吉村秀雄 渡米

吉村秀雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 19:56 UTC 版)

渡米

集合管の開発

吉村が集合管を発案したのはS800の開発を行っていた時であった[1]。当初は軽量化のために4本のエキゾーストパイプをまとめる事を思いつき、これを実践してみた[1]。すると、馬力が上がり、トルクの谷間が解消されていたため、集合管の可能性に目をつけ試行錯誤を繰り返した[1]。四輪に限らず、集合管は二輪でも試された。まず、直列2気筒エンジンのホンダ・CB250/CB350で試すも思うような成果が得られず、エキゾーストパイプの太さや集合部までの長さなどを変えた様々な試作品を作り、CB750Four用に作った集合管では最大出力を7psあまり向上させることに成功した[75]。CB750Four用初代集合管は2本ずつを上下に重ねた後に1本にまとまる4into1型式の集合方式で、耐熱黒塗装が施されたものであった[75]

アメリカでのレース参戦

アメリカ参戦当初は順風満帆とはいかなかった。初戦のタラテガ200マイルはリタイアに終わったため、オンタリオ250マイルへ向けて、吉村は集合管を携えて初めてアメリカへ渡った。オンタリオ250マイルはゲイリー・フィッシャーとジンジャー・モロイ英語版の2名で臨むも、1台はキャブレターから砂塵を吸い込んだためにエンジンブローでリタイア、もう1台はまたしてもカムチェーンが破断し、両者ともリタイアに終わった[76]。だが、オンタリオで発表された集合管は高い注目を浴び、アメリカのみならずイギリスのモーターサイクル誌にも掲載されるほどの影響を与えた[76]

翌年、1972年のデイトナに参加するため吉村は再びアメリカへ渡った。すると日本では集合管に対して懐疑的な見方がなされていたのに対し、アメリカでは既に集合管を模倣した製品が出ていたことに吉村は驚いた[77]。レースは予選こそゲイリー・フィッシャーが5番手、ロジャー・レイマンが8番手につけ、ゲイリー・フィッシャーは11周にわたってトップだったが、結局両者ともオイルパンからのオイル漏れによりリタイアに終わった[78]

ヨシムラレーシングの共同設立

アメリカで知名度を得た事により、ある日フライング・タイガー・ラインで機関士を務めるデール・アレキサンダーとパイロットのスター・トンプソンが商談に訪れた[71]。彼らは多くの製品を現金で購入していき、ヨシムラの製品がアメリカでいかに人気かを熱心に説き、吉村はアメリカでの理解者と2人を好意的に受け止めた[71]。1972年になると彼らの来訪頻度はさらに増え、アメリカでの販売網開拓のために50対50での共同出資による新会社設立を持ちかけた[79]。四輪のプライベーターに対して不利なレギュレーションから四輪に対する熱意はこの頃には失せており、また2ストロークエンジンの台頭による国内での苦戦から、4ストロークエンジンが活躍できる場を求めていた吉村にとってこの提案は非常に魅力的に感じられた[80]。こうして1972年末にロサンゼルスシミバレーにヨシムラレーシングが設立された[81]

支払いの遅延、家庭内不和

カワサキ・Z1

ヨシムラレーシング設立当初は順調であった。販売する製品は順調に売れ、ホンダ車に関してはシェアの50%あまり、カワサキ・Z1においてはほぼ独占的なシェアを誇っていた[82]。1973年のデイトナはレギュレーションが変更されたため準備が間に合わず見合わせたが、同時に開催された最高速チャレンジやボンネビルで開催された最高速チャレンジへZ1、CB750Four、CB500を参加させ、12個もの世界記録を樹立した[83]。同年9月にはフランスル・マンボルドール24時間耐久ロードレースへ参加するシデム・カワサキへZ1エンジンを供給すると4台が完走し、2位を筆頭に4位、5位、7位を獲得した[84]

しかし次第にデール、スター両名からは不自然な点が見られるようになってきた。運転資金のために企業立ち上げから数ヶ月送金がないことは理解できても、アメリカから延々送金がないことに南海子は不信感を覚え、不二雄もデール、スター両名が高級車を購入するなど羽振りのよい2人を見て南海子同様の疑念を持った[85]。再三送金を迫るもついに売掛金の滞納は2000万を越え、南海子は吉村に詰め寄るも吉村は「俺がアメリカへ行けばすべて解決する」と、これを一蹴し、最終的に自分の意見に楯突いた南海子に勘当を言い渡した[86]。当時、南海子は森脇と結婚し長女も生まれていたため、ひとまず森脇の実家のあった神戸市へ身を寄せ、1973年7月、三重県鈴鹿市モリワキエンジニアリングを創業した[87]

