吉村秀雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 19:56 UTC 版)
生い立ち
幼少期
吉村秀雄は筑紫郡那珂村で材木屋を営む父、吉村又平と母フイの間に次男として生まれた[3]。兄、姉、弟の4人兄弟であった。祖父は樵で生計を立てていたが作業中の事故で片脚を切断し、代わって息子の又平が家計を担うこととなるが、村で唯一製材機を導入するなど、事業は繁盛していた[3]。幼少期は二ヵ月半違いの従兄弟である斉(ひとし)と共に遊びやいたずらに明け暮れ、勉強に打ち込むようなことはなかったが成績は優秀であった[4]。小学校高学年になると野球を始め、左利きということもあってピッチャーをつとめた。1930年代の九州では川上哲治のいた熊本工業と福岡工業が野球の名門で、吉村は福岡工業へ進学し野球を続けることを希望していた。しかし、その頃父又平は本業が疎かになるほどに発明に没頭しており、家業は傾きかけていた。700あまりの特許を取得するも大した稼ぎにはならず、家の経済状況悪化のため、吉村は福岡工業への進学を断念して高等小学校へと進学せざるをえなかった[4]。
1936年、高等小学校の卒業が迫るころ、脊振山でフランスの飛行士アンドレ・ジャピーの操縦する飛行機が遭難する事故が発生した。小学生の頃、雑餉隈にあった九州飛行機の工場見学へ行った際に飛行機に関心を持ち、以来空への憧れを抱いていた吉村は、自宅から30キロメートルほど離れていた事故現場まで歩いて見物に向かった[5]。この事故は野球を断念する以前の幼少期に抱いていた空への憧れを甦らせ、海軍飛行予科練習生(通称:予科練)の受験を決意させた[5]。そして、この年の一万数千人の志願者がいた試験を無事突破し、219人の合格者の内の1人となった[6]。
予科練時代
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F2%2F21%2FHeadquarters_of_Yokosuka_Navy_Air_Corps.jpg%2F200px-Headquarters_of_Yokosuka_Navy_Air_Corps.jpg)
吉村の在籍していた海軍飛行予科練第八期生は、一班が15歳から16歳の少年たち、15、6名で構成されていた[7]。その中で、14歳8ヶ月と年少の吉村にとって日々行われる体力訓練は過酷なものであったが、訓練での失敗には連帯責任が課せられるため、皆に迷惑をかけまいとこれを必死に耐えた[7]。入隊から一年が経ち、専修過程の選別において吉村は操縦科を選択し、霞ヶ浦海軍航空隊へと移動することとなった。霞ヶ浦での操縦訓練を順調にこなしていた吉村であったが、30時間ほどの訓練を消化した頃、訓練中に搭乗した練習機、三式陸上初歩練習機のエンジンから火災が発生し、緊急離脱を強いられた[8]。高度800メートルから離脱したがパラシュートがうまく機能せず、高度100メートルまで落下したのちにやっとパラシュートは開くが、速度が増した状態での作動に胸部を圧迫し、意識を失った。病院のベッドで意識は取り戻したが肋膜炎を起こしており、病状が安定した後の検査では結核菌が検出され、吉村は予科練を除隊となった[9]。そして、除隊手当て700円[注釈 1]を手に帰郷を余儀なくされた。
航空機関士として
帰郷して2ヶ月ほど療養し、医者から結核の心配もないと診断されると、吉村は操縦士としての道は絶たれても飛行機に関わりたいと考え、福岡市、雁ノ巣飛行場にあった大日本航空福岡支所で整備士として働き始めた[10]。しかし、当時難関であった予科練に合格した実績があるにもかかわらず、日々あてがわれる単純作業に嫌気が差した吉村は、給料の支払われない研究員となる代わりに実務訓練をつみ、独学で国家検定試験を受験して、航空機関士を目指すことを決意した[10]。2年間勉強に専念した結果航空機関士の検定試験に合格、日華航空、満州航空などからも声がかかったが、古巣である大日本航空で航空機関士として働き続けることを選択した[11]。航空機関士免許は9月末に発行されたが、当時年齢制限に満たない18歳であったため一度返却するよう連絡が入り、1941年10月13日、19歳の誕生日を過ぎてから免許証は再び吉村の手元に届いた。日本で398人目の当時最も若い航空機関士であった[12]。
戦争体験
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Fd%2Fde%2FP1Y_Kyokkou_Aurora_or_Ginga_Milky_Way_Frances_P1Y-5s.jpg%2F200px-P1Y_Kyokkou_Aurora_or_Ginga_Milky_Way_Frances_P1Y-5s.jpg)
