スワヒリ語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/21 02:05 UTC 版)
スワヒリ語 | |
---|---|
Kiswahili | |
話される国 |
タンザニア ケニア ウガンダ コンゴ民主共和国 ルワンダ ブルンジ ソマリア コモロ連合 モザンビーク マラウイ マヨット |
地域 | 東アフリカ |
話者数 |
~500万人(第一言語) 3000万~5000万人(第二言語) |
言語系統 | |
表記体系 | ラテン文字、アラビア文字 |
公的地位 | |
公用語 |
ケニア タンザニア ウガンダ ルワンダ |
統制機関 | 国立スワヒリ語評議会 |
言語コード | |
ISO 639-1 |
sw |
ISO 639-2 |
swa |
ISO 639-3 |
swa – マクロランゲージ個別コード: swc — コンゴ・スワヒリ語swh — スワヒリ語 |
スワヒリ語自体では、「〜語」を意味する接頭辞ki-[注釈 1]を付けてKiswahili(キスワヒリ)という。なおWaswahiliはスワヒリ語圏の人々を、Uswahiliはスワヒリの人々の文化を指す。
概要
スワヒリ語は東アフリカ沿岸地域の多くの民族の母語となっているバントゥー諸語の一つである。 数世紀にわたるアラブ系商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語にアラビア語の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約50%はアラビア語に由来する(ただし、21世紀初頭において使用されているアラビア語由来の語彙は30%程度であり、しかも英語などによって置き換えられつつあるため減少傾向にある)[2]。しかしあくまでもアラビア語の影響は語彙の借用にとどまっており、語幹はあくまでもバントゥー諸語のものであるため、ピジン言語やクレオール言語ではなく、バントゥー諸語のひとつに分類されている。また、ペルシャ語、ドイツ語、ポルトガル語、インドの言語、英語からの借用語も見られる。母語としての使用者は、ザンジバル全域で使用されているほかはケニアおよびタンザニアの沿岸部において使用されるのみであるが、現在、東アフリカでは主に第二言語として数千万人に使用されており、異なる母語を持つ民族同士の共通語としての役割を果たしている。
タンザニア、ケニアでは公用語、コンゴ民主共和国では国語に定められている。また、ウガンダは1992年にスワヒリ語を小学校の必修科目に指定し(実態は伴っていない)、2005年には東アフリカ連邦構想を念頭に公用語に指定した。スワヒリ語とその近縁の言語は、コモロのほぼ全域(コモロ語参照)、ブルンジ・ルワンダ・ザンビア北部・マラウイ・モザンビーク・ソマリア南部沿岸地域の一部でも話されている[3]。コモロ語はスワヒリ語の近縁の言語であるが、アラビア語からの借用要素がより多いものである[4]。スワヒリ語話者はかつて北はモガディシュまで広がっており、紅海南部の港市やアラビア半島南岸、ペルシャ湾岸でも通用した[5][6]。しかし、20世紀半ばまでにソマリアにおけるスワヒリ語の範囲はキスマヨ、バラワおよび周辺の海岸沿いと沖合の小島のみへと狭まり、1990年にはスワヒリ語話者を含む多くのバントゥー系が内戦を避けてケニアへ流れた。現在ソマリアに残っているスワヒリ語話者の人口は定かでない。また、アフリカ連合においては英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、アラビア語と並んで6つの公用語のうちのひとつとなっている。スワヒリ語話者の増大と言語の地位上昇に伴い、世界各国の放送局がスワヒリ語放送を開始している。スワヒリ語圏以外でスワヒリ語放送を行っている、あるいは行っていた放送局は、BBCワールドサービス、ボイス・オブ・アメリカ、ドイチェ・ヴェレ、ロシアの声、中国国際放送、ラジオ・フランス・アンテルナショナル、ラジオ・スーダン、ラジオ・南アフリカなどである。
ガスリーによるバントゥー諸語の分類法では、スワヒリ語はGゾーンに属する。
スワヒリという語は、アラビア語で「海岸に住む人」を意味する「sawāhalii سواحلي」に由来する(sawāhaliiは「sāhil ساحل」(海岸、境界)の複数形「sawāhil سواحل」の派生語)。
知られている最も古いスワヒリ語文献は、1711年にキルワ島でアラビア文字で書かれた手紙である。これはキルワ王国のスルターンが、モザンビークのポルトガル人と、地元の同盟国に向けて書いたものである。この手紙は、現在はインドのゴアにある歴史的公文書館に収蔵されている[7]。このほか、知られている最古のスワヒリ語文献の一つには1728年の『Utendi wa Tambuka』(Tambukaの物語)と題するアラビア文字による叙事詩がある。ラテン文字が一般化したのはヨーロッパ諸国による植民地化以後のことである。