1974年1月には秋川工場の土地も売れ、家財道具や設備をアメリカへ送り、渡米の準備が着々と進む中、吉村は準備を手伝うために訪れていた南海子達の前で突然喀血した[88]。予期せぬ事態に入院を余儀なくされ、渡米は5月になったが、秋川の工場を清算した金から南海子と由美子に300万円ずつ渡し、吉村はアメリカへ出発した[89]

企業乗っ取り

渡米するなり家族達の危惧は当たっている事が明らかになった。ヨシムラのアメリカ工場は小規模であったが、生産体制を考慮すればそれで十分なものであったにもかかわらず、デール、スター両名は吉村に断りなく社屋から数100メートルのところに新たな設備の増築を行っていた[90]。支払いを迫るも設備投資を理由に拒否、それだけでなく在庫の所有権も主張し、吉村の要求を退けた[90]。吉村は製品の品質がものをいう世界で部品供給が止まればヨシムラレーシングは有名無実のものになると考え、国内からの製品発送を止めるべく日本の関連企業への連絡に奔走した[91]。デール、スター両名は信用状を根拠に納品を迫るも、多くの企業は吉村に味方した[92]。解決のめどが立たないまま時間だけが経過するにつれ、相手方から第三者の介入が提案された[92]。その男はトランス・ワールド航空のパイロットを務める、ヨシムラレーシングの常連のアメリカ人男性であった[93]。吉村は相手にとって都合の良い人選であるのではないかと警戒していたが、この男性は双方の意見を聞くと吉村の主張が正しいと答えた[94]。しかし、当初第三者の介入による解決を要求していたデール、スター両名は突如第三者の代表権は無効だと主張しだし、最終的に裁判で争うことになった[94]。解決の正当性を問う裁判は半年続き、裁判費用として20,000ドルを既に費やしていた[94]。だが、結局第三者の代表権は無効であり、これまで通り会社の所有権は50対50という判決が言い渡された[94]。吉村は判決に対してアメリカにおけるヨシムラレーシングの再起を断念し、すべての権利を放棄せざるをえないと結論付けた[94]。そして、不二雄をアメリカで新たな企業設立の準備にあたらせ、無念の帰路に着いた[95]

YOSHIMURA R&D 立ち上げ

帰国すると吉村はひとまず神奈川県厚木市で生活する次女、由美子の下に身を寄せ、森脇の工場で部品製造に取り組むことにした[95]。幸いなことに日本はビッグバイクブームが訪れ、吉村の作る集合管は順調に売り上げをのばした[96]。また、イギリスのデビット・ディクソン[注釈 4]やオーストラリアのロス・ハナン[注釈 5]といった海外の経営者達からの代理販売の提案も得られた[96]。そうして力を蓄えつつ、アメリカでの再起のチャンスを伺う日々が続いた。こうして吉村は1975年4月、再び渡米した[97]。だがこの時、アメリカで立ち上げに尽力していた不二雄が一時帰国し、再びアメリカに入国しようとビザを申請するとビザが下りないという事態が発生した[98]。ヨシムラレーシングの社員ということでアメリカに入国していた不二雄に対し、デール、スター両名が手を回して入国を妨害したのだった[98]。不二雄は森脇のところに身を寄せ、ビザが下りるまで日本から支援することしかできなかった。

再渡米から2ヵ月後の1975年6月1日、吉村はロサンゼルス郊外、ノースハリウッドに新会社「YOSHIMURA R&D」を設立[99]。カタカナの「ヨシムラ」は既に商標登録され、使えないための屋号であった[97]1976年11月には不二雄もビザが下り、渡米することができた[100]。デール、スター両名は「ヨシムラレーシング」を「デール・スター・エンジニアリング」と改名し、独自に製品を製造、販売していたが、結局倒産した[100]。しばらくしてデール・アレキサンダーは職業上の立場を利用し、秋川で購入した商品を税関を通さず密輸し、不正な利益を得ていたとして裁判にかけられ、罰金50,000ドルが課せられた[101]。そして2年後には心臓麻痺を起こして死んだ[101]