航空機関士として入社後は福岡から沖縄、台湾、北京、上海などを飛び回っていた吉村であったが、1941年12月8日の真珠湾攻撃を境に大日本航空は海軍徴用隊、陸軍徴用隊、大日本航空残留組に三分割され[13]、吉村は日本でしばらく経験をつんだ後、海軍徴用隊として1942年7月にはシンガポールへ派遣されることとなった[14]。シンガポールは比較的安定していたため、現地ではギターを弾いたり、ダンスホールに通う、ハーレーダビッドソンを乗り回すなど余裕のある生活が可能であったが[15]、1943年2月6日、バンコクからサイゴンへの道中、前線であったクェゼリン島で弟、清之が戦死したという一報が吉村のもとに届いた[16]。この頃から不安や恐怖を忘れるために、吉村はたびたび深酒をするようになった[17]。1945年、戦況は悪化の一途をたどり、シンガポールにも危険が及んだため吉村は台北へと移動することとなった。ある夜、海軍参謀に呼び出された吉村は特攻機の夜間飛行を先導するという特殊任務を課せられた[18]。銀河に搭乗し予科練を出たばかりの若者16名あまりを死地へ送り出し、弟や予科練時代の旧友の死を受け、吉村は毎晩酒に溺れるような生活を続けた[19]。その結果、胃腫瘍で大量に吐血し、急遽胃の切除手術を受けることとなった[19]。酒におぼれていた吉村には麻酔が効きにくくなっていたため、ベッドに手足を縛りつけた状態で手術は行われ、胃の3分の2を切除することになった[19]。同期の予科練第八期生219名中、189名は戦死[20]。こうして終戦を迎えた。
逮捕歴
終戦直後、シンガポールで暮らしていた吉村は英語が堪能であったため、吉村の周囲には進駐軍のアメリカ兵達が集まるようになっていた[21]。最初のうちは母国にいる家族への土産物などを探して欲しいという注文を受け、それに応えていたが、次第に彼らの要求はウイスキーなどのアルコールへと変わっていった[21]。金銭の代わりに食べ物を要求すると、米兵は軍支給品の缶詰やバター、砂糖、煙草といったものを持ち込み、吉村はこれを闇市で売りさばくことにより多くの利益を得た[22]。吉村は戦時中に結婚しており、妻である直江などは手を引くよう再三忠告するもこれを聞き入れずに闇取引を続けた結果、1946年の年明け間もない頃、吉村のもとにミリタリーポリスが現れた[22]。逮捕された時点で自宅には4tトラック3台分に相当する闇物資が蓄えられていたため、言い逃れはできなかった[22]。1ヵ月ほど留置所で生活した後で釈放はされたが、軍事裁判にかけられ、懲役1年6ヶ月の実刑判決が言い渡された[22]。ちょうどその頃、1946年4月には長女、南海子が誕生していた。日米間に講和条約が結ばれれば刑罰が消滅するため、吉村は入院することによって医師の診断書を手に入れ、家業を行いながら講和条約の締結を待った。しかし講和条約はなかなか締結されなかった。結局まじめに刑期を勤めれば3分の1の期間で出所できるため、吉村は1949年の春、福岡刑務所に入所した[23]。
注釈
- ^ 当時で家を一軒建てられるほどの金額であった。
- ^ 開業当初の富士スピードウェイに設置されていた30度バンクと呼ばれるコーナーにはセーフティーゾーンが設けられておらず、実際に10月17日の二輪の日本グランプリの5ヶ月前、1966年5月3日に行われた四輪の日本グランプリでは、永井賢一によるレース中の死亡事故が発生していた。その後もこの30度バンクでは1973年に中野雅晴、さらに1974年には風戸裕と鈴木誠一の両名が亡くなるという死亡事故が相次ぎ、結局1974年に廃止が決定された。「富士スピードウェイ#コースレイアウト」も参照
- ^ 移転当初は秋多町、後に秋川市となり、2013年現在はあきる野市。
- ^ YOSHIMURA R&D社屋を焼失し、仕事が出来なくなった際には渡辺末広を自身が率いるディクソンレーシングで引き受けるなどの支援も行った。
- ^ 後にヨシムラでも走ることになるグレーム・クロスビーはロス・ハナンの下で走っているところを森脇によって才能を見出され、スカウトされた。
- ^ 後のインタビューで浅川邦夫は、ヨシムラパーツショップ加藤から加藤昇平、大矢幸二、ヨシムラR&D(加藤昇平が吉村由美子と結婚するまで活動していた「厚木ハイスピード」というレーシングチームが結婚を機に形を変えたものでアメリカのYOSHIMURA R&Dとは別のもの)に所属していた友人の加藤、パーツショップ加藤によく来ていた座間キャンプに所属するアメリカ人のウィル、デロー・マーチン、アメリカから吉村秀雄、吉村不二雄、クーリー、ボールドウィン、これに浅川を加えた10人でオートバイに関わることが出来る人間はすべてだったと語っている。
- ^ 4ストローク750cc以下、または2ストローク500cc以下の公道用市販車をベースにした改造オートバイによって競われるクラス。
- ^ 4ストローク400cc以下、または2ストローク250cc以下の公道用市販車をベースにしたオートバイによって競われるクラス。
出典
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固有名詞の分類
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