ヤングおー!おー! ヤングおー!おー!の概要

ヤングおー!おー!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/27 14:55 UTC 版)

ヤングおー!おー!
YOUNG OH! OH!
ジャンル バラエティ番組
出演者 桂三枝(現:6代目桂文枝
笑福亭仁鶴
斎藤努
川村龍一
横山やすし・西川きよし
月亭八方
オール阪神・巨人
明石家さんま
桂文珍
島田紳助・松本竜介
ほか、#出演者も参照。
製作
プロデューサー 中邨秀雄
林裕章
制作 毎日放送
放送
放送国・地域 日本
放送開始から1969年9月まで
放送期間1969年7月3日 - 1969年9月25日
放送時間木曜日 20:00 - 20:56[1]
放送分56分
1969年10月から1975年3月まで
放送期間1969年10月5日 - 1975年3月30日
放送時間日曜日 18:00 - 18:55[1]
放送分55分
1975年4月から1982年3月まで
放送期間1975年4月6日 - 1982年3月27日
放送時間日曜日 17:30 - 18:25
放送分55分
1982年4月から放送終了まで
放送期間1982年4月3日 - 1982年9月19日
放送時間日曜日 13:00 - 13:55
放送分55分
テンプレートを表示

概要

沿革

1969年7月3日開始。落語家の桂三枝(現:6代目桂文枝)と、当時MBSアナウンサー斎藤努がパーソナリティを務めていた公開収録形式のラジオ番組歌え! MBSヤングタウン』のテレビバージョンとして制作された[1]。当時は若者向けのテレビ番組がなく、この番組を「若者の“電波解放区”」と名付け、「彼らが興味のありそうなものを雑誌のように、ブロック構成で見せる」ことをはかり、多彩なコーナーを短時間で次々見せていく形式を作った[1]。初代司会は、三枝に加え笑福亭仁鶴が担当し、すぐに横山やすし・西川きよしが加わった。初代進行役は斎藤が務め、のちにMBSのアナウンサーが歴代務めた[1]

当時ディレクターだった林誠一は、コメディドラマが主流だった従来の在阪局のお笑い番組について「大阪の人気者は必ず役名が肩書につく。だから番組が終わればおしまいになる」と気づき、そのアンチテーゼとして「タレント個人のパーソナリティー」を重視する演出を図った[1]。また、強力な裏番組であった朝日放送の『てなもんや一本槍』にチャンネルを変えさせまいと、番組開始直後に仁鶴に「ごきげんようー」と絶叫させ、画面に釘付けにさせる工夫を図った[1]。同番組は放送開始後、たちまち人気を獲得し、番組開始2年目の1970年には日本民間放送連盟賞テレビ娯楽番組部門銀賞を受賞するに至った[1][3]

吉本興業所属の若手芸人にとっての登龍門的番組で、1950年代後半から1970年代前半まで松竹芸能の独走状態であった上方演芸界の勢力図を、当番組のヒットにより現在の吉本中心へと大きく塗り替えることとなった。この番組で全国区の人気者へと上り詰めた仁鶴と三枝は、3か月遅れで番組レギュラー入りし大ヒット曲『嘆きのボイン』で猛追した月亭可朝を加えて、俗に「上方落語若手三羽烏」と呼ばれた[1]。また仁鶴・三枝・やすきよは「吉本御三家」と並び称された。ほかにもこの番組を「出世作」として人気に火が付き、全国進出のきっかけを作ったタレントは多く、明石家さんまが、ブレイクのきっかけとなるプロ野球の投手小林繁ものまねをテレビで初披露した番組でもある。

番組内で芸人複数によるユニットを結成し、若手の売り出しを図るという番組フォーマットは、吉本独特のスター工法としてのちに定着し、ダウンタウン司会で心斎橋筋2丁目劇場より生中継された『4時ですよーだ』(毎日放送、1987年 - 1989年)、さらにはナインティナインを中心とした「吉本印天然素材」などでお家芸として定着していくことになる。