スワヒリ語は「メサリ (methali)」、すなわち言葉遊び・洒落・韻文の形をとる諺・寓話の類が発達している(例:Haraka haraka haina baraka 英訳:Hurry hurry has no blessing)[8]。メサリはスワヒリラップ(Swahili rap, Swah rap)の中にも見ることができ、音楽に文化・歴史・地域的な質感を与えている。
歴史
スワヒリ語の由来
現代スワヒリ語にはアラビア語やペルシャ語以外にも英語からなどの借用語が多く含まれており、とくに語彙の5割がアラビア語であると言われている[2]ため、クレオール言語の一つと見なされているが、学説上では単一言語起源説と複数の言語的な核の存在を想定する説で分かれている。
- 単一起源説
- マインホフやレールによれば、現在のザラモ族の祖先(Washombi族)がスワヒリ族であり、スワヒリ海岸に住んでいた彼らが利用していた言語にアラブやペルシャ語の語彙が混じったものがスワヒリ語だったというものである。根拠としてはマサイ語でスワヒリ語がEnguduku ol-Ashumbaとすることがあげられている。
- 非単一起源説
- イスラーム化した海岸諸民族は、他の民族と区別されアラブ人と同一の社会を構成した。その場合14-15世紀にスワヒリ語を媒介とした薄い連帯が16世紀に完成したと見なす。その場合の発祥の中心としてラム島を想定するクルムなどがいるが、アラビア人の最初の逗留地はソマリア海岸であることから反論されている。
発展・伝播
上記のようなさまざまな説があるものの、アフリカ東部沿岸にポルトガルが来航した16世紀初頭までにはスワヒリ語としてある程度整った言語体系がすでに成立していたと考えられている。しかし、その範囲はそれほど広いものではなかった。スワヒリ語が沿岸部全体に拡散していくのは、ポルトガルがこの地域の覇権を握った16世紀からと考えられている。アラブ人がポルトガルによって排除されたことから、それまでこの地域の商業用言語であったアラビア語の影響力が衰退し、かわってスワヒリ語が商業言語として台頭してきた。スワヒリ語を母語とするシラジ人がこのころザンジバルを中心に勢力を拡大しているのもスワヒリ語拡散の一因となった。17世紀にはポルトガルに代わってアラビア語を母語とするオマーンのヤアーリバ朝がこの地域の覇権を握るが、ほどなくしてオマーン本土で混乱が生じたため強力な統治を行うことができず、文化的影響はそれほど大きくなかった。
こうしてイスラーム化した海岸部を中心に海岸部諸都市の母語となったスワヒリ語は、1800年ごろから内陸部への伝播がはじまる。海岸部と内陸部との交易がさかんとなり、とくに海岸部のザンジバルシティに本拠を置いたオマーン王国ブーサイード朝のサイイド・サイード王の下でキャラバン交易は急拡大する。奴隷や象牙などを求めて内陸部にキャラバンが分け入っていき、それに伴ってリンガフランカとしてのスワヒリ語の拡大が始まった。1880年代にキリスト教の宣教師によってスワヒリ語のラテン文字表記が開発されると、それまでアラビア文字を通してあったイスラム教との強いつながりが弱まり、純粋な交易用言語となったスワヒリ語はキリスト教徒などにも受け入れやすいものとなった[9]。19世紀末になるとザンジバル・スルタン国領だった海岸部はイギリスとドイツに分割されたが、両国ともに支配用の言語としてスワヒリ語を重視し、積極的な普及を行った。第一次世界大戦が終わり、ドイツ領だったタンガニーカがイギリス領となると、イギリスはこの地域を英領東アフリカ植民地としてまとめ、域内のリンガフランカとしてスワヒリ語を利用した。
しかし、この時期までのスワヒリ語は方言の連続体であり、いわゆる標準語が存在しなかった。そこで1928年6月にモンバサで東アフリカの植民地間会議が行われ、そこで標準語採用が正式決定された。候補はケニアのモンバサ方言とザンジバルのザンジバル都市部方言であったが、イスラムと結びついているモンバサ方言に対し交易用言語としてより広範囲に広がっていたザンジバル都市部方言のほうが好適と判断され、1930年には領土間言語委員会が設置されてザンジバル都市部方言を元とした標準語制定が開始された。この委員会にはスワヒリ母語話者が存在しなかったが、これによって正書法が確立され、また辞書編纂などによって標準スワヒリ語はこの時期に確立した[10]。
注釈
出典
- ^ http://wikisource.org/wiki/Baba_yetu
- ^ a b 「アラビア語の世界 歴史と現在」p478 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷
- ^ Nurse & Thomas Spear (1985) The Swahili
- ^ 田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 p197 ISBN 4254166621