スズキとのパートナーシップ

2009年のヨシムラが製作したレース車両(スズキ・GSX-R1000)

1976年、吉村はウェス・クーリーと契約し、アメリカでのレース活動にカワサキ・Z1で参加していたが、レギュレーションによってフレーム加工が制限されていたことから剛性不足に悩まされていた[102]。エンジンの性能を上げれば上げるほどコーナリングが安定しないという状況であった[102]。そんなある日、吉村は「Cycle」というアメリカのモーターサイクル専門誌に掲載されていた、スズキが初めて開発した並列4気筒の4ストロークエンジンを搭載する、GS750というオートバイに興味をもった[103]。USスズキに問い合わせをしてしばらく経った8月、スズキ側から開発責任者が渡米しているので会ってみないかという提案があった[104]。こうして吉村はサンタフェスプリング英語版で横内悦夫と会うことになった[104]

横内も吉村のことはホンダやカワサキの車両を手掛ける4ストローク専門のチューナーとは知っていたが、スズキが2ストロークエンジン車しか製造していなかったため、その程度の接点しかこれまでもたなかった[105]。だが、スズキ初の4ストローク4気筒車として売り出すためにGS750もレースに出場することを前提に開発していたが、人員や経験不足が否めなかったため、吉村に興味を持ったのだった[106]。吉村と横内の間に多くの言葉や契約書はなかったが[107]、お互いの関係はスズキの車両でレースに参加し[108]、スズキのキットパーツの開発にヨシムラが携わるという形で2012年現在においても引き継がれている[109]

社屋炎上

1976年11月に不二雄が無事合流し、YOSHIMURA R&Dはアメリカでの基盤を確立しつつあった1977年2月18日、3月のデイトナ参戦を目前に火災は起こった[110]。ノースハリウッドの工場でシャーシダイナモを使ってZ1のエンジンテストをしていた際にセルモーターがショートを起こし、散った火花がガソリンに燃え移り火災が発生した[110]。吉村は消火器で消火を試みるもこれに失敗。爆発を防ぐためガソリンタンクを外に持ち出そうとした[110]。ようやく脱出するも顔から腕にかけての火傷が酷く、病院に搬送後急遽太ももから皮膚の移植手術が行われた[111]。治療やリハビリは直江と二人三脚で行われ、この時の二人の姿はアメリカ人たちの感動を呼び、地元の新聞にも掲載された[111]。しかし、吉村は時折「俺はもういないと思え」など不安な行動をとり、当時の吉村のおかれた心境を直江は以下のように述懐している[112]

口には出さなかったけど、火傷が痛かったのと、自分が火事を起こしてしまったという苦しさの両方だったんだと思います。商売が失敗して、ようやく再開していよいよデイトナという矢先だったから思いつめていたんでしょう。 — 吉村直江、ポップ吉村の伝説

不二雄も大変であった。工場は事務所を除いて全焼し、マシンも失ってしまったためデイトナへの出場を断念することも検討したが、ウェス・クーリーや同じレースに出る敵同士のはずのレグ・プリッドモア英語版クック・ニールソン英語版らの励ましを受け、デイトナ出場を決意した[113]。あり合わせのパーツでマシンを組むことはできたが、予選で最速タイムを記録するも決勝では3位に終わった[114]。優勝は吉村の見舞いにも訪れていたクック・ニールソンであった。しかし、優勝を逃してもデイトナに現れたYOSHIMURA R&Dに観客は惜しみない喝采を送り、不二雄も吉村に代わって総指揮という大役を務めた事は自信にもつながった[114]

火事の被害は大きかったが、保険に加入していたため工場の物件や治療費は保険でまかなうことができた[115]。吉村はYOSHIMURA R&D設立当初、保険の加入すら渋っていたため、不二雄の勧めによって加入していなければあの時点でヨシムラは終わっていただろうと後に語っている[115]