同番組は吉本興業が『よしもと新喜劇』等の劇場中継番組以外で放送番組の制作に携わった初めての番組である。きっかけは当初の同番組の収録会場であったうめだ花月の改修であった。当時の劇場中継番組では、劇場前のバス停に2台の中継車を停めて放送していたが、駐車違反に当たるため、警察に指導を受け、中継車の駐車場所を劇場東側の新御堂筋に変え、長いケーブルを引いて対応することになったが、付近の小学校の改築工事のためにそれが不可能になっていた。そこで吉本は中継機材を放送局から安価で買い取り、うめだ花月の中に設置することにしたことから、劇場自体が放送局並みの中継機能、即ち放送番組の制作機能を持つことが可能となった[1]。収録場所は後にうめだ花月から中之島のSABホール(のちのリサイタルホール2007年閉鎖)へ移り[1]、末期にはMBS千里丘放送センター内のミリカホールからの公開生放送で行われた。大阪での収録・生放送のほか、月に1回の割合で関東地方での収録があり、ネット局の制作協力による日本各地の地方公開録画もあった。

1980年9月末の放送をもって、司会を10年以上担当した三枝が、若手芸人へ道を譲ることを理由として降板し、同時に進行役の近藤光史アナウンサーも降板した。同年10月より、三枝直々の指名によりさんまがメイン司会者に昇格するとともに、そのアシスタント役としてさんまの同期に当たる島田紳助・松本竜介、近藤の後継の進行役として青木和雄アナウンサーがそれぞれ起用された。1982年4月からの最末期はさんま・紳竜に加えて、レギュラー出演していたオール阪神・巨人太平サブロー・シローも司会陣に昇格し、4組のうち3人が週替りで総合司会を担当。また川村ひさしも同改編を機に番組を降板している。

最終回(1982年9月19日)は、エンディングで「今回でお別れ!」と言ったあと、ラストでスタッフクレジットと共に、スタート当時の当番組における若かりし頃の三枝、ザ・パンダ、斎藤らの姿(後述の理由からVTRが現存しておらず、白黒写真を使用)を背景にして別れのメッセージとした。

2012年7月29日に、NHK BSプレミアムで放送された、『桂三枝のすべて 〜6代目桂文枝襲名〜』の中で、当時の出演者・三枝や「ザ・パンダ」のメンバー(四代目小染は故人のため弟弟子の四代目林家染丸が代理)が出演し、当時行われていた大喜利「あたかも読書」が再現された。

内容

会場に観客を入れて行う公開放送形式で、吉本興業の若手芸人と一般視聴者(観客)によるゲーム企画、吉本の芸人によるコント・漫才、ゲストのアイドルの歌とトークなどのコーナーから成った。日曜夕方時代は、17時台に『笑点』(日本テレビ)、18時台に『レッツゴーヤング』(NHK)が裏番組として放送されており、それぞれを意識した番組構成となっていた。東京を地盤とするタレントも多く出演し、中には東京キー局制作の番組でも出演しない大物のアーティストが突如登場することもあった。

視聴者は前もってネット局宛に観覧したい旨のハガキを送れば、抽選の上、放送の模様をホール会場で直接見ることができた。条件はハガキ1枚につき3人一組の応募で、これは「三人集まれば必ず騒いでくれる[1]」というスタッフの計算であった。当選者にはスタッフから視聴者宛に当選通知票(いわゆる入場整理券)が送られた。

初期には竹村健一佐藤愛子をゲストに招いての、観客の若者による討論会のコーナーがあった。

1978年から1981年の毎年5月から7月頃には、「ミス・アイドルコンテスト」が開催された。毎週5人の出場者が登場しチャンピオンを決め、さらに、グランドチャンピオン大会でグランドチャンピオンに選ばれると、賞金$1000と日本航空で行く海外旅行がプレゼントされた。しかし、番組が事前収録のため、優勝者が番組放送前に『TVガイド』に載ってしまうという出来事もあった。1980年の「ミス・アイドルコンテスト」優勝者の山本博美(現:京本政樹夫人)は、のちにタレントとしてデビューし、当番組のスポンサーである日清食品のカップラーメンのCMにも出演した。

番組内ユニットの誕生

1972年、番組内で月亭八方桂文珍、桂きん枝(現:四代桂小文枝)、四代目林家小染からなるユニット「ザ・パンダ」[1]が結成された。当時ディレクターだった林誠一によれば「お笑い版フォーリーブスという発想だった」といい、4人は実際にゲスト歌手のバックコーラスを担当するなどした。

