数日後に実験の参加者の一人がいろいろ調べて天明に知らせたという。また、天明自身に自動書記が起こるようになってからも最初の頃は自分みたいなつまらぬ人間に懸かる神霊だからさして格の高い神だとは思っていなかったという。
  9. ^ 「上つ巻」第十四帖で「身魂の洗濯とは心の洗濯とは、魂ばかりの洗濯でないぞ」、また、「ア火ハの巻(アホバの巻)」第十五帖でも「ミタマとは身と霊であるぞ。」と述べられている。
  10. ^ 「天つ巻」第四帖で「今度は世界中、神神様も畜生も悪魔も餓鬼も外道も三千世界の大洗濯ざから、そんなチヨロコイ事ではないのざぞ。」や「富士の巻」第二十帖でも「日本ばかりでないぞ、世界中はおろか三千世界の大洗濯と申してあろうがな、神にすがりて神の申す通りにするより外には道ないぞ。」と述べられている。
  11. ^ 「至恩之巻」第十三帖で「死ぬか生るかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の悉く(ことごとく)が同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。」と書記されている。また、「紫金之巻」第五帖でも「大地震、ヒ(火)の雨降らしての大洗濯であるから、一人のがれ(逃れ)ようとて、神でものがれることは出来んぞ、天地まぜまぜとなるのぞ、ひっくり返るのぞ」と語られている。
  12. ^ 「富士の巻」第二十帖で「臣民ばかりでないぞ、神々様さへ今度は無くなる方あるぞ。」や「松の巻」第二十二帖でも「世変りたら生命長くなるぞ。今迄上にあがりて楽してゐた守護神は大峠越せん事になるぞ。」と書記されている。
  13. ^ 「日の出の巻」第十三帖では「此れまでの仕組みや信仰は方便のものでありたぞ。今度は正味の信仰であるぞ、神に真直ぐに向ふのざぞ。日向と申してあろうがな。」と語っている。
  14. ^ いわゆる、この世とあの世を含めたすべての世界のことである。
  15. ^ 「ゑらぐ」は文法上の動詞で「楽しそうに笑う。楽しんで笑う。」の意味。
  16. ^ 腹一杯食べてはならん、死に行く道ぞ、二分を先づ神にささげよ。流行病は邪霊集団のしわざ、今にわからん病、世界中の病はげしくなるぞ。」(五葉之巻第十四帖)、「みなみな気つかん理、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。」(冬の巻補帖)
  17. ^ 一般には聞きなれない名称だが、同じく第四帖で「陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。」と語っている。
  18. ^ 「龍音之巻」第十帖で「肉体霊、外部霊、副守護霊などの想念は、時によって動物的、幽界的となるものであるから、それと同一波長の動物的霊が感応する、感応はするが肉体の内部までは入り込めない、しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える状態となるのである。先祖霊も大体同様であるぞ。」と語っている。
  19. ^ 「二日んの巻(ジシンの巻)」第六帖で「地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない」と述べられている。
  20. ^ 「龍音の巻」第十八帖で「正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ。わかりたか。」と述べている。
  21. ^ 「龍音之巻」第六帖で「科学を馬鹿にしてはならん。幽界の霊であっても高度のものともなれば、神界の高級神霊と区別することが六ヶ敷しい(難しい)ぞ。」と述べている。
  22. ^ 「日の出の巻」第二十一帖でも「悪の大将の神憑は、神憑と分らんぞ、気つけて呉れよ」と述べられている。
  23. ^ 神懸りについては「磐戸(一八十)の巻」第九帖で「㋹(神)が誰にでも懸かりて、すぐ何でも出来ると思うていると思いが違うから気つけておくぞ。神懸かりに凝る(こる)とロクなことないからホドホド(程々)にしてくれよ。この道は中行く道と申してあろがな。」と述べられている。
  24. ^ 偶然の事については「星座之巻」第一帖でも「偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ。」とも述べられている。
  25. ^ 「二日んの巻(ジシンの巻)」第七帖で「地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行い得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。」と述べられている。
  26. ^ 天明の妻である岡本三典によると、最初にこのお告げが下った時は天明自身その理由が分からず「何か粗相がございましたらどうか、お許し下さい」と、ひたすらお詫びをし許しを請うたが、許しが出なかったのだという。3日目に遂に天明は覚悟を決め、神前にお供えの「」をわざと落としその責任を取るという形で自ら留守神主の職を辞して鳩森八幡神社を去った。この事件で正神主が不在の間、天明とともに留守を預かっていた正神主の家族全員は即死だったという。
  27. ^ 日月神示の原文には記号が多いが、この㋹はその中でも最も多く出てくる記号のひとつである。読み方としては神や光、身魂を磨いて神霊(高級神霊)がどっしりと鎮まった人間のことだとされる。また、真ん中で中心といった意味もあるとされる。ここでは日本のことを指していると考えられている。
  28. ^ 神示の中では随所に出てくるが、今後に到来する理想世界のことだと言われている。また、神の国、神の世とも書記されている。
  29. ^ 日月神示に先立って国常立尊が大本の「出口なお」に懸かって自動書記させたといわれる「大本神諭」でも、同様な事を述べている部分が有り、「天の巻」第1輯(集)、書記日、明治二十五年旧正月で「世界国々所々に、世の立替へを知らす神柱は、沢山現はれるぞよ。皆艮金神(うしとらこんじん)、国常立尊の仕組で、世界へ知らして在るぞよ。」と述べられている。
  30. ^ 同様なことは「一八(いは)の巻」第十帖でも「人民には見当取れん大きな大きな大望(たいもう)ざから、その型だけでよいからと申しているのぢゃ、型して下されよ。改心の見込みついたら、世の元からの生き神が、おのおのにタマ(魂)入れてやるから、力添え致してやるから、せめてそこまで磨いて下されよ。悪は伸びるのも早いが、枯れるのも早いぞ。いざとなればポキンぞ。花のまま枯れるのもあるぞ。」と述べられている。
  31. ^ 同様なことを述べている帖はいくつか有り、「 上つ巻」第二十一帖と「下つ巻」第四帖で「世の元の大神の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組分りてはならず分らねばならず、なかなかに六ヶ敷(むずかしい)仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。」「この仕組知らさなならず、知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ、世の元からの仕組ざから、いよいよ岩戸開く時来たぞ。」また、「日月の巻」第三十六帖でも「今度の愈々(いよいよ)の仕組は臣民の知りた事ではないぞ、神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角申さずと、神の神示腹に入れて身魂磨いて素直に聞いてくれよ。それが第一等ざぞ。」などで語られている。
  32. ^ 「下つ巻」第十四帖で「早う身魂みがいてく呉れよ、みがけただけの神をつけて、天晴れ後の世に残る手柄立てさすぞ。小さいことはそれぞれの神にきいて呉れよ、一人ひとり、何でもききたいことは、病直すことも、それぞれの神がするから、サニワでお告げうけて呉れよ、この方の家来の神が知らせるから何でもきけよ。病も直してやるぞ、その神たよりたなら、身魂みがけただけの神徳あるぞ。この世始まってない今度の岩戸開きざから、これからがいよいよぞ。」と述べられている。
  33. ^ 「世は七度の大変りと知らしてあろう。」(黄金の巻第二十六帖)、「世はグルグルと七変り、改心の為世界の民皆、今度は引上げ一旦みなあるぞ。」(黄金の巻第七十一帖)、また、「世は七度の大変り、いよいよの段階に入ったら、何が何だか、われよしの人民にはいよいよ判らなくなり、あせればあせる程ふかみに落込むぞ。」(月光の巻第四十帖)とそれぞれ述べている。
  34. ^ 「松の巻」第八帖で「今度の建替は、此の世始まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民沢山出来るぞ。」と述べられている。
  35. ^ 同様なことを「大本神諭」でも国常立尊が今までの立替について次のように述べている。「昔から立替は在りたなれど、臭い物に蓋をした様な事ばかりが仕(し)て有りたので根本からの動きの取れん立替は致して無いから、何に付けても大望であるぞよ。」(「天の巻」第1輯(集)。書記日、大正四年旧十二月二日)。
  36. ^ この「元のキの道」については、「んめの巻(梅の巻)」第二十一帖で「途中からの神は途中からの神、途中からの教は途中からの教、今度の御用は元のキの道ざぞ、世の元からの神でないと判らんぞ、出来はせんぞ、生れ赤児の心とは、途中からの心、教すっかり捨てて了へと云ふ事ざぞ。」と述べられている。また、「一八(いは)の巻」第二帖でも「この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし(楽し)、世にするのぢゃと申してあること愈々(いよいよ)ざ、人民、臣民勇んでやりて下され。神々様守護神どの、勇め勇め。」と書記されている。
  37. ^ 神示には、この北の国はロシアであるとはっきり記されている。「日の出の巻」第七帖で「おろしやにあがりておりた極悪の悪神、愈々(いよいよ)㋹の国に攻め寄せて来るぞ。北に気つけと、北が愈々のキリギリざと申して執念(くどく)気つけてありた事近ふなりたぞ。」と書記されている。また、同じ第七帖で「ろしあの悪神の御活動と申すものは神々様にもこれは到底かなはん思ふ様に激しき御力ぞ。」と述べている。これ以外でも「北から来るぞ。神は気もない時から知らして置くから、よくこの神示、心にしめて居れよ。」(上つ巻第二十五帖)、「オロシアの悪神と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。北に気つけて呉れよ。」(日の出の巻第二十帖)と書記され北(ロシア)からの攻撃があるらしい事が複数の帖で述べられている。
  38. ^ 一般的には「宵の明星」は金星を指すが、ここでは金星ではない他の未知の天体を指していると考えられる。「大本」の出口王仁三郎もその口述著書である霊界物語第1巻で「ミロクの世」の到来に先立って、前兆として未知の天体が出現して、世の人が驚嘆するらしい様子を次のように語っている。「天に王星の顕はれ、地上の学者知者の驚嘆する時こそ、天国の政治の地上に移され、仁愛神政の世(みろくの世、ミロクの世)に近づいた時なので、これがいはゆる三千世界の立替立直しの開始である。」(霊界物語 第1巻霊主体従 子の巻)で語り記させており、近未来にこの今まで未知であった天体が出現し誰の目にも目撃されるであろう事は、ほぼ確実だと思われる。また、「王星」という表現がされていることから巨大で極めて大きな特徴を持つ天体だと考えられる。
  39. ^ この「八のつく日」については「五葉之巻」第十二帖で「八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか。」と述べられている。
  40. ^ 「上つ巻」第一帖で「日本はお土があかる、外国はお土がさかる。」と書記され外国の中には海に沈む所もあると述べている。
  41. ^ 天明はこの日を何より楽しみにしていた。天明はこの日は公休を取り、切符も手配し(当時は戦時中で切符を買うにも2日がかりだったという)、お弁当の「おにぎり」まで自分で作っていたほど酒が飲めることを心待ちにしていたという。しかし、こうした準備も全て終えた行く前日の夜になって高田が鳩森八幡神社の天明を訪れ、「先方から手紙が来て今回は待ってほしいと言ってきた(その手紙の文面は少し前に不意の来客があり「どぶろく」をふるまったために、2人に飲んでもらうだけの十分な量の「どぶろく」がなくなってしまったので、あと半月ほど待って欲しいとの内容だったという)」と今回の印旛郡公津村台方行きが急遽、中止、延期になった事を天明に告げたという。これを聞かされた天明はこの上もなく非常に残念だったと当時の心境を後に語っている。それでも結局行ったのは、この2か月前の扶乩(フーチ)実験の時に現れた神霊を祀る「天之日津久神社」がこの近くに在るという不思議な偶然さと、実験では神霊が出てきてくれたおかげで天明自身の面目が立ち、非常に助かった(そもそも、修史協翼会のメンバーに扶乩(フーチ)実験を行うことを提案したのは天明だった)ということで、この神霊に「御礼」と「感謝」の気持ちを伝えたいということで天明は1人で千葉県印旛郡公津村台方(現:成田市台方)に訪れた。なお、この話には後日談があり、この2年後に「天之日津久神社」の近くに移り住んだ天明は、しばらくしてから2年前に訪れる予定だった「どぶろく」を造っている家の主人の「小川源一郎」から「天明さん1人が飲むぐらいなら当時でも十分にあった。」と聞かされたという。なお、小川はこの当時、公津村の村長を務めており、地元では名士だったという。
  42. ^ 天明によるとその場所は本殿左側奥にある大杉を右手にして少し行った所だったという。しかし、挨拶しようと訪れた時には熊笹や雑草が茂っていて小径(小道)さえなく、家がそこに在ったとはとても思えないような場所だったという。
  43. ^ 1886年明治19年)-1972年昭和47年)。北海道小樽生まれ。
  44. ^ 「一二㋹(ひつくのかみ)奉讃会」。「一二神示拝読会」。
  45. ^ 「地つ巻」第二十一帖でも「臣民からは阿房(あほう)に見えても、素直な人には神がかかり易いのであるから、早う素直に致して呉れよ。」と述べている。






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