AMAスーパーバイク参戦

スズキ・GS1000

1977年6月に2台のGS750が吉村の下に届く頃には吉村は以前の状態を取り戻しており、参戦に向け作業は開始された[115]。GS750のAMAスーパーバイク選手権公式戦デビューは8月11日オンタリオでのテストを経た9月11日、ウェザーテック・レースウェイ・ラグナ・セカであった[116]。スティーブ・マクラーフィンの搭乗するGS750は吉村の手によってチューニングされ、944ccまでボアアップされたエンジンの最高出力はノーマルの68psから125psまで高められていた[116]。同時に出場していたウェス・クーリーの乗るZ1はリタイアしたが、GSは初勝利を手に入れた。次戦、10月2日にリバーサイドで行われたシリーズ最終戦ではZ1が優勝、GSはクラッチトラブルに見舞われリタイアに終わった。1977年に入ってからはZ1に対抗する形でスズキ・GS1000の開発も開始されており、秋に完成した試作車両は吉村の下へも送られ、以降の主力として活躍した[117]

デイトナ制覇

1978年のデイトナスーパーバイクにヨシムラは、マクラーフィンのGS1000、クーリーのZ1、加藤昇平のGS750の3台体制で臨んだ[118]。この年より集合管の装着がレギュレーションで認められたため、早速専用に作られた集合管がGS1000にも装着された[118]。予選ではZ1がフレームを森脇の手掛けたフレームに変更した事が功を奏し、これまでのコーナーリング時の不安定さが解消されており、第1ヒートで優勝[119]。第2ヒートでは加藤昇平が優勝した。GS1000はクランクシャフト破損によりリタイアに終わったため、決勝は最後尾からのスタートになった。

決勝では加藤とクーリーが先頭争いを演じるものの、4周目に電装系のトラブルにより加藤がリタイア。マクラーフィンは最後尾から猛然と追い上げ、6周目にはクーリーも抜いてトップに躍り出た。ワンツーを期待したヨシムラ陣営であったが、GS1000が跳ね上げた石がZ1のオイルクーラーを破壊する事態が発生し、クーリーはそのままリタイア[120]。マクラーフィンはそのまま優勝を果たしたが、クールダウンラップ中にまたしてもクラッチを損傷し、以降ヨシムラの手掛けるGS1000はクラッチトラブルとの戦いを強いられた[120]


注釈

  1. ^ 当時で家を一軒建てられるほどの金額であった。
  2. ^ 開業当初の富士スピードウェイに設置されていた30度バンクと呼ばれるコーナーにはセーフティーゾーンが設けられておらず、実際に10月17日の二輪の日本グランプリの5ヶ月前、1966年5月3日に行われた四輪の日本グランプリでは、永井賢一によるレース中の死亡事故が発生していた。その後もこの30度バンクでは1973年に中野雅晴、さらに1974年には風戸裕鈴木誠一の両名が亡くなるという死亡事故が相次ぎ、結局1974年に廃止が決定された。
  3. ^ 移転当初は秋多町、後に秋川市となり、2013年現在はあきる野市
  4. ^ YOSHIMURA R&D社屋を焼失し、仕事が出来なくなった際には渡辺末広を自身が率いるディクソンレーシングで引き受けるなどの支援も行った。
  5. ^ 後にヨシムラでも走ることになるグレーム・クロスビーはロス・ハナンの下で走っているところを森脇によって才能を見出され、スカウトされた。
  6. ^ 後のインタビューで浅川邦夫は、ヨシムラパーツショップ加藤から加藤昇平、大矢幸二、ヨシムラR&D(加藤昇平が吉村由美子と結婚するまで活動していた「厚木ハイスピード」というレーシングチームが結婚を機に形を変えたものでアメリカのYOSHIMURA R&Dとは別のもの)に所属していた友人の加藤、パーツショップ加藤によく来ていた座間キャンプに所属するアメリカ人のウィル、デロー・マーチン、アメリカから吉村秀雄、吉村不二雄、クーリー、ボールドウィン、これに浅川を加えた10人でオートバイに関わることが出来る人間はすべてだったと語っている。
  7. ^ 4ストローク750cc以下、または2ストローク500cc以下の公道用市販車をベースにした改造オートバイによって競われるクラス。
  8. ^ 4ストローク400cc以下、または2ストローク250cc以下の公道用市販車をベースにしたオートバイによって競われるクラス。

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  202. ^ 文庫版 ポップ吉村の伝説 下 PP.312-315
  203. ^ ポップ吉村の伝説 P.32
  204. ^ ポップ吉村の伝説 P.33
  205. ^ ポップ吉村の伝説 P.34
  206. ^ ポップ吉村の伝説 P.464
  207. ^ AMAスーパーバイクLegends P.135
  208. ^ Road Rider 2005年11月号 ザ・8耐 Machines PP.44-45






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