- ^ Kharusi, N. S. (2012). The ethnic label Zinjibari: Politics and language choice implications among Swahili speakers in Oman. Ethnicities 12(3) 335–353, http://etn.sagepub.com/content/12/3/335
- ^ Adriaan Hendrik Johan Prins (1961) The Swahili-speaking Peoples of Zanzibar and the East African Coast. (Ethnologue)
- ^ E.A. Alpers, Ivory and Slaves in East Central Africa, London, 1975, pp. 98–99 ; T. Vernet, "Les cités-Etats swahili et la puissance omanaise (1650–1720), Journal des Africanistes, 72(2), 2002, pp. 102–105.
- ^ Lemelle, Sidney J. "'Ni wapi Tunakwenda': Hip Hop Culture and the Children of Arusha." In The Vinyl Ain't Final: Hip Hop and the Globalization of Black Popular Culture, ed. by Dipannita Basu and Sidney J. Lemelle, 230-54. London; Ann Arbor, Michigan. Pluto Pres
- ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)pp244-247
- ^ 「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp388-392 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷
- ^ Taathira za Kiarabu katika Kiswahili pamoja na kamusi thulathiya (Kiswahili-Kiarabu-Kiingereza) / I. Bosha ; edited by A.S. Nchimbi Dar es Salaam : Dar es Salaam University Press 1993
- ^ 『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日、初版第1刷、p.232
- ^ 「現代アフリカの民族関係」所収「民族の共存・交流のかたち 一九七〇年代、コンゴ(旧ザイール)東部における多言語併用の動態から」赤坂賢 2001年、ISBN 4-7503-1420-X、pp.248-249
- ^ 『民主主義がアフリカ経済を殺す: 最底辺の10億人の国で起きている真実』p92-93、甘糟智子訳、日経BP社、2010年1月18日
- ^ 「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp407-409 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷
- ^ 「事典世界のことば141」p496 梶茂樹・中島由美・林徹編 大修館書店 2009年4月20日初版第1刷
- ^ 「ケニアを知るための55章」pp228-229 松田素二・津田みわ編著 明石書店 2012年7月1日初版第1刷
- ^ 「言語的多様性とアイデンティティ、エスニシティ、そしてナショナリティ ケニアの言語動態」品川大輔(「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」所収 pp335-336 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷
- ^ 「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp352-354 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷
- ^ 「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」p240 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷
- ^ http://www.sfs.osaka-u.ac.jp/jpn/edu_fl_swa.html 大阪大学外国語学部スワヒリ語専攻
- ^ 「アフリカ学入門 ポップカルチャーから政治経済まで」p311 舩田クラーセンさやか編 明石書店 2010年7月10日初版第1刷
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