1975年、初めてのシングルレコード「昭和大童謡・アフリカの夜/愛情ヘロヘロ」(両曲とも伊藤アキラ作詞、宮崎尚志作曲)を日本フォノグラムからリリース。

「ザ・パンダ」はのちにさんまが加入し「SOS(サニー&オオサカ・スペシャル)」に改名。一方で紳助・竜介、西川のりお・上方よしおザ・ぼんちが「チンチラチン」を結成した。1980年9月末の司会者交代を機に、「ザ・パンダ」のメンバーが番組からフェードアウトする一方、当時のMANZAIブームの時流に対応して「チンチラチン」をはじめとする若手〜中堅の漫才コンビが主要キャストとして頭角を現し始め、番組内容の変質が強く意識されるようになっていった。

メディアミックス

  • 番組全盛期の1972年から1974年までの3年間、週刊少年ジャンプ漫画それいけジャンプでヤングおー!おー!』(作画:宮のぶなお)が連載された。
  • 1973年には東映の製作で『ヤングおー!おー!日本のジョウシキでーす!』のタイトルで映画化された(後述)。

現存映像

他の1970年代制作の番組と同様、当時はVTRの規格が2インチでテープ自体が高価・編集も煩雑だったことに加え、公開番組が故に著作権肖像権での制約も多かった事情も重なり、映像は上書き収録され局内のMBSのアーカイブ倉庫には数本を残してほとんど現存しないとされている。このうち1本(1979年4月22日放送分)は明石家さんまがトランポリンで飛び跳ねるシーン(SOS対チンチラチンのトランポリン対決)があるため、TBS系列の番組名場面集などで放送されることもある。また、開局50周年を記念して発行された社史『毎日放送50年史』(A4判・非売品、2001年発行)の付録のDVD-ROMには、斎藤努が番組を卒業した放送回の一部シーンが収められており[4]、こちらは全国の都道府県立図書館などで視聴可能である。

エピソード


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 読売新聞大阪本社文化部(編)『上方放送お笑い史』 読売新聞社、1999年 pp.277-280「ヤングおー!おー!」、pp.281-284「お笑い歌手、月亭可朝」、pp.290-293「上方落語ブーム到来」
  2. ^ 毎日放送40年史編纂室『毎日放送の40年 資料編』毎日放送、1991年、p.269
  3. ^ 日本民間放送連盟賞/1969年度(昭和44年度)入選・事績 日本民間放送連盟
  4. ^ 斎藤によるタイトルコールと三枝が斎藤へお別れのメッセージを贈るシーン、斎藤が観客席で観覧者とお別れの握手をするシーンを収録。
  5. ^ a b c 「ブランドニューサウンドBig3」と題して、お互いの楽曲を歌い合ったことがある(世良公則が原田の「シャドーボクサー」を歌い、原田がCharの「逆光線」を歌うなど)。
  6. ^ 当番組がテレビ初出演。『なめんなよ』はレコードでは元トランザムの西濱哲男の歌唱だったが、西濱が出演を断ったため、本番組では藤タカシが歌唱した。
  7. ^ 当時はTXN・メガTONネットワークの発足前であった。
  8. ^ 『福島民報』1973年10月27日付朝刊、テレビ欄。
  9. ^ 『福島テレビ開局20周年記念出版 福島テレビ20年史』福島テレビ 社史編集委員会、1983年12月25日、258頁。 
  10. ^ 北日本新聞』1975年3月30日付朝刊テレビ欄より。
  11. ^ 北國新聞』1973年6月3日付朝刊テレビ欄より。
  12. ^ a b c 『北國新聞』1979年7月21日付朝刊、テレビ欄。
  13. ^ 1982年4月4日 信濃毎日新聞 テレビ欄
  14. ^ 北國新聞』1975年4月5日付朝刊、テレビ欄。
  15. ^ 『北國新聞』1980年10月5日付朝刊テレビ欄より。
  16. ^ 愛知県と三重県では、岐阜放送のスピルオーバー制限によって視聴できる地域はごくわずかだった。
  17. ^ 「ビデオコレクション1982」1981年、東京ニュース通信社、「週刊TVガイド」臨時増刊12月2日号


「ヤングおー!おー!」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヤングおー!おー!」の関連用語

ヤングおー!おー!のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヤングおー!おー!のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヤングおー!おー! (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS