山本有三 山本有三の概要

山本有三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/01 04:05 UTC 版)

山本 有三
(やまもと ゆうぞう)
1954年昭和29年)、林忠彦撮影
誕生 山本 勇造
1887年7月27日
日本 栃木県下都賀郡栃木町
死没 (1974-01-11) 1974年1月11日(86歳没)
日本 静岡県熱海市
墓地 近龍寺(栃木市
職業 劇作家小説家政治家
最終学歴 東京帝国大学文科大学独文科選科
活動期間 1920年 - 1974年
ジャンル 小説戯曲
文学活動 ふりがな廃止論
代表作 『嬰児ごろし』(1920年、戯曲)
坂崎出羽守』(1921年、戯曲)
『同志の人々』(1923年、戯曲)
『波』(1923年)
女の一生』(1932年)
真実一路』(1935年)
路傍の石』(1937年)
主な受賞歴 文化勲章(1965年)
デビュー作 『生命の冠』(1920年)
ウィキポータル 文学
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山本 勇造
やまもと ゆうぞう
生年月日 1887年7月27日
出生地 栃木県下都賀郡栃木町
没年月日 1974年1月11日(満86歳没)
死没地 静岡県熱海市
出身校 東京帝国大学文科大学修了
前職 劇作家、小説家
所属政党無所属倶楽部→)
緑風会

選挙区 全国区
当選回数 1回
在任期間 1947年5月3日 - 1953年5月2日

選挙区 勅選
在任期間 1946年5月18日[1] - 1947年5月2日
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人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。

第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。

来歴

呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。跡取り息子として裕福に育ち[3]高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが、一度は逃げ出して故郷に戻る。上級学校への進学を希望したが許されず、結局、家業を手伝うことになる。

この頃、佐佐木信綱が主宰する短歌結社「竹柏会」に入会し、新派和歌を学んだ。また『中学世界』や『萬朝報』『文章世界』に投稿して入選している[4]。その後、1905年に母の説得で再度上京。正則英語学校東京中学に通い[5]、1908年(明治41年)に東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月一高入学。同級だった近衛文麿とは生涯の親交を暖めた。1年の留年を経て一高を中退し[6]東京帝国大学文科大学独文学科選科に入る。

在学中から『新思潮』創刊に参加し、修了後、早稲田大学ドイツ語講師として働きながら[7]、1920年には戯曲『生命の冠』で文壇デビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。一高時代落第後に同級となった菊池寛芥川龍之介らとは文芸家協会を結成し、内務省検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。1932年(昭和7年)には新設された明治大学文芸科の科長に就任。しかし、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』が連載中止に追い込まれたりし、日増しに政府・軍部の圧迫を受けるようになった。1933年6月3日、共産党に資金を提供した疑いで検挙された[8]。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)には日本文学報国会理事に選ばれている。

1936年、三鷹市(当時は東京府下)の洋館に移り住んだ。1926年築の、当時としては珍しい鉄筋コンクリート2階建で、前所有者から買い受けた[9]。自作の小説、戯曲を執筆するだけでなく、子供向けの『日本少国民文庫』(全16巻)の編集も担った。編集主任には、以前から親交があり、当時は失業中だった吉野源三郎を登用した。そのうちの一冊で、現在も読み継がれる『君たちはどう生きるか』の1937年初版は、吉野と山本の共著となっている。また太平洋戦争下の1942年夏には、子供が自由に蔵書を読めるようにと、自宅を「ミタカ少国民文庫」として開放した[10]

戦後は貴族院勅選議員に勅任され、国語国字問題に取り組んで「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選。参議院議員を1期6年間務めて緑風会の中心人物となり、政治家としても名を残したが、積極的な創作活動は終生変わらなかった。1965年には文化勲章を受章している。他の叙勲は幾度か辞退していたが、1972年に国会議員の功労として銀杯一組を賜った[11]

1974年1月5日に国立熱海病院(静岡県熱海市)に入院し、1月11日に高血圧症から肺炎による急性心不全を併発して死去。戒名は山本有三大居士[12]。命日の1月11日は、1月11日の数字の並びと有三の「三」の字にちなみ、一一一忌(いちいちいちき)と呼ばれている。

家族

父・山本元吉は、宇都宮藩士(足軽の小頭)だったが、明治維新後、裁判所書記などをした後、呉服屋で修業を積み独立するも失敗。かつぎ商人となって苦労の末、素封家や富商、三業地(花街)などの固定客を相手に、外商を主にした呉服業を栃木町で営んだ[3]。1907年に脳溢血で死去[3]。姉がいたが、夭折したため一人っ子[3]だった。

1917年に母の勧めで最初の妻と結婚するも離婚[7]。1919年3月に、本田増次郎と井岡ふでの娘・井岡はな(1897-1930)と再婚し、有一(1921-1930年)、朋子(1925-2007年)、玲子(1927年-)、鞠子(1928-2010年)の四子をもうける[13][14]。妻のはなは両親が未入籍だったため私生児で、5歳の時に結核で母を亡くした後、母方の祖母や親族の間を転々とし、跡見女学校を卒業。21歳の時に同校学監の跡見李子(ももこ)の紹介で10歳年上の有三と結婚した[15]


  1. ^ 官報』第5804号(昭和21年5月23日)
  2. ^ "山本有三". 『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館. コトバンクより2022年3月28日閲覧
  3. ^ a b c d 社会派の戯曲でスタート 山本有三(1) 千葉日報(2014年02月6日)
  4. ^ 荒正人「作家と作品  山本有三」『日本文学全集 山本有三集』集英社
  5. ^ 卒業生紹介 東京高等学校公式サイト
  6. ^ 高橋英夫『偉大なる暗闇: 師岩元禎と弟子たち』63ページ
  7. ^ a b 小説を新聞に連載 山本有三(2)千葉日報社(2014年02月20日)
  8. ^ 『司法研究』28輯9「プロレタリア文化運動に就いての研究」
  9. ^ a b c d e 「占領とは何か 接収された山本有三邸が伝える実情」産経新聞ニュース(2022年4月13日)2022年5月2日閲覧
  10. ^ 山本有三 三鷹の日々/記念館で企画展 書簡など約60点/「君たちはどう生きるか」吉野源三郎との絆示す『読売新聞』朝刊2018年11月4日(都民版)
  11. ^ 早川正信『山本有三の世界 比較文学的研究』165ページ、和泉書院、1987年
  12. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)347頁
  13. ^ 本田関係略家系図 本田増次郎Web記念館
  14. ^ 妻は優秀な秘書 馬込文学マラソン(2015年3月7日)
  15. ^ 本田増次郎 美咲町著名人
  16. ^ 関口安義『評伝松岡譲』小沢書店、1991年
  17. ^ 『みんなで読もう山本有三』(笠間書院、2006年)pp.216-225
  18. ^ 山本有三文学碑 - 栃木市観光協会(2021年8月24日閲覧)
  19. ^ 三鷹市山本有三記念館 | 公益財団法人 三鷹市スポーツと文化財団(2021年8月24日閲覧)
  20. ^ 山本有三ふるさと記念館 - 栃木市観光協会(2021年8月24日閲覧)
  21. ^ 塩崎 1999.
  22. ^ a b c 栃木市教育委員会 2014, p. 51.
  23. ^ 栃木市教育委員会 2014, p. 88.
  24. ^ 名言格言集
  25. ^ 著書『竹』


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